「物語もとめて見せよ、物語もとめて見せよ」と、母をせむれば、三条の宮に、親族なる人の、衛門の命婦とてさぶらひける、尋ねて、文遣りたれば、めづらしがりてよろこびて、御前のをおろしたるとて、わざとめでたき冊子ども、硯の筥の蓋に入れておこせたり。
うれしくいみじくて、夜昼これを見るよりうちはじめ、またまたも見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、たれかは物語もとめ見する人のあらむ。
考えてみると、この娘は、いつ物語を読めるようになったのであろうか。我々はふつう、物語を読むことによって物語を読めるようになるような気がしているのであるが、この娘はおそらく物語をたいして読んでいないのに、――家族におおざっぱな話を聞いていただけで読めるようになってしまっている。
教育に携わっていると、教育の空しさを感じることが多く、――たいがい教育は無駄足のような気がするからである。むかし、ゼミの卒業生で教師をやっている女性が「どうやったらいいのか1からわからなくなっている」と歎いていたが、根本的にはみなそんな状態である。オンライン授業に限らず、学生のとのやりとりで欣喜雀躍としている人間など、まだ教育のとば口にすら立っていない。とにかく、どうでもいいことで自分を騙している人間は多いのであるが、それを自覚するというのは難しいというのは、昔から哲学者たちが警告していたことだ。
そこ等の人の顔を眺めていた。どの客もてんでに勝手な事を考えているらしい。百物語と云うものに呼ばれては来たものの、その百物語は過ぎ去った世の遺物である。遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只空き名が残っているに過ぎない。客観的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセンの所謂幽霊になってしまっている。それだから人を引き附ける力がない。客がてんでに勝手な事を考えるのを妨げる力がない。
――森鷗外「百物語」
学生たちが物語を読めなくなっている原因にこれがある。「有りそうにした主観」は有りそうな主観によっては存在しない。昔はやった「情熱」は空回りだった。