★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

アーチのなかへは

2013-10-20 23:56:21 | 文学


 何年か前まではこの温泉もほんの茅葺屋根の吹き曝しの温泉で、桜の花も散り込んで来たし、溪の眺めも眺められたし、というのが古くからこの温泉を知っている浴客のいつもの懐旧談であったが、多少牢門じみた感じながら、その溪へ出口のアーチのなかへは溪の楓が枝を差し伸べているのが見えたし、瀬のたぎりの白い高まりが眼の高さに見えたし、時にはそこを弾丸のように擦過してゆく川烏の姿も見えた。
 また壁と壁の支えあげている天井との間のわずかの隙間からは、夜になると星も見えたし、桜の花片だって散り込んで来ないことはなかったし、ときには懸巣の美しい色の羽毛がそこから散り込んで来ることさえあった。

――梶井基次郎「温泉」(草稿)

意志の勝利を撮っていたかも

2013-10-17 09:29:51 | 思想
http://mainichi.jp/select/news/20131016k0000m010065000c.html

「意志の力」

……普通、ニーチェではなくナチスの党大会を想起させます。思想が小学生並み。こういうことをごちゃごちゃ言う子どもに対して、大人の態度は、「まあがんばれや」とか「はやく飯食って学校行けや」などと言う、あるいは無視するかです。

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013101600981

「映画監督になっていたかも」

……こういうこと言うやつで、本当になれそうなのをみたことないんですが……。本人が作っても「3」は蛇足だとか非難されてるのに、ジャップ安部如きが「ゴッドファーザー4」とか、失礼にもほどがある。

あらためて言うまでもあるまいが、彼らは「失言」しているのではない。誰でもそうだが、まともな頭でないときには常に間違うのである。

ステンド・グラスのやうな

2013-10-16 22:52:45 | 文学


 鈴蘭燈の並んだ狭いアスファルトの街に人が一杯で、ふと店さきのショー・ウインドーを見ると、独逸製のカットグラスが透明になって消えた。
(彼は誰かの泣声を聞いた。女の声らしかった。)
 何故泣くのかと訝りながら、濃い藍色の闇を潜って行くと、生駒山のトンネルを潜ってゐるらしかった。向ふにステンド・グラスのやうな空間が懐しく見える。明るい昼がひかへてゐるらしい。しかしトンネルを出たやうな気がした時、そこは矢張り彼の生れた街の一角だった。橋のたもとへ出てゐて、それも夜であった。妖婦的な女が笑った。その金歯がはっきりと彼の目に映る。早くそれも透明な輪になれ、と彼はぢっと待った。

――原民喜「透明な輪」

アンパンマン本当に死去

2013-10-15 23:05:28 | 食べ物


アンパンマンの作者、やなせたかしさんがお亡くなりになりました。首が飛んでも動いてみせると、眉間尺みたいな、プロレタリアートの救世主のような、アンパンマンである。最初、七〇年代のわたくしが幼稚園でみた時には、顔を食べられたアンパンマンの姿はほとんどホラー映画であり、ひもじくても絶対自分はアンパンマンの顔を食べたりはすまいと思った。

だいたい、顔がなくて生きているはずがないではないか。

アンパンマンははじめから死んでいるのである。あんパンがポルターガイストかなんかで飢えた労働者に飛んでいく仕組みなのだ。

わたくしは、キリストのいわゆる「パンは人のみにて生きるにあらず」、いや間違えた「人はパンのみにて生きるにあらず」とは、食べ物で善意を押しつけてくる革命家たちに対する嫌みであると思う。とすれば、これを何か観念性の表れとみている吉本隆明はどこか間違っているのではないだろうか。キリストはもはやパンにもさえも哀れみを感じていたのではないか。形あるものがすり潰され、別のものに変形されて焼かれる……もはやパンの生成とは、葉山嘉樹と言うよりも安部公房の世界であり、そんなパンが同じくすり潰されている労働者の元に飛んでゆくのは必然なのである。しかし、労働者は、同志が飛んできたとは思わずに、むしゃむしゃと……。

おそろしきかな、消費行動。

……時は早く過ぎる 光る星は消える
だから君は行くんだ微笑んで
(アンパンマンのマーチ)

