
しかし、その瞬間、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。
そのとき、お日さまが海からのぼりました。やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上を、あたたかく照らしました。人魚のお姫さまは、すこしも死んだような気がしませんでした。
――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)
人魚姫の話を読んで、恋愛はコスパが悪いなどと言う人はいないであろうが、いやいるかもしれない。考えてみたら、人魚が人間と結ばれると泡になってしまうみたいな条件は、話を一気に悲劇的にするためにコスパがよいといえるかもしれない。アンデルセンのせっかちさは誰もが感じるところではある。
そういえば、「Z世代はコスパ病」みたいなこと言う人はけっこういるが、コスパみたいな言葉によってそういう観念を所持する人が多くなったことは確かにあるかもしれない。しかし、損得で行動を決めたりする人なんかむかしからたくさんいた。そして勉強や学問に関しては、非常にいまいちな人の特徴そのものだったではないか。いまでもそうだろう。
コスパもそうだしコミュニケーションもそうだが、我々の社会に即してそれをどのような日本語に置き換えるべきか考えなくなってから、なにか倫理的判断の吟味のないままそれが武器として振り回される現象が起きてる気がする。
昭和的根性論の象徴みたいになってる反復練習や千本ノック的なやりかたは、科学がなかったからやっていたのではなく、集団の組織化や習熟にとってコスパがよさそう、あるいは実際によい場合もあったからやっていたのであって、その形式的な実践が暴走したりするのは、コスパを意識しすぎてなにもかもうまくいかなくなる現在の人々と全く同じなのだ。そして、ほんとは、コスパが悪いとかいうて合理的に振る舞おうとする人はいつもこれ以上失敗して傷つきたくないとか、そういう心理なんじゃないのか?昭和とか科学性とか言い訳にすぎない。
コスパがよいというのに一番近いのは「要領がよい」というやつではなかろうか。しかし、「要領」とは、辞書的な意味で言っても、要点のことであって、「要領がよい」というのは、本来、うまく物事が作動するための構造をつかむみたいな能力に優れているということである。すなわち、これは結構倫理的で知的な作業なんだと思うが、通俗的な「要領の良さ」が「ずる」に近くなるのは、その倫理性と知性が欠落しているからである。例えば、作品の要約をつくるのは倫理的で知的な作業で、これが出来ないのにいきなり批評に飛躍すると悪口やエゴの発露になってしまうのと同じである。要約や梗概を創る練習を軽視して、対話とかやっててもどんどん何かが劣化して行くのは当たり前ではないだろうか。