★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

理りをも欲心をも打ち捨てた場合

2021-04-06 23:49:21 | 文学


今、持明院殿は、なかなか権を執り運を開く武家に順はせ給ひて、ひとへに幼児の乳母を憑むが如く、奴と等しくなりおはします程に、仁道の善悪これなく、運によつて形の如く安全におはしますものなり。これも御本意にはあらねども、理りをも欲心をも打ち捨ておはしまさば、末代邪悪の時、なかなかに御運を開かせ給ふべきものなり。


いまの世の中に、とくに知識人の間で絶望がひろくゆきわたったようにみえるのは、――日本国憲法の下でも、天皇が邪悪な人間たちによってその地位を堕とされた上に、「奴と等しくなりおはします」状態になってしまうような様を見せつけられたことがあると思う。近代憲法など、我々の国にとっては行動変容を起こすのはあまりに無力のような気がしたからである。

もっとも、憲法は法律ではなく、憲法意志の化身であるべきであり、そんなものが存在していないのに、――すなわち、なにも意志せず行為もしないのに、憲法が存在しているはずもないのであって、我々は依然として、太平記みたいな世界に生きているのはそもそも自明であった。

上の引用のような考え――、邪悪なものが跋扈するときには、その理性も欲もなくしてしまえば、かえって運命というものに従順なものにはなれるという考えは、我々に行き渡っている。語りは、武家の時代を認められない後醍醐天皇を欲望の塊とみなしている。しかし、本当にそんな簡単な話であったはずがない。我々は、すぐに時代とか流れを意識したふりをして、身を縮ませてしまう。

学会もむかしからまあそうであったけれども、河の流れのようである。知らないうちに、同じような言葉を喋らされている。我々はそもそも「研究者」や「学者」という職業人であることに気をとられすぎであり、職域奉公論みたいな考えを持たせられているわけだ。パワハラも大概、無理に自分を職業人として縛るところからくるし、その実、ハラスメントを受ける人間もそうだったりするのである。

例えば、教育に必要なのは、ある種の諦めなのであろう。そのかわり、――というかそのためにも、評価は嘘つかずにちゃんとしたほうがよい。そしてそのことで、学生の側もはやく自分に対して諦めて自分の実力を認めなきゃだめである。なぜこういうことが普通に出来ないかというと、学生が自分のやるべき学業=仕事に対して職域奉公みたいになってるからである。べつにおちこぼれてもいいのである。実際、ある希望を抱いたとしてもいろいろな理由で実力が追いつかないことはあり得るわけで、そのくらいは覚悟すべきなのは当たり前である。それを許せない人間が、指導する側及び受ける側にもいる状態だと、無理な作為が入り込んでハラスメント的な関係が発生する。

希望への「支援」の必要性と言った観点で、うまくいかなくなったら人のせいにするみたいな人間も多いけれども、常にそんなうまく物事が運ぶことはありえない。何が起こるか分からないわけだ。よく言われていることだけど、成功したと自分で思っている人が、都合よく自分の成功物語をくみ上げてるのがよくない。誰もが大して成功はしていないし、いろいろと偶然なわけよ、いまのようになったのは。――しかし、こういうこというと、努力の意義を認めないのかとか言う人がいるけど、認めてるに決まってるではないか。何もしなきゃ何も起きないのはあたりまえだ。が、頑張ったらいいことあるかも、というのは、偶然でよいことあったとき努力したそのせいにできて気分がいいよ、ぐらいの意味だろう。

夢を場合によってはその都度諦めて、次にゆくことを習慣づけないといけない。職域奉公して玉砕するまで我慢する必要はないんだ。うまくいかなくても、自分のせいでも他人のせいでもないわけだ。単に自分がその程度だったというだけである。過剰な自己否定も必要ないけど、肯定も必要なし。だいたい、夢とかが相当な割合である「職業につくこと」になってること自体がちょっとおかしいんだ。そういう人がいてもいいが、全員がそうすべきみたいな雰囲気であるのは明らかに狂ってる。

つまりは、ハラスメントは、何があっても自由な人生を得る勇気が存在している分だけその発生する確率は減るのだが、その自由だけは抑圧して効率的に職域を発揮しようとしたり個々の平安を得ようとした場合は、そりゃ職業は平安や勝利を目的とした軍隊に接近する。――それだけはやめる気がないのが我が国だということである。

その原因が、河の流れのように――みたいな考え方に潜んでいるし、また因果業報みたいな考え方にもあるに違いない。あまりにも過去のことを都合よく忘れる頭の悪い連中を諫めるために生まれた因果業報という発想が、原因からの作用が結果になるみたいな発想を生むのである。この発想自体が他人からの作用を感じればハラスメントみたいに思う感性を生み出している。