Henri Pousseur - Scambi (1957)
近年の器楽曲の中には、解釈者に許された演奏上の特殊な自立性によって特徴づけられる作品がいくつか認められる。そこでは、解釈者は、伝統的音楽の場合のように、作曲者の指示を自己の感受性に応じて自由に解釈できるのみならず、しばしば楽音の持続や継起を創造的な即興行為において決定することによって、作品の形に介入することさえ要求される。よく知られているものの中からいくつか例を挙げてみよう。
[…]アンリ・プスールは自作の『交換(スカンピ)』について次のように述べている。「『交換』が構成するのは一つの楽曲というよりはむしろ可能性の場、選択への誘いなのである。それは一六の部分から成っており、これらの部分はそれぞれ二つの異なる部分と組合せることができるが、だからと言って音響生成の論理的連続性が危くされることはない。つまり二つの部分には、同様の始まり方をして別様の展開を見せるものもあれば、同じ終り方ができるものもある。どの部分から始めることも終えることもできるため、演奏の結果として非常に多くの継時的組合せをとることが可能になる。要するに、同時に始められる二つの部分は、時間的に重ね合せられ、より複雑な構造的対位法を生じさせることができるのである。このような形式上の提案がテープに録音され、そのまま販売される場合を思い描くこともできよう。かなり高価な音響装置を駆使するなら、聴き手たち自身が録音されたものに対し未聞の音楽的想像力を働かせ、音素材と時間についての新たな集団的感受性を行使することができるであろう」。[…]
この種の音楽的伝達と、古典的伝統において我々がなじんできた音楽的伝達との差異は一目瞭然である。簡単に言えば、この差異は次のように公式化されうる。つまり古典的な音楽作品は、バッハのフーガであれ、『アイーダ』であれ、『春の祭典』であれ、作曲者が一定の完結した仕方で組織して聴き手に提示するか、あるいは作曲者が構想した形が実質的に再現されるべく、演奏者を導くのに適した慣習的記号に移し変えるかした、音響的現実の総体において存する。一方、これらの新しい音楽作品は、完結した一定のメッセージにおいて存するのでも、一義的に組織された形において存するのでもなく、解釈者に委ねられた様々な組織化の可能性において存するのであり、それゆえ、一つの所与の構造的方向で再生され理解されることを求める完成した作品としてではなく、解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品として提示されるのである。
[…]
〈開かれた〉 作品の詩学は、プスールが言うように解釈者の中に意識的自由行為を助長させ、彼を無尽蔵の関係からなる網目の能動的中心として措定しようとする。 解釈者は、この関係のただ中で自分自身の形を創設するのであって、享受する作品の確定した組織様態を彼に命ずる必然性により、決定されるのではない。しかしながら、その概略を示した〈開かれ〉という用語のより広い意味内容に依拠する場合に、異論として予想されるのは、少なくとも、どのような芸術作品であれ、解釈者がそれを、作者自身と適合した行為において再創造しないならば、真に理解することはできないのであるから、芸術作品は、たとえ実質的に未完成なまま託されることはないとしても、自由で創意ある応答を要求する、ということである。 それでもこの異議は、現代美学が、解釈関係なるものについての成熟した批判的自覚に達してからはじめて実現した認識を構成するのであり、数世紀前の芸術家は確かに、この現実を批判的に意識するどころではなかったのである。ところが、今日では逆に、そのような自覚が、まずもって芸術家に存在しており、彼は〈開かれ〉を事実上不可避の与件として忍受するかわりに、それを生産のプログラムとして選択し、それどころかできる限り大きな開かれを助長させるべく作品を提示するのである。
解釈関係というもの自覚した芸術家や模倣者がいかに自我を保つか、こういう問題はあまりエーコによって考えられていないような気がするのではある。エーコを大学時代に90年代に新しいものとして読んだわたくしのような人間が感じ取ったのは、そういうことであったような気がする。で、作品と解釈と切り離すのではなく、作品を人格化して攻撃する作法が広がっていったと思われる。これは不可避的なものである。そもそも人々は、プスールの作品を「開かれた作品」として取らず、何か、人の為業として受け取るわけだ。
にもかかわらず、学術的な公式見解としては、解釈と人を切り離す作法が言説や作品を扱うときの前提となった。で、それを機械的に小学校から教えこまれた人々が増えていった。で、人の為業にすると自分がその人にビビってしもうてる現実をみとめる場合、そのときだけ、言説が人の手によっては創られがたいことを主張するようになった。そこにAIのような空気とデータしか読めない現代人の似姿の登場である。
東★紀氏がAIのGrokをブロックしたとか言っていた。オヤジギャグではなくほんとにブロックしてそうであったが、東氏の長所は、AIでも誰かの馬鹿ツイートでも容赦なく人として扱っているところであって、われわれはこのことを忘れがちである。国家もシステムも本も学説も「人」である。ちゃんと喧嘩すべきなのであった。
