★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

堪へがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど

2019-04-03 23:16:58 | 文学


今日は、いくつかいただいた本を読んだり返事を書いたりした。コールサック社からは齋藤愼爾氏の書評集が届く。

いとあるまじきこと。 これは、ただいささかなる物の報いなり。 我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世を顧みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことの あるによりなむ、急ぎ上りぬる


以前、明石の巻をざっと読んだときは読み飛ばしていたらしいのがここで、源氏の夢に出た亡き桐壺帝のせりふである。源氏に対して「ただいささかなる物の報いなり」と慰めているが、あんたはホントのところをどこまで知っておるのであるかっという感じである。自分に対しても「あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ」というのが、なんかいまどきと似て、誤りはなかったのですが無意識に誤りました、とはなんということであろう。こんなだから君主はだめなのだ。帝が桐壺と遊んでいる間に、下々の者が沢山やらかしておるわ。

しかし、まあ罪の報いは案外時間がかかったらしく、この世を顧みる暇がなかったらしい。「暇」というのがこれまた、研究時間を捻出しようとする研究者のいいわけみたいでいやであるが、それはともかく、そのあとがいい。「堪へがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべき……」。忙しい。桐壺帝は源氏その他の窮地を見かね、海を越え陸地に上がりついでに京都に行こうとしている。まるで、ゴジラである。というか、ゴジラがそもそもそういう帝の亡霊的なものなのである。

今日は、「万引き家族」をDVDではじめて観てみた。いい映画だった。宮台真司がいうみたいに、万引き集団と化している家族を描いて、「法」や「言葉の自動機械」から逃れられないことへの怒りを表現した側面は確かにあるのかもしれない。宮台が言う法や言葉には、暴力を引き起こす「倫理的」「理想」的家族関係のイメージだけでなく、家族にかかわる種々の行事や贈り物の習慣も含まれていようが――それによって疎外されてしまった個人がいたとして、では、彼らが拾われたりしてなんとなく集まった集団に「家族」が可能か、というのが映画の設定である。この映画によれば――、そういう『絆』によってのみつなぎ止められた擬似家族も、やはり各個人の持っている倫理観(例えば、この家族の場合は前科者であることによって「犯罪はまあしょうがない場合もあるよね」という地点まで来てしまったカップルがリーダーである)によって成り立つほかはなく、それはいずれ崩壊する(万引きをやらされている子どもがある意味意図的に捕まることによって――)運命にあるのであった。樹木希林の死体を遺棄したという非難に対して、「捨てたのではない、(じぶんたちが)拾ったんだ。捨てたやつは他にいる」という安藤サクラのせりふはすごかったが、――彼女も、家族が人を「捨てる」ことが意図的ではなくともあり得るのだということに気づく。だから、最後に、自分の世話してきた少年をあえて手放そうとするわけである。

それでも、辛うじて「家族」がなりたつ場合があって、それは肉体的な感覚である。朝ドラとかで完全に消えているのはこの感覚で、リリー・フランキーや安藤サクラ、樹木希林などの肉体が生々しく調和していた。松岡茉優を含め、すごく上手い役者がそろっている映画なのであるが、監督は、役者の肉体をみて配役を決めているに違いない。

それにしても、社会や家族の成り立つ条件だけをみつめつづけなければならないわれわれは狂っている。どうりで政治まで手が回らないわけである。かくして、桐壺帝やゴジラに破壊を頼みたくなるのである。