★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

おのづからよきためしもあり

2021-04-24 23:33:33 | 文学


父はただわれをおとなにし据ゑて、われは世にもいで交らはず、かげに隠れたらむやうにてゐたるを見るも、頼もしげなく心細く覚ゆるに、聞こしめすゆかりあるところに、「なにとなくつれづれに心細くてあらむよりは」と召すを、古代の親は、宮仕へ人はいと憂きことなりと思ひて、過ぐさするを、「今の世の人は、さのみこそはいで立て。さてもおのづからよきためしもあり。さても試みよ」と言ふ人々ありて、しぶしぶにいだし立てらる。

更級日記がやはり好きなので、再読し始めたが――、宮仕えの人たちはいやな連中だみたいな観念が「もう古くさい」と思われていたにせよあったのはもっと強調されても良い気がする。研究を調べていないので、なんとも言えないが、やっぱり、権力のもとで女性として下働きする行為がうさんくさく思われていたのかな、と思うが、それはわたくしの想像である。戦前に自分の娘を売ってしまうことより遙かに私的な欲望が強い行為には違いない。誰かが「さてもおのづからよきためしもあり」とか言ったというが、「も」でなくて、完全にこれが欲望の中心である。

更級日記の主人公は、こういう欲望から何だかしらんが浮き上がっている。しかし、こういうのに対し、現実を知れ、みたいな批判が自動的に出てきてしまうのが昨今のあれであるが、――ある意味で子どもっぽさを最近はもう少し再考してみようと私は思っている。発達障害とか、発達段階とか、全ての人間は発達すべきのような論調は、いやだなあ……。文化というものは発展とはそりが合わない概念なのである。耕すわけなんで……。

古代希臘の彫刻はいざ知らず、今世仏国の画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに露骨な肉の美を、極端まで描がき尽そうとする痕迹が、ありありと見えるので、どことなく気韻に乏しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ故、吾知らず、答えを得るに煩悶して今日に至ったのだろう。肉を蔽えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば卑しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を留めておらぬ。衣を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、飽くまでも裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者を強うるを陋とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦せるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの諺はこれがためである。

――「草枕」


「古代の親」ではなく、いきなり「古代希臘」がでてくるだけでも、近代になってよかったと思うね……