さぬきいろいろ39
この奥の姿を見るに、京には目なれず、 田舎にもあれ程ふつつかなるは又あるまじ。その殿のうつくしさ、今の大内にも誰かはおよびがたし。 我いまだ何心もあるまじきと、二人の中に寝さされて、たはぶれの折からは心にをかしくて、「我もそんな事は三年前よりよく覚えし物を」と歯切りをしてこらへける。さびしき寝覚めに、かの殿の片足、身にさはる時、もは何の事もわすれて、内儀の軒ききすまし、殿の夜着よりしたに入りて、その人をそそなかして、ひたもの恋のやめがたく、程なくして、「さても油断のならぬは都、我が国かたのあの時分の娘は、いまだ門にて竹馬に乗りあそびし」と、大笑ひをいとまにして、又親里に追ひ出されける。
似たような映像作品がたくさんあるような気がするが、――都のせいにされているところが今と違うところであろう。いまだってそんなかんじでなんでもかんでも都のせいにすれば結構楽な気もするのだ。実際、都のせいなことはおおいわけだし。
我々はいつも因果律を人生に持ち込まざるを得ない。今日は起きてテレビつけたら、池田エライザさんが松田聖子さんの歌をでかいギター抱えて歌ってたからいいことありそうだと思ったが、いろいろやったり寝たりしていたらもう次の日が近づいている。
わたくしぐらいになると、前後の並びにもすべて何か理屈をくっつける。例えば、イーロンマスクが宇宙に行くつもりみたいな番組の直後に「おにぎり」についての番組が続くNHK。前者を後者が否定しているとみてよいだろう。
浅田彰って云うのは、近代日本の生み出した成果だね。ぜひ民族の記念碑にすべく剥製にしてゼロ戦の隣りに飾るべきだな。
――福田和也『罰あたりパラダイス「中公文庫」特別出張版』
アイロニーのために自分の恐ろしい因果律癖をナショナリズムのふりをしてたたき出すいつもの福田氏であるが、これは一種の自殺なのだ。
牧野静氏の本――宮沢賢治と仏教の関係に関する――を遅ればせながら点検いたす。昨年やっておくべき仕事であった。後悔だけが因果律を破壊する。人生はその破壊に宿る。――大学の時に、ビリヤードにつれていってもらって、はじめてやった。で、すごい才能だこれからずっとやってみないかと言われたが、わたくしは同じような体験をたくさんしており、しかしいまの職業にたいしてだけは言われたことがなく、完全に人生間違えている可能性が高い。が、人生こんなかんじなのではないだろうか。
無理やり、人生を自分の意志に結びつけようとすると、次のようになる。――わたくしは幼少期から無理に食事させようとすると無理に食べさせるなみたいな反抗的な態度であったらしいのだが、立って歩きだすのも普通よりもおそかったという。思うに、二足歩行に対しても反抗していたといへよう。こんな感じである。
今日、決裂前のNHKと小澤のメシアンの演奏がFMでやってた。かんがえてみると、小澤征爾って、メシアンとかストラビンスキーとか脱近代的な何かにすごい演奏が多い。ほんとはブラームスとかベートーベンはよくわかんねえなと思っていたのかもしれんと妄想した。わたしが、満州国を理想郷と構想した彼の父親との関係にこだわりすぎていることは確かだ。しかし、彼の遺した演奏は、因果律をなんとなく呼ぶ力だけはあるわけだ。
四五日は現にもあらず寝もせぬ枕に。物はいはざる姿を幾度かをそろしく。心にこたへ身も捨んとおもふうちに。又日数をふりて其人の事はさらにわすれける。是を思ふに女程あさましく心の変るものはなし。
女は一三歳であった。男から来た恋文のひとつは神々の名の部分だけ吉田の御社へ飛び去り、身分が低く激しい「命も取る程」の恋文を送ってきた男との関係は破滅した。男は命を取られた。女の枕元に男が立つのだが、女はなんとなくそれも忘れた。最近のおなごは薄情だ、その原因は、最近は子どもの時代が短いからだと誇張されている。四十年まえぐらいまでは女の子も十八ぐらいまでは竹馬に乗って遊んだものだから、と西鶴は言う。
西鶴のいいかたが誇張だとしても、子どもの時代を長く持つことが、恋への耽溺を妨げるのはそうかもしれない。さっき、湯山昭の「お菓子の世界」の間奏曲2「どうして太るのかしら」を弾いてみたが、まったく――今更ながら、大人になる気がしない。
美女は命を断つ斧と、古人もいへり。心の花散り、ゆふべの焼き木となれるは、何れか是をのがれじ。されども、時節の外なる朝の嵐とは、色道におぼれ若死の人こそ愚かなれ。其種はつきもせず。
好色一代女の劈頭、美女は命を絶つ斧とは、呂氏春秋から来ているらしいけれども、なんとも斧とは恐ろしく、花がちり夕方の焼き木となる勢い。それで勢い余って夕方から朝に対に飛んで嵐となる。死への欲動ではなく、性への欲動が死からの反発であって、最初の一撃は斧という女である。
ソ連の国旗には斧があり、マクベス夫人などは斧としての自分を用いたのかも知れない。そしていい加減な男に裏切られて自滅した。
