路地は即ち飽くまで平民の間にのみ存在し了解されてゐるのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然と其の種属ばかりに限られた通路を作ると同じやうに、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ら彼等の棲息に適当した路地を作つたのだ。路地は公然市政によつて経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響に午睡の夢を驚かさるゝ恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買はずとも世間の噂は金棒引の女房によつて仔細に伝へられ、喘息持の隠居が咳嗽は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種云ひがたき生活の悲哀の中に自から又深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡て此の世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは又この世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返なぞ云ふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地は又渾然たる芸術的調和の世界と云はねばならぬ。
――永井荷風「路地」(『日和下駄』)
……わたくしは、どうも、こういうことを書く荷風がいつまでたっても好きになれぬ。