★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

アマテラスの分身

2021-04-29 23:17:21 | 文学


内裏の御供に参りたるをり、有明の月いと明きに、わが念じ申す天照御神は内裏にぞおはしますなるかし、かかるをりに、参りて拝みたてまつらむと思ひて、四月ばかりの月の明きに、いとしのびて参りたれば、博士の命婦は知るたよりあれば、灯篭の火のいとほのかなるに、あさましく老い神錆びて、さすがにいとようものなど言ひゐ足るが、火ともおぼえず、神のあらはれたまへるかとおぼゆ。

夫が単身赴任したのでなんかうれしそうな――、以前、伊勢にアマテラスに会いに行くのは大変だし内侍所にアマテラスの神鏡があるというけど、そんなところいけたもんじゃないわね、という思う場面があり、「まあ拝んどけばいいか」みたいな軽い感じであったのが、とつぜんに「わが念じ申す」対象となっていた。契機となった出来事があったかしれないが、ちょっと忘れてしまった。

まさに彼女の不幸な人生がもたらした弁証法的神の誕生である。で、会いにいってみたら、「博士の命婦」という老女がいて、神がかった美しさなのである。

まことに不思議なことであるが、こういうことは案外人生には多い。だからといって、人との出会いの大切さとかいう説教は、ただの処世術のススメなのでどうでもいいが……

隣人が神である、みたいな、もう柄谷行人の他者論みたいではないか。やはり柄谷氏の延長には神がいる。それは冗談として、――アマテラスと鏡には、その鏡を守る神としてのアマテラスと、鏡の光そのものみたいなアマテラスのような、分身が含まれていて、ストレスから解放された更級日記の人の神経にそれが次々に映ったのである。人間にもその分身は照らされてそこにできあがる。

 森の神様が砂原を旅する人々のために木や竹を生やして、真青に茂りました。その真中に清い泉を湧かして渇いた人々に飲ましてやりました。すると大勢の人がやって来て木の下へ家を立て並べて森のまわりに柵をして、中へ休みに入る人からお金を取りました。水を飲む人からはその上に又お金を取りました。
 森の神様はこんな意地の悪い人々を憎んで、森を枯らして泉を涸らしてしまいました。
 旅人からお金を取った人々は大層困って「何という意地の悪い神様だろう」と、森の神様を怨みました。
 森の神様は言いました。
「私はお前たちのためにこの森をこしらえたのではない。旅人のためにこしらえたのだ」


――夢野久作「森の神」


夢野の作の全文である。夢の作品では、他者は親しいのか神なのか最後までわからない。この神様も、怖ろしいのかちょっと頭をこずいてやりたくなる小物なのかわからない。確かに人間が小物なのは明らかであるが、その明らかさがあまり認識の深さを感じさせない。神は分身を造りすぎて、くだらない神たちが多く存在してしまったのであろうか。