主題と言うものは、人生及び個々の生命の事に絡んで、主として作家の気分にのしかかって来た問題――と見る事すら作家の意識にはない事が多い――なのである。其をとり出して具体化する事が、批評家のほんとうの為事である。さすれば主題と言うものは、作物の上にたなびいていて、読者をしてむせっぽく、息苦しく、時としては、故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気の様なものに譬える事も出来る。そうした揺曳に気のつく事も、批評家でなくては出来ぬ事が多い。更にその雲気が胸を圧えるのは、どう言う暗示を受けたからであるかを洞察する事になると、作家及び読者の為事でない。そうした人々の出来る事は、たかだか近代劇の主題程度のものである。批評家は此点で、やはり哲学者でなければならぬ。当来の人生に対する暗示や、生命に絡んだ兆しが、作家の気分に融け込んで、出て来るものが主題である。其を又、意識の上の事に移し、其主題を解説して、人間及び世界の次の「動き」を促すのが、ほんとうの文芸批評なのである。
――折口信夫「歌の円寂する時」
折口の場合、批評とは「故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気」である。やはり、斧みたいな女とは批評ではない。斧が突き刺さった人間に起こるのは浮れ心ではないとしたらなんであろう。
不明晦。初登于天。後入于地。
雉は鳴かずして晦る、はじめは天に昇り、後には地に入る。(ビギナーズクラシック「易経」)
人しれず不幸は起こり、天に昇った者もどこへやら。天にのぼったことも誰も覚えていないことも屡々である。
あまりにもくだらないことには、人は欠点によって天に昇ることがある。文章が書き手を救うというのは、場合によってはそういうことだ。柄谷行人氏なんか、一時期すごく「他者」の概念を打ち出していて、しかもどこかしら仙人風でもあったわけだが、様々な人びとによって、彼がすごく普通の他者が分からなそうな人だった、みたいな証言がなされている。気の毒ではあるが、少しは当たっているのであろう。いまだって、いいこと言ったけどそここそがあなたの欠如、みたいな人は多い。それが欠如に見えるのは、どこかで自分を雉だとか思ってしまうからであろう。本当はもっと我々は動物以上に人間である。自分ならびに自分の書いていることの関係をきちんと書ける人はそれほど多くない。このことが、人しれず思想が天に昇ったり地に入ったりする原因となる。
案外救いは、たいがい、その書き手のなかでも陳腐になったことしか書けないことかもしれない。だから、読み手にとっては、言葉通りに受け取るだけでなく、どっちに向かう可能性があるかみたいな感覚的なものだけが重要だ。しかし、これは社会的に「評価」できない。
評価はかくして、こきざみにすべての可能性をすくい取ろうとする方向性もありうるわけだが、それは上の可能性や全体性を捕らえる人のみができることである。もうそんなことを出来る社会ではないのは、周知の如くだ。教育においても、自由にやらせてもらって失敗したらこっぴどく怒られるのと、怒られないけれども褒められてんだかけなされてるのかわからない指示がすごい数あるのと、どっちが修正能力がつくかといえば、前者である。しかし、そういうことに堪えられないのが最近の社会である。おそらく、全体性=可能性というものを根本的に懼れているからではなかろうか。
私の感想に過ぎないが、――東浩紀氏じゃないけれども、自説を「修正」する能力が、面談入試みたいなものではどうも計れない、どころか積極的に看過される、という感じがする。
そういえば、いままで経験してきたなかで一番「上手だな」と思ったのは、小学校の頃、松本の山辺小学校のコンクールの合唱かなにかの実演である。いまその録音をきいたらなんてことないのかもしれない。しかし、同じ曲をやってた、近くの学校だ、同じ学年だ、みたいな条件が相手の演奏をすごく巧く感じさせる。こういう経験をすると、ベルリンフィルやウィンフィルはうまいなあとか言うてる趣味人は事態の半分しか理解していないとおもう。確かにベルリンフィルを近くで聞いたら、ほぼ恐怖みたいなうまさだったのだ。しかし、上の可能性と全体性とは、山辺小学校とベルリンフィルの二つの焦点を綜合するところででてくるのだ。どちらかだとナショナリズムとグローバリズムという対立に巻き込まれてしまう。これを老人と若者の対立といっても同じ事である。
世の中、あいかわらず若者と老人の対立で喧嘩している。例えば、若者に味方する身振りで、――時代によって言葉とか習慣が変わるとかいう一見正しそうな論理があるが、過去を振り返るとそんな簡単にはいってねえし、何が正しいかを考えるのを放棄しているという意味で、端的に阿呆なのか日和っているだけといへる。そもそも若者はだいたい勉強と経験不足でバカだし、一方、お歳をめしてくると見た目は悪いしいろいろと鈍くなってる。しかし、そんなことは批判以前に当たり前のことに過ぎず、お互い苦痛ではあるだろうが「問題」ではない。
