★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

個人の解体

2024-02-05 23:55:38 | 思想


又曰、君子若鍾、撃之則鳴、弗撃不鳴。應之曰、夫仁人事上竭忠、事親得孝、務善則美、有過則諫、此為人臣之道也。今撃之則鳴、弗撃不鳴、隱知豫力、恬漠待問而後對、雖有君親之大利、弗問不言、若将有大寇乱、盜賊将作、若機辟将発也、他人不知、己獨知之、雖其君親皆在、不問不言。是夫大乱之賊也。以是為人臣不忠、為子不孝、事兄不弟、交、遇人不貞良。夫執後不言之朝物、見利使己雖恐後言、君若言而未有利焉、則高拱下視、會噎為深、曰、唯其未之学也。用誰急、遺行遠矣。

儒者ってだいたい聞かないと何も言わんしやらんよな、みたいな批判である。どういう経緯でこういう批判になったのかしらないが、現代だと、そもそも発言や行動を圧力かけてやんわり禁じておいてから、あいつは口だけだみたいな批判を行う輩も居るので油断は出来ない。言行一致みたいなのも、何かを隠蔽する場合がある。労働者が革命をやらないからといって、あいつらは聞かないと意志もしめさんよな、と批判するのがどれだけ狂ってるかかんがえればよい。

それは、我々が視野がいつも狭いのだということなのかもしれない。儒者達だって、目の前の人間達に対して、どこまでをあげつらっていいのかわからず、口ごもっているうちに口べたになっていたのかも知れず、同時に、ほんとうによく分からなかったのだと思うのである。そこに広がっているのは、我々の想像する以上に、多くのことが起こって消えてゆく世界だったに違いない。

いまは情報が世界と対応しているようにみえるので、研究者はしばしば世界を夢みる。文学者だってそうだ。彼らはしばしば世界の情報から選択的に原因に遡って喜んでしまうのだが、それがなんだか単純なかたちにみえるからである。しかし原因そのものの姿は単純でない。このことを軽視した結果、過去とみれば馬鹿にする傾向や馬鹿に出来るものを過去に属するものと考えたりする錯覚が正義面することになる。かくして、たしかに世界は単純になるであろう。桐野夏生が「大衆的検閲について」(『世界』2023・2)で、現代の正義面に危機を表明した。ただ、彼女の参照物が、林芙美子あたりだったのが気になるところだ。むろん、林芙美子も彼女なりの正義面があって、これが現代の正義面に繋がってもいるだけでなく、当時の正義面ともつながっていたからである。すべての表現は自由なんだが、自由は、林芙美子の表現みたいなものを解体して自由になることも含まれている。それは我々の自己批判を伴う行為にならざるをえないから、どこかで自分なりの正義面を刀として使いながらの自己矛盾的なものにならざるを得ない。

学生の論文にかぎったことではないが、従来の何かを超えるみたいな創作意図をもつ作品を論じた場合、むしろ、従来の何か(原因)の把握自体を間違う可能性は大きい。作品がかりに従来の何かの把握を怠っていたとしても、論じる側がそれを更に単純化してしまう。文学作品などを参照しながら世の中を語る場合に気をつけなきゃいけないことである。マルクス主義やフェミニズムでもおかしなことになっているときに、エビデンスとしての作品の扱いがあまりに安易な場合がある。そもそも作品をエビデンスとして扱っている時点で人の世を舐めているのである。

かくして、このような原因に対する畏怖のなさは、研究者の自己規定によくあらわれてくるものである。そういえば、最近、研究者は学生の一年かけても書けない論文を1日(だったか)で書けるが、報告書みたいなのはぜんぜん書けないみたいなネット上の記事があった。言いたいこと(文科省は書類ばかり書かせて、いじめかよ、という悲鳴――)はわかるが、果たして、そんな単純な対称性があるのであろうか。そもそも論文にもいろいろ種類はある。あれは論文じゃなくて報告書だろみたいな悪口もあるが、実際、そう見える場合もあって、研究者ではなく報告者みたいな人も多いではないか。しかも、もちろん研究というのは報告という側面がかなり大きいものなのである。そして、事務的な報告書にもいろいろあって、研究においても役所においても、精確な文書はそれなりに難しいものだという認識は必要な出発点だ。事務方の現場でいかに新人教育が大変か知らないわけじゃないだろうに。。

小学校の教員なら知っていることだろうが、人間にとって、あっちに書いてあることを精確にこっちに伝達する(文字数は減らして)みたいなのがいかに難しいか、ということだ。そういう難しさを論じる場合には、言語能力とか国語力みたいな把握も意味不明の分割であり、読む力とかなんとか力みたいなのも逃避だと思う。大きな文脈が読めないと精確な伝達なんか無理なのはあたりまえである。基礎力ですらないんだ、こういうのは。――となれば、すごく細かい分析能力をもちながら、「普通に考えてお前のせいだろ」みたいなことに感度が悪く、単純なファクトの認定で躓く人が学者に限らず居ることも当然なのだ。

研究者が能力を研究に全振りしているのでそのほかはムリみたいな論法もよく見られるけれども、実際は研究者ごとに具体的な「そのほか」がそれぞれあって、それはその研究者の研究の内実においてもある。「そのほか」を誰かに押しつけることの合理化になっているのは必ず本人にある程度自覚がある。本人はだから、自分の「そのほか」の存在によってアイデンティティを必死に守ろうとしてしまうのである。

それは職業意識の変化を研究者も被っていることを意味してもいる。例えば、プロ野球が職業野球みたいなかんじだったときには、みてる側もそれをある種自分たちとおなじ労働みたいに眺めてたところがあるんだろうが、いまみたいなアスリートの運動会みたいなイメージが競技につけられると、逆に、見ている方もアスリートの運動会みたいに自分の労働をみはじめる。で、メンタルがああだこうだと言い始めるのである。メンタルとは、自分の弱さの言い換えである。弱いところがあるので、全自分がストップするといいたいのだが、それこそメンタル以外は動く場合もある事態が無視される。

かつて労働者は自分以外に労働する理由があった。「巨人の星」で、金田が星に向かって、労働者が働いた後金払ってみにくるんだみたいな説教してたのを思い出す。実際、「巨人の星」とは単にじぶんの憧れの星ではなく、父ちゃんの跡取りみたいなものであったし、労働者同士でもお互いに跡取りみたいな感覚が働いていたに違いない。研究者にもそれはあったが、いまはじぶんの弱い部分を誰かにやってもらうという感覚が大きい。協働ではなく、実際は個人の機能分散化である。

こうして実際は、労働者のアスリート化で解体しているのは、昭和でも近代でもなく、個人なのである。例の漫画家の自死の件で皆いろいろ考えた訳だが、国語教育でも、教科書の作品に対して「結末を変えてみよう」とか「人物を変えてみよう」みたいな教育的試みが、どれだけ危険性をはらんでいるか、この際考えてもらいたい。テキストを神秘化すべきではなく目的は言語能力を伸ばすことだみたいな理屈でやってはいけないことまでやらせていたのではないのか?個人を引き裂くようなことと、ブリコラージュの文化は全然別物なのである。というより、別物にすべきである。