晋如。愁如。貞吉。受茲介福 于其王母。
ユングが『東洋的瞑想の心理学』で引いていた。祖母は民話では無意識をあらわす、という有名なやつである。ユングにとっては、人間がなんとなく動物にみえている。祖母くらいになるともう実態でなく動物的な位相の何者かなのであろうか。確かに、祖母というのは我々にとってはとても大事なものであって、母以上に母なところがある。その上にはインコが居るという感じだ。思うに、犬猫だけじゃなくて山羊とか牛と一緒に暮らした方が病まないですむのではないか。思った以上にお互いに寄生しているのではないのか。人間一人では生きていけないというのは、文字通り人間だけでは生きて行けないからではないのか。人間同士だと、かえって相手を猫や犬みたいに強引に扱おうとしてくるってゆく。昭和文学がどことなく狂っていったのは、祖母や動物ではなく無意識を相手にしようとしたところにある。
むろん、長い間かけて、無意識の領域は病気の領域に、相手にするべきなのは言葉みたいに単純化された世界は、これはこれで狂っている。いまの首相が首相になったときに、まともな日本語しゃべるやつがやっと首相になったと、結構なリベラルや良識派が言っていたと記憶する。こういうところがある種の良識派における、言葉と人間社会の関係についての想定が甘いところで、調子いいまともそうなおしゃべりに信用を置く癖がついている。彼らは学生のなかにいる今の首相みたいなタイプを相当見逃しているんじゃないだろうか。一番だめとはいわんが、一番だめに近いんだよこういうのは。言葉を発するタイミングに長けてるから一見聡明に見えるが、コミュニケーションが政治的で、かえって政治をちゃんとやらない。昔、こういうのは「口先野郎」といって、無意識にまで打撃を刻印するために、体育館の裏に呼び出されていたタイプである。つまり、一瞬で価値がわからなくてはならない類いであった。
道徳ではなく、人生論が大事なのだ。左翼に亀井勝一郎みたいなのがいたことは大切だ。ミネルヴァから出た山本直人氏の亀井勝一郎論でも注目されていたけれども、亀井勝一郎の評論がなにゆえか女性に人気があったみたいな問題は感覚的には簡単そう見えるが説明が難しい。研究者をふくめた文学者が人生論をちょっとなめてることに関係あることは確かである。いまじゃ、マンガが子どもだけでなく大人に人生を教えている。人間に道徳的な人生論をまともに語るのってすごく難しくて、学校では絶対無理だと思う。教師が道徳の問題をどうせなめているからである。だいたい統治の手段として使用されてどうしようもなくなる。大学でも無理だな。もう文学作品や長篇漫画に頼るしかないのだ。良くも悪くも、戦後の人間のモラルなんか、大河ドラマと朝ドラ頼みである。
で、こういうドラマに於ける天皇制問題はいつも話題になる。映画「二十四の瞳」あたりで、作者に逆らって壮大に隠蔽された天皇制の隠喩は、いまや隠喩であることをやめ、「文化的」アイコンとして、回帰するようになった。平成に成り立ての頃は「かわいい天皇」みたいなものを批判する人もいたし、いまの大河ドラマでも花山天皇やべえみたいな事象が定期的に蒸し返されるわけである――が、様々なレベルでの毀誉褒貶によって保たれるそれは墨子の天志みたいなものを持ってこなくてもいい高貴なサンドバックの発明であって、馬鹿な毀誉褒貶と文化を両立させるやり方として天才的である。で、それはその両立が政治的な天才として機能しているだけで、道徳はいつまでもその両立の過程で空気を読まれる形でしか機能していない。
権力のきたなさを語るといわれていた神武天皇あたりの長生き天皇については、――人生百年時代とか残酷なことを実現しそうな人類であるからして、違和感なく感じる秋も近いといへよう。
そもそもわれわれにとっては、自主独立みたいな観念が「吉里吉里人」みたいな設定でしか熱情に訴えない。そこでは、かならず権力への対抗意識はあるが、天皇制の政治への意識が欠落している。だから、この小説が売れたことと、ポストモダン現象は関係があったとおもうのだ。当時の天皇制批判は、今に至るまでそうだが、存在しないであろう初期の天皇は実際に「存在しなかった」という議論だ。これは表象批判として簡単な理屈だ。しかし、そこまでパッションがあるのであれば、現代でも「昭和天皇は存在しない」とかそういう議論のほうが面白いのだ。マルクス主義者なら当然ありえなくはないではないか。
存在するものを存在しないという勇気がないので、研究者も屡々論文で「Aは残念ながらBになってしまっている」みたいなせりふを吐いてしまう。右にも左にもこういうのはけっこうあり、こういう「残念ながら」を入れることでいきなり書けるようになりました、みたいな心の叫びが聞こえてくるようだ。