確かにその「問題」ではない苦痛が一定水準を超えると、問題にたどり着けない社会になってしまうのはたしかなのだ。例えば、人生100年時代とかあまりに愚劣すぎて話にならないスローガンだが、確かに動作も頭もゆっくりになった人といかにつきあうかは大きな苦痛であることを否定できようがない。本人も他人もそうだ。それは多様性とかの「問題」解消するにはあまりに大変なことだ。多様性以前に同一性の崩壊で、それはさしあたり仕事のプロセスの崩壊を意味する。仕事は、同じような作業を同時に並行して同じ地点で評価してみたいなことの連鎖で成り立っているので、そこに多様性を入れるとだいたい同一性に見えるための尻ぬぐいをしていないふりして誰かが大量にやらなければいけなくなる。つまり違う意味で不公平になるわけだ。で、こういう不公平を我慢できないのはマジョリティのおごりとかではない。むしろ心優しい人がそれを引き受けているからである。だから多様性の問題にはならないと言っているのである。これは最後まで、弱い人や優しい人をいじめてしまう、差別の「問題」である。
言うまでもなく複数の選抜方式が入試に存在しているのは根本的には差別的で不公平であり、多様性の保証に結びついているとは限らない。コミュニケーション能力なんて面接で分かるはずないし、推薦入試なんか、――校内推薦をかちとるために、勉強はいまいちで部活にのめり込みもせずみたいな妙な立場で目立つ必要があり、つまりそういう特異なタイプ、むしろ選抜されないタイプを選抜してしまう皮肉な事態を起こしている。これは選抜試験に向けて走っている人間にとってフェアではない。ただ、選抜の多様性みたいな議論がでてきたこと自体は必然である。たかが大学入試の成否でなにかが左右されすぎだからだ。しかし一発勝負の試験はそういうもので、そういうものに過ぎない。そして、面接で我々が欺される愛想みたいなのはもっとそうだ。刹那の勝負なのである。この点から見れば、長い間を堪えて推薦された人間にとってフェアではない。
しかも、ほぼ生徒の自治活動だった部活ならともかく、教師の管理に依存している状態で行われている部活なんかでは、もうそこで養われる「コミュニケーション能力」は昔のイメージとは違ったものに変容していると思われる。こういう能力は長い間観察してみないとなんともいえないものだが、そこには観察者との関係が大きく作用しすぎるのである。
一方、筆記試験に必要な記憶力だってさまざまなものがつながって形成されてるし、問題によっても何らかのことが幸いしてできたりできなかったりするわけで、問題自体が全ての人間にとって公平ではないが、それを抑圧するのは知的な営為それ自体を否定することだ。教科書である程度振幅の範囲は狭められてはいるが、いつも試験範囲は漠然としたものであるほかはない部分が残る。それを記憶力とか思考力とかに抽象したり、だからこそ逆にそうでないものを筆記試験以外のもので評価しようとしたりしてしまうわけだが、――すごく現実への評価からは離れていることにかわりはない。
――結局、根本的には、大学入試が規模的に研究者・役人志望を想定したものでなくなっていることを気にしすぎて、いろいろな選別方法を考えるのはいいんだが、それによって細かな矛盾や差別がどうしようもなく起こるわけである。
人や書類を評価するときにやたらチェック項目をつくってその足し算で評価する方法も同じような事態で、これをやると、愛想がいいとか書類として整っているとか本質的にはどうでもいいことが相対的に高くカウントされてしまう傾向にあると思う。不公平をなくそうとして本質的には間違うパターンだ。恋人を選んだ理由を聞いたら「優しいところ」みたいなことを言う人っているが、それが単純そうに見得るからといって、そういう人に「もっと総合的に選べよ」とかいわない。優しさのなかにいろいろ何かあって優しさですらないかも知れないがいいものはよかった訳である。そんな単純なことがわからなくなっている社会では、非本質的な部分的評価が暴走してしまうのである。
ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 恋しき人の みまく欲しさに
十二単衣をきてみたい。
子どもの頃の読解力というのはおおらかでいいこともある。魯迅の話はたいがい日本のものだと思ってたし、ジョン・トラボルタの「グリース」みて高校ってこんなに踊ったり跳ねたりしてるのかと思って恐怖を抱いた。つい、緻密な読みとか言っているとそういうものを忘れる。考えてみると、いまも大してかわっていない読解力であるようだ。
研究の練習擬きをしたから、ユングが易経引いた部分どこだっけと思って、1分後に見つかるという僥倖、こういうのは一年に一回ぐらいある。わたくしが、紫式部オタクさんたちと違うのはこのような部分だけであろう。