近年の器楽曲の中には、解釈者に許された演奏上の特殊な自立性によって特徴づけられる作品がいくつか認められる。そこでは、解釈者は、伝統的音楽の場合のように、作曲者の指示を自己の感受性に応じて自由に解釈できるのみならず、しばしば楽音の持続や継起を創造的な即興行為において決定することによって、作品の形に介入することさえ要求される。よく知られているものの中からいくつか例を挙げてみよう。
[…]アンリ・プスールは自作の『交換(スカンピ)』について次のように述べている。「『交換』が構成するのは一つの楽曲というよりはむしろ可能性の場、選択への誘いなのである。それは一六の部分から成っており、これらの部分はそれぞれ二つの異なる部分と組合せることができるが、だからと言って音響生成の論理的連続性が危くされることはない。つまり二つの部分には、同様の始まり方をして別様の展開を見せるものもあれば、同じ終り方ができるものもある。どの部分から始めることも終えることもできるため、演奏の結果として非常に多くの継時的組合せをとることが可能になる。要するに、同時に始められる二つの部分は、時間的に重ね合せられ、より複雑な構造的対位法を生じさせることができるのである。このような形式上の提案がテープに録音され、そのまま販売される場合を思い描くこともできよう。かなり高価な音響装置を駆使するなら、聴き手たち自身が録音されたものに対し未聞の音楽的想像力を働かせ、音素材と時間についての新たな集団的感受性を行使することができるであろう」。[…]
この種の音楽的伝達と、古典的伝統において我々がなじんできた音楽的伝達との差異は一目瞭然である。簡単に言えば、この差異は次のように公式化されうる。つまり古典的な音楽作品は、バッハのフーガであれ、『アイーダ』であれ、『春の祭典』であれ、作曲者が一定の完結した仕方で組織して聴き手に提示するか、あるいは作曲者が構想した形が実質的に再現されるべく、演奏者を導くのに適した慣習的記号に移し変えるかした、音響的現実の総体において存する。一方、これらの新しい音楽作品は、完結した一定のメッセージにおいて存するのでも、一義的に組織された形において存するのでもなく、解釈者に委ねられた様々な組織化の可能性において存するのであり、それゆえ、一つの所与の構造的方向で再生され理解されることを求める完成した作品としてではなく、解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品として提示されるのである。
[…]
〈開かれた〉 作品の詩学は、プスールが言うように解釈者の中に意識的自由行為を助長させ、彼を無尽蔵の関係からなる網目の能動的中心として措定しようとする。 解釈者は、この関係のただ中で自分自身の形を創設するのであって、享受する作品の確定した組織様態を彼に命ずる必然性により、決定されるのではない。しかしながら、その概略を示した〈開かれ〉という用語のより広い意味内容に依拠する場合に、異論として予想されるのは、少なくとも、どのような芸術作品であれ、解釈者がそれを、作者自身と適合した行為において再創造しないならば、真に理解することはできないのであるから、芸術作品は、たとえ実質的に未完成なまま託されることはないとしても、自由で創意ある応答を要求する、ということである。 それでもこの異議は、現代美学が、解釈関係なるものについての成熟した批判的自覚に達してからはじめて実現した認識を構成するのであり、数世紀前の芸術家は確かに、この現実を批判的に意識するどころではなかったのである。ところが、今日では逆に、そのような自覚が、まずもって芸術家に存在しており、彼は〈開かれ〉を事実上不可避の与件として忍受するかわりに、それを生産のプログラムとして選択し、それどころかできる限り大きな開かれを助長させるべく作品を提示するのである。
――エーコ「開かれた作品」(和田忠彦他訳、1990)
解釈関係というもの自覚した芸術家や模倣者がいかに自我を保つか、こういう問題はあまりエーコによって考えられていないような気がするのではある。エーコを大学時代に90年代に新しいものとして読んだわたくしのような人間が感じ取ったのは、そういうことであったような気がする。で、作品と解釈と切り離すのではなく、作品を人格化して攻撃する作法が広がっていったと思われる。これは不可避的なものである。そもそも人々は、プスールの作品を「開かれた作品」として取らず、何か、人の為業として受け取るわけだ。
にもかかわらず、学術的な公式見解としては、解釈と人を切り離す作法が言説や作品を扱うときの前提となった。で、それを機械的に小学校から教えこまれた人々が増えていった。で、人の為業にすると自分がその人にビビってしもうてる現実をみとめる場合、そのときだけ、言説が人の手によっては創られがたいことを主張するようになった。そこにAIのような空気とデータしか読めない現代人の似姿の登場である。
東★紀氏がAIのGrokをブロックしたとか言っていた。オヤジギャグではなくほんとにブロックしてそうであったが、東氏の長所は、AIでも誰かの馬鹿ツイートでも容赦なく人として扱っているところであって、われわれはこのことを忘れがちである。国家もシステムも本も学説も「人」である。ちゃんと喧嘩すべきなのであった。