★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

客間とお勝手のあいだを走り狂い

2013-10-27 22:28:01 | 文学


 奥さまは、もとからお客に何かと世話を焼き、ごちそうするのが好きなほうでしたが、いいえ、でも、奥さまの場合、お客をすきというよりは、お客におびえている、とでも言いたいくらいで、玄関のベルが鳴り、まず私が取次ぎに出まして、それからお客のお名前を告げに奥さまのお部屋へまいりますと、奥さまはもう既に、鷲わしの羽音を聞いて飛び立つ一瞬前の小鳥のような感じの異様に緊張の顔つきをしていらして、おくれ毛を掻かき上げ襟えりもとを直し腰を浮かせて私の話を半分も聞かぬうちに立って廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げてお客を迎え、それからはもう錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋なべをひっくりかえしたりお皿をわったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りになった後は、呆然ぼうぜんとして客間にひとりでぐったり横坐りに坐ったまま、後片づけも何もなさらず、たまには、涙ぐんでいる事さえありました。

~太宰治「饗応夫人」

10です

2013-10-27 04:41:45 | 日記



主人公は能年玲奈演じる秋ではなく小泉今日子演じる春子である。たぶん、脚本を書いたクドカンが小泉今日子が活躍したような80年代の亡霊に決着をつけようとしているからである。

わたくしは、「あまちゃん」を現実的に理解しようとするときに、「リトル・ヴォイス」に描かれているような現実を傍らに置いておく必要があると思っている。「リトル・ヴォイス」における、ジャズシャンソンにおいて成熟する娘と、流行のロックロールに夢中ながさつな母親といった現実のことである。春子と夏の関係は、こんな現実の楽しいパロディという意味で、もうかなり現実ではない、と私は思うが、現実的である側面もある。

若き春子は「海死ねウニ死ね」とか書いていた割には、いわゆる「田舎のがさつな非文化的な同調圧力」に反発していたのではない。むしろ、母親の「来る物は拒まず去る者はおわず」といった独立主義に対して反発していたとみるべきである。大江の「セブンティーン」にでてくる、アメリカナイズされた父親ににて、子供はむしろ干渉を望んでいるわけだ。まさに、あまちゃん世代たる所以である。春子の東京行きは、アイドルになりたいとかいう理由とともにそんな思春期的な動機を持っていたわけであって、こりゃきわめて少し前の現実的な風景である。

しかも、春子はアイドルになりたかったのであって、プロの歌手になりたかったのではない。コンテスト荒らしの春子がチャレンジした東京での「君でもスターだよ」コンテストは、「君は別にスターではないが、スターだよ」という意味であり、それがアイドル歌手なのである。しかし、独立主義者でありプロ主義者である母親は、こういうコンテスト自体を「くだらない」といい、「0か10か」と決断を迫る。こういわれたら、春子は「10です」というしかない。それはアイドルというプロになることを意味する。まあこの時期のアイドルは単体の偶像「聖子ちゃん」等であったから、いまの多数決で決まるような群としてのアイドルとは違っていた事情もあろうね…

しかし、彼女は鈴鹿ひろ美の影武者という「歌専用のプロ」として偶然デビューしてしまった。ある意味で、春子は論理必然的な結末を迎えているのだが、本当にデビューしているわけではないから自分を半端者としか感じられない。アイドルをアイドルとしかみておらず、たぶん若い頃から、価値の複合物である商品としてのアイドル個人の自己同一性を認めていないプロデューサー太巻は、春子と対立してはいない。売るプロに徹することでアイドルの自律を認めないだけのことである。太巻きと春子は裏腹である。女優に特化した鈴鹿ひろ美も同じである。太巻はさすが時代を読み、かつ影武者事件の後悔からか、やや整合性を図ってアマチュアリズムを大切にすることで歌が下手でもよいというアイドル路線に転向しているのだが、これも夏譲りのプロ主義の春子にはますます認められない。ところが、春子の娘の秋が、半端者であるがゆえにか、アイドルとして曲がりなりにも成功してしまう。娘の秋は、一緒にやっている仲間と楽しさを、アイドルの価値自体よりも優先しているような人間である。パートナーのユイが春子が目指したようにプロを志向して派手に挫折している(春子と似て「グレている」)のとは対照的である。(秋は、ユイに「アイドルがダサイことはわかってる。楽しさのためにダサイぐらい我慢しろ」と説教している)現在成功するのは、アキのような共同体主義の人間であり、春子は、独立主義の夏とそういう共同体主義の秋に挟まれて彷徨しているのである。たぶん春は思春期の春でもあろうし、彼女の名前にだけ「子」が付いているのも意図的だろうね…。思春期は、理想の自己と現実の自己の分裂があり、春子の理想の自己の亡霊はいまだにさまよっている。人生を全うできなかった地震津波の死者とおなじように。

結局、春子は、半端者の秋がみんなを喜ばすのを目撃する。秋は海女としてもアイドルとしても半端であるのだが、どちらも人間的な愛嬌で両立させてしまうことで、みんなを喜ばす。彼女の、「人と楽しければどっちも」主義は、海女とアイドルだけではなく、同時に岩手の東京の価値位階をも無化してしまうのだが、まあこれは、震災の効果でもあると云うべきであろう(現実はむしろ東京と東北の差別化が進んだのが震災後の状況であるが…)。秋は震災がなければ東京で芸能人として自律したかもしれないからだ。とまれ、春子はこれをみて二者択一の東京主義プロ主義に縛られていた自己を揚棄させたのであろう。また、一方、春子にとって影である自分に対する生身であった鈴鹿ひろ美が、プロの歌い手として自立することで、影である部分を消失し、秋の母親・支援者として自己同一性を獲得する。鈴鹿ひろ美もプロとしてブラウン管を通じてではなく直接聴衆の喝采を浴びて満足満足。はい、よかったね…。

しかし、はい、現実はこうはいかない。なぜなら、現実にはドラマにはない「政治」があるから。「政治」は放射能や悪人や学問や受験勉強の様にこのドラマの外部にある。共同主義者・秋がいろいろあってヘイトスピーチに参加したり、ユイの父親が安部首相のような人物でそのおかげで彼女がデビューしたり、震災であっさり夏が死んだり、といった平行宇宙が我々の現実である。夏・春子・秋という豊かな季節を体現する登場人物に対して、出てこなかった冬はおそらく現実のことであり、脚本家が如上の結構に意図的であったことが明らかであると思う。

つまりこのドラマは夢なんだが、夢には悪夢というものもあって、恐ろしいのは、種馬、いや間違えた種市先輩と秋の子どもが、「冬男」と名付けられ、東北出身の将校となり、ファシズムを…。その意味でも「あまちゃん2」はあり得ない。