「グリース」とかを思い出してみるに、日本でのギャップ萌えみたいなのは、性格と行うことの違いのような表象である思うが(適当)、アメリカの女子高校生は、お姫様とストリートガールのごとき、恐ろしい両面性が期待されてそうだ。そりゃ女学生も暴れざる得ないわけだ。Taylor Swiftを初めて聴いたが、実に体幹がしっかりしていると思った。アメリカの女性スターはなんか馬の下半身みたいなものをもっているような気がする。我が国では、両腕がだらんとして腰までがふにゃっとしている。何かに掴まるか、地面に手をつきそうな感じがでている。
清・少納言であって、清少・納言にあらずと大河ドラマを見た人は気づいたであろう。しかしまあどっちでもまあいいかである。わしは、ただ、枕草子の作者はだれですかという問題に「奥の細道」とか答えてほしくないだけなのだ。また、逆に、発音が一緒だからと言って、「破戒」を「破壊」と書いてはいかん。世の中には超えてはいかんものがあるのだ。
神の斎垣を超えた道長を逮捕せよ。
観光客や湯治客の一瞥に堪えているお宮で、人妻が夫の愛人を×し自分も深い温泉に身を沈めたというのだ。というわけで、きれいな女性の盛装をみると沸くとか、自分の醜い心をけなすと沸くとか、――まるで、ネット上の言論のようである。あまりに沸騰し過ぎたせいか、いまは枯れているという。
レスコフの「マクベス夫人」でさえ、夫の浮気に激怒して、その恋人を自分と一緒に極寒の川に沈めたが、ここまで水が意志をもつことはなかった。ソ連では、極悪人の親玉が死なないと雪も溶けない。わが国では、だいたい定期的に山が動いたり海や川が押し寄せてきたりする。上の温泉が涸れたのも、共産主義の鳥居をつけたからではないのか。
晋如。愁如。貞吉。受茲介福 于其王母。
ユングが『東洋的瞑想の心理学』で引いていた。祖母は民話では無意識をあらわす、という有名なやつである。ユングにとっては、人間がなんとなく動物にみえている。祖母くらいになるともう実態でなく動物的な位相の何者かなのであろうか。確かに、祖母というのは我々にとってはとても大事なものであって、母以上に母なところがある。その上にはインコが居るという感じだ。思うに、犬猫だけじゃなくて山羊とか牛と一緒に暮らした方が病まないですむのではないか。思った以上にお互いに寄生しているのではないのか。人間一人では生きていけないというのは、文字通り人間だけでは生きて行けないからではないのか。人間同士だと、かえって相手を猫や犬みたいに強引に扱おうとしてくるってゆく。昭和文学がどことなく狂っていったのは、祖母や動物ではなく無意識を相手にしようとしたところにある。
むろん、長い間かけて、無意識の領域は病気の領域に、相手にするべきなのは言葉みたいに単純化された世界は、これはこれで狂っている。いまの首相が首相になったときに、まともな日本語しゃべるやつがやっと首相になったと、結構なリベラルや良識派が言っていたと記憶する。こういうところがある種の良識派における、言葉と人間社会の関係についての想定が甘いところで、調子いいまともそうなおしゃべりに信用を置く癖がついている。彼らは学生のなかにいる今の首相みたいなタイプを相当見逃しているんじゃないだろうか。一番だめとはいわんが、一番だめに近いんだよこういうのは。言葉を発するタイミングに長けてるから一見聡明に見えるが、コミュニケーションが政治的で、かえって政治をちゃんとやらない。昔、こういうのは「口先野郎」といって、無意識にまで打撃を刻印するために、体育館の裏に呼び出されていたタイプである。つまり、一瞬で価値がわからなくてはならない類いであった。
道徳ではなく、人生論が大事なのだ。左翼に亀井勝一郎みたいなのがいたことは大切だ。ミネルヴァから出た山本直人氏の亀井勝一郎論でも注目されていたけれども、亀井勝一郎の評論がなにゆえか女性に人気があったみたいな問題は感覚的には簡単そう見えるが説明が難しい。研究者をふくめた文学者が人生論をちょっとなめてることに関係あることは確かである。いまじゃ、マンガが子どもだけでなく大人に人生を教えている。人間に道徳的な人生論をまともに語るのってすごく難しくて、学校では絶対無理だと思う。教師が道徳の問題をどうせなめているからである。だいたい統治の手段として使用されてどうしようもなくなる。大学でも無理だな。もう文学作品や長篇漫画に頼るしかないのだ。良くも悪くも、戦後の人間のモラルなんか、大河ドラマと朝ドラ頼みである。
