★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

神におはします――性別は?

2020-07-25 23:30:25 | 文学


ものはかなき心にも、つねに、「天照御神を念じ申せ」といふ人あり。いづこにおはします神、仏にかはなど、さはいへど、やうやう思ひわかれて、人に問へば、「神におはします。伊勢におはします。紀伊の国に、紀伊の国造と申すはこの御神なり。さては内侍所にすくう神となむおはします」といふ。伊勢の国までは思ひかくべきにもあらざなり。内侍所にも、いかでかは参り拝みたてまつらむ。空の光を念じ申すべきにこそはなど、浮きておぼゆ。

「ものはかなき心にも、つねに、「天照御神を念じ申せ」といふ人あり。いづこにおはします神、仏にかはなど」……。大事なので、訳しておこう。

「このようなうわっついた私にも、常に「天照大神をお祈り申し上げなさいませ」と言う人があった。どこぞにおられる神様なのかしらー、それとも仏の一種ですかね……」


いきなり神仏習合的核心に切り込んでしまう娘であった。結局、アマテラス信仰の大衆化の程度がどのようなものであったかが分かろうというものである。それにしても、「さはいへど、やうやう思ひわかれて」となんだか理解が出てきたようなことを言っておきながら、次の「人」の説明はまったく本質的でもなんでもなく、制度の説明ではないか……。この「人」も大概であるが、いったい娘は何を理解しておったのか不明である。

空の光を念じ申すべきにこそはなど、浮きておぼゆ


伊勢にも内侍所にもいけまへんなあ、まあ空の光(おいっ)を拝むことでよいかなー、と浮ついておった――のであった。

私は、昭和十三年に、足かけ八年の労作になる女性史第一巻を「母系制の研究」として世に出した。この題目など、とくに、現行家族制の父系思想からみて、好ましくない印象をもたれたことも、うなずけないことではない。私は江戸時代の儒者たちが、天照大神の男性説を唱えねばならなかった心持がいまだに残って学問研究を妨げているのを残念に思う。

――高群逸枝「女性史研究の立場から」


かんがえてみると、孝標の娘の憧れは「光」源氏であったから、天照大神は男性です、とだれかが嘘を言えばよかったのである。さすれば、もうすぐに伊勢に飛んでいったに違いない。