★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「行くさきのあはれならむも知らず」のメンタリティ

2020-07-23 23:26:31 | 文学
彼岸のほどにて、いみじう騒がしうおそろしきまでおぼえて、うちまどろみ入りたるに、御帳のかたの犬防ぎのうちに、青き織物の衣を着て、錦を頭にもかづき、足にもはいたる僧の、別当とおぼしきが寄り来て、「行くさきのあはれならむも知らず、さもよしなし事をのみ」と、うちむつかりて、御帳のうちに入りぬと見ても、うちおどろきても、かくなむ見えつるとも語らず、心にも思ひとどめてまかでぬ。


清水寺にいってお籠もりする娘さん。まったくやる気がない。お彼岸のころなので、騒がしいのであるが、――わたくしもそうであるけれども、騒がしいところでも一度物語や作文の作業に入り込んでしまうとまったく気にならなくなることがある。おそらく、この娘さんも、そのモードに入ったにもかかわらず、肝心の物語がいま目の前にないので寝てしまったのだ。

「行くさきのあはれならむも知らず」とは、予知夢と言うより、すでに娘さん自身が予感していることである。こういうタイプはそこまで馬鹿ではない。



こんなかんじの不安はあるのだ。清水寺でもどこでも不安は不安である。

「御安心なさい。病もたいていわかっています。お子さんの命は預りました。とにかく出来るだけのことはして見ましょう。もしまた人力に及ばなければ、……」
 女は穏かに言葉を挟んだ。
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺の観世音菩薩の御冥護にお縋り申すばかりでございます。」
 観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲らせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据えると、首を振り振りたしなめ出した。
「お気をつけなさい。観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天主はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。


――芥川龍之介「おしの」


このあと、神父はイエスの一生を語り、磔になって「エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?」というイエスの言葉を言うと、女は血相を変えて、自分の夫は磔になってもいいわけなぞしなかった、そんな神には従うわけにはいかぬとして、病気の子を助けに来てもらおうと思ってきているのに、神父の前からさってしまう。

我々のなかには、いざとなったら言い訳をした、ということでその人を見限ったりする人が案外多かったりするのであるが、――とにかく結局今何が必要なのか判断するためには、長い目で物事をまとまりをもって見る必要があるということが分からなくなりがちなのだ。それができないから、夢に出てきた坊主にしても「自分の将来がみじめであることも知らないで」とか言ってしまうのである。そしていよいよ惨めになってしまうのと、すぐ出家である。

上のベルクの曲は、すごくきちんと終わる小宇宙であり、出家(第2楽章)を必要としなかった。