で、こういうドラマに於ける天皇制問題はいつも話題になる。映画「二十四の瞳」あたりで、作者に逆らって壮大に隠蔽された天皇制の隠喩は、いまや隠喩であることをやめ、「文化的」アイコンとして、回帰するようになった。平成に成り立ての頃は「かわいい天皇」みたいなものを批判する人もいたし、いまの大河ドラマでも花山天皇やべえみたいな事象が定期的に蒸し返されるわけである――が、様々なレベルでの毀誉褒貶によって保たれるそれは墨子の天志みたいなものを持ってこなくてもいい高貴なサンドバックの発明であって、馬鹿な毀誉褒貶と文化を両立させるやり方として天才的である。で、それはその両立が政治的な天才として機能しているだけで、道徳はいつまでもその両立の過程で空気を読まれる形でしか機能していない。
権力のきたなさを語るといわれていた神武天皇あたりの長生き天皇については、――人生百年時代とか残酷なことを実現しそうな人類であるからして、違和感なく感じる秋も近いといへよう。
そもそもわれわれにとっては、自主独立みたいな観念が「吉里吉里人」みたいな設定でしか熱情に訴えない。そこでは、かならず権力への対抗意識はあるが、天皇制の政治への意識が欠落している。だから、この小説が売れたことと、ポストモダン現象は関係があったとおもうのだ。当時の天皇制批判は、今に至るまでそうだが、存在しないであろう初期の天皇は実際に「存在しなかった」という議論だ。これは表象批判として簡単な理屈だ。しかし、そこまでパッションがあるのであれば、現代でも「昭和天皇は存在しない」とかそういう議論のほうが面白いのだ。マルクス主義者なら当然ありえなくはないではないか。
存在するものを存在しないという勇気がないので、研究者も屡々論文で「Aは残念ながらBになってしまっている」みたいなせりふを吐いてしまう。右にも左にもこういうのはけっこうあり、こういう「残念ながら」を入れることでいきなり書けるようになりました、みたいな心の叫びが聞こえてくるようだ。
以前、有馬に行ったときにたずねた。明治四〇年(一九〇七年)誕生、祭神は大欲望系「増富稲荷大明神」。戦争に勝つ、儲ける的な意味で、近代日本の勢いが感じられる。ネットで過去の写真をみてみると、だいぶ赤い鳥居が「増」えているようである。この勢いで往くと、周りにある秀吉関係の像のあたりまでこの神社の圏内に飲み込まれるのではなかろうか。
本殿。
明の鐘ごんと突きや気のきいた烏サアざいもくのうへで楊枝をつかふそれにこけめが朝なをし
わたしが教育を舐めたらいかんなとおもったのは、一斉授業ですごく鋭敏で寝るなんて予想もつかない学生が、1対1の卒業論文指導で寝たからであった。まるで烏が電線で寝るようであった。
特別な人は、学校なんか無視して走ってしまうので関係ないが、――国として研究者の集団を尖兵にしたいのなら、小学校の教員のレベルを上げるしかない。大学院への集中投資なんか手遅れだ。ただし今の調子だと、より役人みたいな研究者(及びその予備軍)が多く居るだけの地獄になる可能性があり、もうホットいてくれとしか言いようがない。
研究なんかも、柳田國男じゃないがいろいろな意味で田舎の母の顔がちらついている人間にだけ可能な感じもする。母というのはいろいろな意味で法の外にいる。父にはもともと期待できない。江藤淳ではないが、もう太平洋戦争で全員死んでいる。母も総力戦のおかげで死にかけたが、少し生き残っていたはずだった。しかし、80年代以降ぐらいから再び動員がかけられほぼ死んだとみてよい。
かくして、学校で「母」が要請されたのだ。はい鉛筆持って下さい、教科書開けてください、いまのよかったね、先生(お母さん)嬉しいです、ワークシートに書き込みましょう、みたいな感じを高校まで続けている教育環境から研究者が出てくると思うか?まあ出てくるか、ものすごく怨嗟の塊みたいなやつが。
テレビのニュースみてると、言わされたことを棒読みしているような子どもが多くてびっくりするが、いちばんびっくりするのは、学校ではもっと言わされている場合がある事態だ。子どもも情けねえわ、そんな教師の言うこと聞くことねえのに。しかし処世がかかっている子どもの気持ちはよく分かる。その結果、子どもたちは擬似父(男性器)エイリアンみたいに暴れるのを最終手段としている。彼らは別に腹がへっているわけではない。彼らがなんであんなに涎流して歯茎ひょこひょこしてるのかよくわかんないんだけど、お腹がすいているのではない。カツカレーでもたんまり喰わせれば寝てくれるかもしれない、というのは無駄な想像だ。
「父」が居るというのは、指揮者が声を出すということだ。オーケストラの大音響のなかでは私語したって大丈夫みたいなことを素人は言ってはならない。目の前の群衆のなかからチェリビダッケオタクが出現しめっちゃ聞こえるしとか嬉しそうに話してくれるからである。チェリビダッケ好きは父権論者にちがいない。チェリビダッケは観客が私語をしていようといまいと、オーケストラのトゥッティに合わせて叫んでしまう。