もはや断頭台に向かう囚人の気持ちを歌ったとしか思えぬ。いや、喰われる囚人を……。

いろいろな意味で合掌。



チェリビダッケ指揮のブルックナー第4番祭り

2013-10-12 23:06:34 | 大学


遅い……。

……そういえば、国立大学で筆記試験の二次試験をやめて面接にしろとかいう、たぶん発案者は中学二年生であろうが、そんな案がでているという噂を聞いたのであるが、こんなのにいちいち理由をつけて反論しなければいけないところが、いまの日本のつらいところである。やめるべきなのは、センター試験の方だ。二回もペーパー試験をやる必要はないとか、湧いたことを言っている人がいるらしいが、センター試験を「ペーパー試験」と言ってしまう時点で感覚がおかしい。センター試験でエリートの質が下がりまくっているというのに、もはや日本は全員奴隷でいいということだな。企業の面接じゃあるまいし、いわゆる、プレゼン能力やコミュ力(笑)が高いやつに、どうみても知性的になにか欠けたところがあるのは、当の若者だって知っているというのに……。まあ、大の大人であるところの楽×の社長が、現在の英語教育について、「文法と翻訳に特化している、会話力、表現力といった非常に重要なものが軽視されている。」といった低レベルな意見を堂々と口に出来得てしまう状態では、入試制度をいじくってもどうにもならない。本当に必要なのは、こういう発言を完膚なきまでに批判しきる日本語の能力を高校生までに鍛えることである。

先ほど、小田島隆がツイッタ~で呟いていたけれども、面接(というより人物をみる面接)というのは、面接官自身の劣化バージョンを選びがちだというのは、確かに、面接官をいくらか経験したわたくしにおいても、実感としてあるのである。じゃあ、将来的に研究者になれるような頭脳が選べていいじゃん、ということになるであろうか。たぶんならん。性格がどこかしら研究者に似て〈変〉で、ただ違うところは勉強が出来ないという一点のみ、という……これが劣化バージョンの実態である。……ということになるのではないだろうか。面接は危険、口頭試問にしよう。……って、出来るわけないだろう。まあ、「勉強できても反抗的なやつ」の排除でしょ、上の中学二年生の目的は。

というか、もっと心配なのは、いわゆるコミュ力やら明るさやらなにやらを「勉強だけ出来る子」に機械的に対立させているような、なにか不可思議な夢のなかをさまよっている研究者というのは、案外、大学のなかにもいるという事態だ。どうせ、あきれ果てるようなチェック項目がずらりと並んだ面接シート案が出てくるに違いない。……これ以上、大学のなかに蒙昧な雰囲気を漂わせてどうするの?いまの大学がちゃらちゃらした雰囲気になってしまったのは、知識偏重主義の試験問題のせいではなく、勉強すらしていないやつが多いのと、大人の側のモラルと知性が落ちている感じがするので、心優しい若者たちが油断してくれているからである。

受験でとっても苦労したわたくしであり、受験勉強中は、文学をはやくやりたいのにこんなことでわたくしを苦労させる日本社会を心底呪詛していたが、……やはり受験勉強はちゃんとした方がいいと思う。わたくしは「信州教育」の神髄をもろに浴びて(笑)、ほとんど受験用の勉強をせずに、歌ったり描いたり作文を書いたりといった小学校時代を送ってしまったので、小さい頃から馬鹿みたいな受験勉強をした経験がない。たぶん、そういう現場では教師にせよ子供にせよたいしたことのない人物が威張り腐っているにちがいない事態は、様々な人々の受験勉強からの逃避劇の思い出を聞いてなんとなく推測がつくが、経験していないのでわからん…

