「構造」という発想が、クラシック音楽と強い関係性がありそうだなどとは、わたくしでさえ中学生のときに思いついたのだから、特に構造主義の大家と音楽を論じてみるということ自体は、それほど新奇でないように見える。ベリオの「シンフォニア」に、レヴィ=ストロースが引用されていることもわりと知られている。しかし、「ベリオのオマージュ」の章を読むと、なかなかこう分析出来るものじゃないな、と感心した。著者はレヴィ=ストロースの「相同性」の観念に批判的であるが、私は相同性を呪文のように唱えているうちに、シューベルトの歌曲みたいなものも出て来ないとは限らないと思うのである。(違うか……)
「構造」という発想が、クラシック音楽と強い関係性がありそうだなどとは、わたくしでさえ中学生のときに思いついたのだから、特に構造主義の大家と音楽を論じてみるということ自体は、それほど新奇でないように見える。ベリオの「シンフォニア」に、レヴィ=ストロースが引用されていることもわりと知られている。しかし、「ベリオのオマージュ」の章を読むと、なかなかこう分析出来るものじゃないな、と感心した。著者はレヴィ=ストロースの「相同性」の観念に批判的であるが、私は相同性を呪文のように唱えているうちに、シューベルトの歌曲みたいなものも出て来ないとは限らないと思うのである。(違うか……)