指揮者達は、その父である属性が失われている世界でこえを出そうと頑張っていた。岩城宏之が山本直純とゲイ用のホテルに入って怒鳴りあいの議論をしていたところ、隣からうるせえと言われたエピソードが好きである。エピソードはいろいろなものを脱色することが多いが、ここでも父権の行方というテーマが脱色されてしまった。岩城氏は、観客によく喋っていた。日本の現代音楽の初演のときに、「つまらなかったら拍手しなくていいですょ」と言ったことは有名である。
そういえば、卒業論文の口頭試問と謝恩会で意識が亜空間に行っているうちに、小澤征爾がなくなっていた。わたしは岩城宏之のほうがすきだったが、ふたりのウィキペディアをよむとどちらもひととしてあれそうだからフルトベングラー教に復帰いたすことにした。誠にありがとうございました。小澤のN響事件の内実は知りようがないが、孤立した天才対旧体制みたいなエンタメにして、この事件を消費して溜飲をさげた連中は、小澤よりもN響団員よりもうちの蛙よりもレベルの低い奴らであることは確かである。小澤にしてもN響の人たちにしても、蛙以下の世間のなかでなんとかやっていくほかはない。わたくしの低い趣味に拠れば、小澤征爾と言えば、むかしのメシアンの交響曲とかタングルうっドのマーカスロバーツとのガーシュインがすごかったと思う。つまり、彼の指揮はソリストがいる場合のほうが白熱していたような気がする。「父」であることをやめた場合である。
そもそも、小澤氏の父は満州国の理想に生きた民族主義者だ。で、小さい東洋人である息子は新たな「父」アメリカに乗り出した。あるアメリカ人から小澤征爾とボストン交響楽団がいかに微妙な空気だったかみたいな話を聞いたときにすごく東洋人蔑視を感じたことがある。大変だったんだろうなと思う。子どもの頃読んだ本に、オザワ、アバド、メータが三大新興勢力だみたいなことが書いてあって、日伊印三国同盟みたいでかっこいいなとか思っていたわしを小太鼓のばちではたきたい。が、――戦後世界で、クラシック音楽におけるナショナリズムがどのように機能していたのかは興味あるところだ。障害のある演奏家が言葉による脚光をあびることがあるように、クラシック音楽も「よきもの」であるためにいろいろな言説戦略をとってきているためである。
閑話休題。西洋音楽そのものはまだ「父」のままである側面もある。松本での小澤征爾の音楽祭は結局一度もいけずじまいだったが、なんかチケットとるのが難しいと言われててなんか都会からのブルジョアのオッカケが専有してるだのという田舎伝説に怯えたせいもある。木曽音楽祭は身近で行われていて、いろいろと音楽家がどういうひとたちか聞くことが多かった。とにかくこんな我が儘な人たちがこの世に存在するのかみたいなことを田舎もんが思うこともあったと聞いている。だから小澤征爾がわがままでーとわがままな人たちが人たちが言っているような事案は全体として一切信用できない。有名人が来ると参勤交代での対応みたいになってしまうのも無論問題があるが、おかしな人たちにびっくりしてしまうことには同情するしかない。
もしかしたら、田舎に来たがらない若者達は、上のような「おかしな人」に扱われるのがいやなのか知れない。――無論、社交辞令である。古典文学の院生が就職がなくてみたいなことがよく話題になる。確かに文学部的なものも減ってきはきてるンだが、地方の高専や教育学部とかを含めればあまりに応募してくる人間がすくない。なにかおかしいなと思わざるを得ぬ。一時期に比べるとむしろ就職は容易になっている面もあるのだ。理由はいろいろあるだろうが、一つは自分の専門が生かせないほど校務が狂ってるというイメージがいよいよ大学にまで当てはめられて広がっているということはあるとおもう。小学校から高校までの先生が減っている理由と同じだということかもしれないわけだ。あと、就職戦線でおちまくるのに精神が持たないのではないかという恐怖が広まっていることは確かで、これは学部生の就職活動への恐怖と同じか。――言うまでも、恐怖は精神的な「父」がないことによる。
小人用壯。君子用罔。貞厲。羝羊觸藩贏其角。
小人は君子と違って勢い余って傷つく。いわば籬につっこみ角を痛める羊のようなものだ。こういうことをいうだけでも、おとなしくかわゆいキリスト教の羊よりも群衆の時代を予期しているのかもしれん。正当で重厚な「つっこみ」が正しいとは限らない。創造性はそんなやりとりにはない。リテラシー教育やリテラシー的批判がたいがい役にたっていないのは当然なのである。
わたくしは、そういう意味で、何かを顚倒させたりして成り立っているフィクションにも疑問をもつタチである。例えば、「土佐日記」というのはなにかジェンダー的?な顚倒においてすごいことをやってるみたいな感じを勝手に持っていたが、そこにこそ創造性の平板さや作者の傲慢さがでてると思うし、最近はなんか微妙な気がしてきている。「源氏物語」が男光源氏の暴れっぷりを延々物語っていることに比べれば、土佐日記を男がかいていようと女がかいていようとどうでもいい感じがする。「夜半の寝覚め」を女が書いているのはわかるんだが。。