とはいえ、むしろ問題は受験に対する意味づけなのではないかと思う。すなわち、問題だと思うのは、受験の成否で一生威張ったり僻んだりする人間のモラルと知性の在り方であって、それはあまりに広くかかる人間がみられるので難題のように見えるけれども、本質的にはバカの項目にそういう人間を登録するだけで済む小さな問題である。それに、受験に出てくる問題というのは、確かになかにはひどい問題もあるが、いままで多くの人々によって練られてきた文化的側面だってあるのだ。予備校や塾業界を教える側としても少なからず経験したわたくしには、それが少しわかる。それに、あまり言われないことであるが、受験勉強に、いじめや思春期の鬱病を防いでいる側面があることを軽視すべきでない(促進している面もあるんだけどな、もちろん)。われわれの社会は、コミュニケーション(笑)で物事を決めたり政府を転覆させたりするような感じにできていない。必ず、コミュニケーション能力がいじめ的に展開する。むしろそれから逃げるために、文化的な豊穣さが生じている。それがなかったら斎藤環氏がどこかで言っていたようにヤンキー的なコミュニケーションがひたすら金儲けと人を支配するために展開する世界が広がっているだけである。まあ、成金的マインドの人間が文化にかんでいるそぶりをして批評家面をすることがままあるが、そんなことは彼らが人を使うためにやっていることに過ぎないので、本質的なことじゃない。日本はたぶん、人間を文化的伝統で辛うじて支えているような国である。わたくしは、試験問題を更に高度に文化的に洗練させて行く道がかなり残されていると思う。それはセンター試験のような選択式問題じゃダメです、記述式の二次試験じゃなきゃ。まずは、簡単な問題ばかり望む受験生に媚びたりする大学側や、解けもしないのになぜか問題を批判したりする人々に、もう少しマジメになって頂くことが重要である。

よくわからなくなってきたが……、たぶん、発案者の狙いは、自分の大学に入学者を増やすことと、センター試験による、大学のランク付けである。本当にやりたいのは、学生が一点刻みで評価されるのをやめることではなくて、大学が偏差値の数値刻みで受験生に評価されるのをやめたいのだと思う。つまり殿堂入り大学とか勝ち組大学としてランク付けされたいのである。

構造主義の人と音楽

2013-10-09 23:47:07 | 思想


「構造」という発想が、クラシック音楽と強い関係性がありそうだなどとは、わたくしでさえ中学生のときに思いついたのだから、特に構造主義の大家と音楽を論じてみるということ自体は、それほど新奇でないように見える。ベリオの「シンフォニア」に、レヴィ=ストロースが引用されていることもわりと知られている。しかし、「ベリオのオマージュ」の章を読むと、なかなかこう分析出来るものじゃないな、と感心した。著者はレヴィ=ストロースの「相同性」の観念に批判的であるが、私は相同性を呪文のように唱えているうちに、シューベルトの歌曲みたいなものも出て来ないとは限らないと思うのである。(違うか……)

度び度び言い訳に来ました

2013-10-08 23:07:30 | 大学


 老人は遂に懐からタオルのハンケチを取出して鼻を啜った。「娘のあなたを前にしてこんなことを言うのは宛てつけがましくはあるが」と前置きして「こちらのおかみさんは物の判った方でした。以前にもわしが勘定の滞りに気を詰らせ、おずおず夜、遅く、このようにして度び度び言い訳に来ました。すると、おかみさんは、ちょうどあなたのいられるその帳場に大儀そうに頬杖ついていられたが、少し窓の方へ顔を覗かせて言われました。徳永さん、どじょうが欲しかったら、いくらでもあげますよ。決して心配なさるな。その代り、おまえさんが、一心うち込んでこれぞと思った品が出来たら勘定の代りなり、またわたしから代金を取るなりしてわたしにお呉れ。それでいいのだよ。ほんとにそれでいいのだよと、繰返して言って下さった」老人はまた鼻を啜った。

――岡本かの子「家霊」


大学に行くと、言い訳が飛び交い、もっとひどいのになると、笑ってごまかすとかそんな隙も見せず逆に威張り出すとか、まあ、自分のミスを謝りたくない輩が跋扈している。学生については、まだ矯正すればよいが、大人はどうしようもない。たぶん、日本のあちこちで、上司が部下を育てるシステムが崩壊しているのである。原因ははっきりしている。いろんな意味で「別」の人間が、部署のトップレベルの人間(ていうか、なんていうのこういう人たち?)の裁量を奪っているからである。そりゃそうだ、奴隷同士じゃお互いに仕事をチェックしあうこともなく、考えるのは、如何に仕事の手を抜くかだけだ。教育現場でも同じである。自分の頭で判断し考えていない教員のいうことなんか、生徒は聞かない。むしろ、自分と同じ奴隷を発見して駆け引きに打って出るだけである。こんなのは、とてもわかりやすいよくある事態なのであるが、この程度の人間的な必然性を自覚できない奴隷が増えてくると、わかりやすい事態ではなくなる。そんなとき奴隷は、非現実的な夢を見るようになるのである。正しく威張る上司(笑)とか、倍返しする自分(笑)とか。こうなったら今度は歴史の主役は、彼ら奴隷たちのものである。そして現実にはますます奴隷である。