★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

斧と雲気

2024-02-15 23:20:53 | 文学


美女は命を断つ斧と、古人もいへり。心の花散り、ゆふべの焼き木となれるは、何れか是をのがれじ。されども、時節の外なる朝の嵐とは、色道におぼれ若死の人こそ愚かなれ。其種はつきもせず。


好色一代女の劈頭、美女は命を絶つ斧とは、呂氏春秋から来ているらしいけれども、なんとも斧とは恐ろしく、花がちり夕方の焼き木となる勢い。それで勢い余って夕方から朝に対に飛んで嵐となる。死への欲動ではなく、性への欲動が死からの反発であって、最初の一撃は斧という女である。

ソ連の国旗には斧があり、マクベス夫人などは斧としての自分を用いたのかも知れない。そしていい加減な男に裏切られて自滅した。

主題と言うものは、人生及び個々の生命の事に絡んで、主として作家の気分にのしかかって来た問題――と見る事すら作家の意識にはない事が多い――なのである。其をとり出して具体化する事が、批評家のほんとうの為事である。さすれば主題と言うものは、作物の上にたなびいていて、読者をしてむせっぽく、息苦しく、時としては、故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気の様なものに譬える事も出来る。そうした揺曳に気のつく事も、批評家でなくては出来ぬ事が多い。更にその雲気が胸を圧えるのは、どう言う暗示を受けたからであるかを洞察する事になると、作家及び読者の為事でない。そうした人々の出来る事は、たかだか近代劇の主題程度のものである。批評家は此点で、やはり哲学者でなければならぬ。当来の人生に対する暗示や、生命に絡んだ兆しが、作家の気分に融け込んで、出て来るものが主題である。其を又、意識の上の事に移し、其主題を解説して、人間及び世界の次の「動き」を促すのが、ほんとうの文芸批評なのである。

――折口信夫「歌の円寂する時」


折口の場合、批評とは「故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気」である。やはり、斧みたいな女とは批評ではない。斧が突き刺さった人間に起こるのは浮れ心ではないとしたらなんであろう。