先日も書いたように、句点があると高圧的にみえるというのは、まあわたしの感覚としては句点があると高圧的にみえるというのはそこそこいいとこついているとは思うのである。まさに句点の導入には、高圧的な権力が必要だったからである。しかし、それが現在の文に句点があるからといって「上から目線」?があるというのは誤りである。だからこそ、逆に、それを顚倒させて日本語は本質的に「優しい」のだと主張することに意味はない。句点がついていようといまいと、日本語がやさしいかどうかは内容によるに決まっているのである。
むしろ、物事を顚倒させるんだったら、横溝正史にでてくる死体を、すべて米兵に置き換えて話をつくり変えて頂きたい。
戦後は、日本人の死体からの遁走であると同時に、米兵の死体からの遁走である。暴力は高橋和巳などの一部の作家をのぞけばひたすら内ゲバ的に展開する。そのきまじめな欺瞞を笑いによって和ませようとしたのが、「がきデカ」などのギャグであり、数多のギャグ的な野球漫画である。そういえば、清原氏が息子達から「アパッチ」と呼ばれていたらしいことを思い出す。清原氏は外国に行こうとしなかった。有り余る力を内に向けた。
そういえば、同じような機能は、戦後の青春映画にもあったのかも知れない。吉永小百合の相手だった浜田光夫さんというのは、戦後の生意気で素朴で垢抜けなくてかっこわるい若者を示しているようで、力こぶの入った、
現在のよのなかのいろいろを想起するに、――「源氏物語」や「栄華物語」、ひいては、もはや中性的な志向性、悪を措定しかかっている「反藤原氏」的な「大鏡」でさえ、フィクションとして受け取られていたかかなり怪しいと思う。平家物語はまあわかるんだが。仏教の観念はフィクションによる勘違いを暴走させない効果もあったかもしれない。「君子」たることは、文字通り顚倒や猪突猛進革命のアンチたることである。そして自身が転倒の対象になることをやめる、反革命であることである。
卒業論文口頭試問と謝恩会が終わって一段落である。
コスパ的卒業論文はありえない。授業のためとはいえ、なにゆえわたくしが「推しが武道館いってくれたら死ぬ」をかわにゃならんのだとはわたくしも思うわけだが、すべて様々なもののために必要なのである。以前から申し上げているように、コスパ的生き方というのは誰かに仕事を押しつけている/そして自分の体力のためにさまざまな人の仕事を無視する、という意味で卑怯なのだ。――というわけで、わたくしは、上のマンガから、推しに崇高さがあるとしてそれはやはり崇高さに止まるのではなかろうかという認識を得た。
しかし、思うに、いろんなことをしておりますみたいな人物がどことなく信用できないという若者達の感覚もわかるような気もするのだ。昨日は、『週刊東洋経済』に載っていたアニメの特集をみていたら、なんとか証券のなんとか審議会のなんとかいう人物が1文字も役に立たなさそうな記事を載せていた(文章は、「構成」の人のもの)。所謂「マルチ」みたいなキャラクターが例外なくやばいやつであるというのはイメージ以上の現実を構成している。
押見修造というのはどうみても現代最強のリア充(獣)作家である。彼の作品は、同じ路線で恐竜のような進化を志向している。マルチなのではない。
「夜半の寝覚め」の主人公の娘って、太政大臣の娘であった。まあすごい世界である。政治と色好みが空間的につながっているかんじなのだ。しかし、この作品の音楽の位置づけが途中でそれほど意味を持ってないようにみえるのも、作者がマルチみたいな人間を信用しない証拠のように見える。
もう、何かが勝手に生えてきている春である。
恒、亨。无咎。利貞。利有攸往。
順調に事が運び災難は去るので出かけてよい、――出勤するのがこわいのであろうか。占いに惑わされるひまもなく我々は仕事に往くほかはない。そこで問題になるのはいつも、われわれの仕事は何処にあるのか、ということだ。
で、研究にアリと考えた場合つい問題は大学院のありかたのほうに向いてしまうわけであるが、――そう向いたとしても、むしろ問題は学部の卒論へのあり方だと思う。「学部生はこんなもん」とするのではなく、とりあえずきちんと考えない限りどうしようもない。しかし、単にそれを「まじめ」にやらせようとするとすぐ手続きの厳密性みたいなところにいってしまうのがどうもおかしい。それこそ学部教育でそういうことしか教わらなかった人間が教えはじめるとそうなりがちなのは当然だが、おかしいことはおかしいのだ。
研究者養成で勝ち抜いた人というのは、どことなく学部教育を馬鹿にしている人もいると思う。でもだいたい大学院に来た頃にはいろいろな意味で手遅れだったというのがほんとのところじゃないかと思うのであった。
本当に人間は植物のように勝手に生えるものであろうか。
万事莫貴於義也
確かに天の意志を高唱するよりもこういう発言の方がよほど勇気がいるようなきがする。で、少しでも現実の組織を動かそうとする人間にとっては勇気を支えるものとは何かを現実的に考えておかなければならない。天の意志では足りないはずだと思う。
