★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

物体の風情

2021-04-19 23:08:56 | 文学


楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、「定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候。」と、色代してぞ出迎ける。道誉は相摸守の当敵なれば、此宿所をば定て毀焼べしと憤られけれ共、楠此情を感じて、其儀を止しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖をも不失。剰遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置て、郎等二人止置て、道誉に挍替して、又都をぞ落たりける。道誉が今度の振舞、なさけ深く風情有と、感ぜぬ人も無りけり。例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。

次に使う人のために屋敷の中を文化的に飾っていったところ、案の定それに感心した楠木は「秘蔵の鎧に白太刀一振置」いて去った。これに対して、流石の風流だと感じる人と、騙されて鎧と太刀をとられたじゃないかとせせら笑う人がいた。ここの記述は、「なさけ深く風情有と、感ぜぬ人も無りけり」と一度断定しておきながら、そういえば、笑った人も多かったね、と付け加えている。どうもこれは事実ではなく、記述者の内省ではなかろうかと疑われる。

風流に対するこの程度の認識は特に批評とは言えないのではないかと思うが、――これはわたくしは昨日申し上げた、認識のコモンセンスが欠けている状態を示しているのではないかと思う。風流がこの場合、部屋に飾られた偈とか韓愈の詩文が、あくまで物としてあって、酒肴の物達とともにある。この状態では、物と化した風流は解釈に曝されてしまう。本当は、ここで、和歌を詠む行為が存在すれば事態は一変するように思うのだが…

一葉が文学を愛する人々の心に一つの絶えない魅力を与えているのは、彼女の生涯と芸術とが、近代文学における旧きものと新しきものがいれかわろうとするそのきのうときょうとの入りまじった仄明りの火に、小さい粒ではあっても真珠の趣をそなえて、自身の真実を語っているからであろう。
 彼女から後代の作家は男であると女であるとにかかわらず、荒い大きい濤にうたれて、一葉が「たけくらべ」で輝やかしている露のきらめきの美しさとはおのずから別種のものとなっているのである。


――宮本百合子「人生の風情」


確かに、こういう転形期における混淆の中に物体の美しさを見出すことはあるかもしれないが、こんにちはどちらかというと、変化の前の滞留期であるような気がする。周りの人間が輪郭を失っているので、とりあえず自らが物体と化す努力というわけだ。一応、ネットの世界は、混淆のなかの個の美しさを出す可能性を示してはいるのかも知れない……