何心もなくうちとけてゐたりけるを、 かうものおぼえぬに、 いとわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。 されど、さのみもいかでかあらむ。
人ざま、いとあてに、そびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。 かうあながちなりける契りを思すにも、 浅からずあはれなり。
「むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと」と思春期男子みたいなことを言うておる源氏に対して、「明けぬ夜にやがて惑へる心にはいづれを夢とわきて語らむ」と高度なところを見せる明石の君であったが、源氏はいまやルサンチマンがたまったブラックホールのような男。上のように、「されど、さのみもいかでかあらむ」とか思って狼藉を働くのであった。何が「人ざま、いとあてに、そびえて、心恥づかしきけはひぞしたる」であるかっ。漱石ならこう言うところだ。
すまじきところへ気兼をして、すべき時には謙遜しない、否大に狼藉を働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。
――「吾輩ハ猫デアル」
ところで、最近、文学作品から、れいわを探すのが趣味である。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居ら
れる。」「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならな
い。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「わしだって、平和を望んでいるのだが。」