文字を扱う研究者がときどき陥るのは、ここまで機械的な発想をしているんだから世界もそう見えていたはずだみたいなもので、わたくしはそういうときには当時の絵画なんかをみるようにしている、音楽はどうもますます抽象的にみえるたりするんで。。。
もっとも、テレビが視覚的なものを遮るようになってからは、そう簡単に視覚的なもので現実を回復するわけにはいかない。私の世代はガンダムに人生を教わったという人が結構いるが、より正確に言うならばテレビをみていたというべきなのである。
現実とは、積雪のようなものだ。むかし山国に居た頃、積雪も30センチをこえたあたりから急激に恐怖そのものにかわる感覚があった。寝ていてもわかるかんじね。これは単に朝起きて雪かきをすることへのそれではない。雪が溶ける地域はいいのだ、一度降った積雪は春まで溶けない。一度積もったものは思うより長引いて存在する。雪だけの話ではない。
わたしは昔から病気が多かったから、病気になりかけの時、体が病気になりたいと脳に呼びかけているのかどうか知らないが、そういう声が聞こえる。死にたくなるときなんかが来るときにはたぶん同じようなかんじなのかなと思う。病気は外からくるものもあるかもしれないが、結局、自分の体の意志がそうさせる。こういうのを天の意志とか言い募ることも出来なくはなかったと思う。
かまくらに妹たちと一緒に入ってたときは楽しかった気がする。室内が氷点下になるようなところで育ったせいか、冬はちゃんと厚着をして暖かくしなければならないという習慣が身についていない。凍えそうになりながら掘り炬燵やだるまストーブの側で体を炙るのが冬だと思っているところがある。もうそんなものはないのに。
プロコフェエフの「スターリンへの祝詞」は極寒の恐怖政治時代に書かれている。彼がこれを依頼されたとき、妻子をシベリヤに人質にとられていたそうである。ロシア語がよくわかんない我々にとってこれ幸いである「雪がやんで日が差してきたよ雪が解けてもうお前も逮捕されないよマックも食べられるよ不倫もできるよお前を愛してるー」みたいな歌詞として聞くと涙が止まらない曲である。プロコフィエフは、ショスタコービチと違って、なにか少女性みたいなものを描くことに長けていた気がする。たぶんショスタコービチの方がフェミニストなのに、機械化されたコサックダンスみたいな感じになっているのは面白い。最近読んだ論文に、高峰秀子が成功したのは少女性と母性両方できたから、みたいなこと書いてあった。ちょうどその間に戦争があって若い働く女性役が少なかったというのはあるわけだが、本質的にいまでもそういうことはある。若い働く女性は戦時下のように存在が危うい。プロコフィエフのメロディは、そういう危うさを慰める。
まったく為政者というのは、とんでもないやつが多い。モラルを自覚したり社会を改良したりすることで解決することが案外すくないということが出発点だが、案外少ないからといってやめた方がいいのではない。でも案外少ないことが分かってないやつは携わらない方がよいのだ。こういうことだけが絶対にわからないような奴がいるのを、人は大人になってからようやく知るのだが遅すぎる。
卓球の愛ちゃんがテレビにではじめたときに、学生時代卓球一生懸命だった父が「学生時代でも勝てたかどうかあやしい」と一瞬で断言したのはよいと思う。我々の父の世代が優れているのは、勃興する過剰な女性達の姿を視野に入れていたことだ。これはフェミニズムとは関係ない、大衆的なものである。
国会議事堂の前にしゃがんで「ガン!」と一発やってみたいものである。あいまいな日本語で、事実をはぐらかし「ああでもない」「こうでもない」あげくは「やっぱりこういうことになります」などと答弁する大臣どもを、束にして吹き飛ばしてやりたいと思う。(高峰秀子)
学生運動のエンジンとしてのヤクザ映画の影響とかも屡々指摘されるわけであるが、吉永小百合が恋人と心中するみたいな映画もどこかしら影響がある気がしてならない。「世界の中心」でとか「部位を食べたい」みたいな映画は、恋人が逝くのを傍観しているが故にふつうにノンポリを生み出すにちがいない。そういえば、結婚は引き延ばされた心中なのではないだろうか。結婚も心中も、法の外にでることなのである。
最近は映画俳優もスターになりきれない。で、最初にわけ分からない人物を演じるとその余波のためか、近づきがたさがオーラの副音声みたいに生じ、ちょっとスターみたいな感じになるのを、二階堂さん、吉高さん、満島さん、浜辺さんなんかでも確認できるかもしれない。これは女性達を疎外することである。授業のためとはいえ、なにゆえわたくしがを買わにゃならんのだと思ったが「推しが武道館いってくれたら死ぬ」の第一巻が届いた。まだ読んでないが、女性達を殺人教唆犯にするつもりなのか。