参りそめし所にも、かくかきこもりぬるを、まことともおぼしめしたらぬさまに人びともつげ、たえず召しなどする中にも、わざと召して、「若い人参らせよ」と仰せらるれば、えさらず出だしたつるにひかされて、また時々出で立てど、過ぎにし方のやうなるあいなだのみの心おごりをだに、すべきやうもなくて、さすがに、若い人にひかれて、折々さし出づるにも、馴れたる人は、こよなく、何ごとにつけてもありつき顔に、われはいと若人にあるべきにもあらず、また大人にせらるべきおぼえもなく、時々のまらうとにさし放たれて、すずろなるやうなれど、ひとへにそなた一つを頼むべきならねば、われよりまさる人あるも、うらやましくもあらず
姪と一緒に宮中にパートタイムに出る主人公であった。尊敬もされてないが、うらやましくもないといっている。このような人もいていいじゃないかと昨今の働き方改革的視点ではなるかもしれないが、――現実と夢のギャップが~、と感じているようなタイプが経験しなければならないのは、他人に対する自らのワルイ心と戦ってなんとかやってゆくことである。責任が生じると、人間同時に自分で何とか出来るという自由も得るのである。責任が自由と相反するかのような思想が、若者たちを受け身でずるい人間に育ててしまう。自由には責任が伴う、のではない。責任に自由が伴うのだ。
わたくしも非常勤で働くという経験を、院生時代を中心に続けていたが、授業は慣れていっても自由は得なかった。そんな気もなかった。わたくしはそのほかのこと集中したかったからである。しかし、本当にそういうことでよかったのかどうかは分からない。責任は負おうとしなくてももう既に存在しているからである。わたくしはこの時代を深く後悔している。
あまりに社会的制裁が横行しているものだから、責任を制裁の危険性としか認識しない人間が増えている。気持ちは分かるが、これでは我々はもう主体では無い。校則をやめるんだったら、コンプライアンスみたいなものを振り回すこともやめなければならない。正直申し上げて、人間の魂にとって二者はほとんど同じもんである。
知識人の思い上がりというのはほぼ自由とは関係なく、自分の能力が適応化能力であることを忘れるところからくるのである。それは庶民の自尊心の高さの理由と同じである。この二極から挟まれて自由が死にかかっている。
クリスマスとは何ぞや
我が隣の子の羨ましきに
そが高き窓をのぞきたり。
飾れる部屋部屋
我が知らぬ西洋の怪しき玩具と
銀紙のかがやく星星。
我れにも欲しく
我が家にもクリスマスのあればよからん。
耶蘇教の家の羨ましく
風琴の唱歌する聲をききつつ
冬の夜幼なき眼に涙ながしぬ。
――朔太郎「クリスマス」
さすがに、この人くらいになると、うらやましさだけで詩が出来てしまう。本当は、更級日記のお嬢さんも「うらやましくもあらず」だけでなんか表現が出来たはずであった……。ああ、確かに「更級日記」を書いていた。