★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「つゆもかなはぬ」序曲

2021-04-26 23:48:00 | 文学


かう立ち出でぬとならば、さても宮仕への方にもたち馴れ、世にまぎれたるも、ねぢけがましきおぼえもなきほどは、おのづから人のやうにもおぼしもてなさせたまふやうもあらまし。親たちも、いと心得ず、ほどなく籠め据ゑつ。さりとて、その有様の、たちまちにきらきらしき勢ひなどあんべいやうもなく、いとよしなかりけるすずろ心にても、ことのほかにたがひぬる有様なりかし。
  幾千たび水の田芹を摘みしかは思ひしことのつゆもかなはぬ
とばかりひとりごたれてやみぬ


あんたは芹を摘んだことあるのかと思うが、――これは、心を届けようとしてうまくいかないときによく使われた喩えであった。この歌の気負いは、「幾千たび水の……つゆも……」にあらわれていると思うが、なんとなく更級日記のひとの不安定さを感じさせる。紫さんや清さんの文豪的愚痴のものすごさからは遙かに遠く、しらんうちに宮仕えにいったとおもったら、家に帰されて結婚させられる。この人にとっては人生は愚痴を剥奪された水みたいなものである。

自分の希望は叶わんなあ、と思っている三十代ぐらいは、まだまだ人生は始まっていない。のし掛かりはじめた罪障感のなかでこそ人生が始まることを知っておかないといけないと思う。自分が正しいと思っているインテリはそこを結構間違えるので、いざ人生が始まったときに衝撃のあまり顛倒してしまうこともある。考えてみると、更級日記のお嬢ちゃんはさいしょから案外ぼうっとしているからそうでもなさそうだが、――いずれにせよ、まだ彼女は序曲を奏でている。

諸井誠氏が、『交響曲名盤100』という本を書いていて、わたくしは十代の頃愛読していた。文章がよくていまでもかなり諳んじている。諸井氏は「死者の歌」と「トゥーランガリラ」の間で交響曲は命脈を絶った、と書いていたとおもうが、その書き方がなんか生々しくて、小学生の私にとっては、最近死んだんだな、みたいな気がした。実際、「死者の歌」から数年後に「交響曲名盤100」は書かれており大して時間は経っていないわけだった。諸井氏は父の作品や自分の作品だって、この死への過程として位置づけていたはずだ。芸術は生き物なんだとわたしはガキながら思ったわけである。

更級日記のお嬢ちゃんも、こういう感覚から始まったのだ。芸術が生き物であり、始まりがあって終わりがある。これにくらべて、人生は、自分の記憶とは関係なくいきなり始まっており、知らないうちに事態が進捗して行く。しかし、人生はいづれ自分が行ったこととしてあらわれてくる。