★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Gleichschaltungのやり方に就て

2012-05-24 23:25:32 | 思想


デリダの「精神について」を読んでいたらとても疲れたので、「野望の王国」を読む。たしか、七〇年代から八〇年代にかけての作品である。東大法学部のエリートがヤクザ社会で天下を取る──それが日本をすなわち自らの「王国」として作り上げることになるという誇大妄想を実力で実現しようとするお話である。ヤクザ社会を左翼勢力に置き換えてみれば、やけくそになっていた学生運動のお話と見ることも出来よう。家族を敵対勢力とみ、警察に自分たちの分身をみるとか、ほとんどある種の左翼文學そのものである。が、デリダのハイデガーの所謂総長就任演説の分析をみるに、ほんま、日本の革新勢力は権力の問題を「野望」の問題とか思っているからだめなんじゃ、と思ったわ。だいたい、日本の為政者や大学の経営者は、ハイデガーよりも露骨にナチスばりのことを言っているのが殆どである。ハイデガーは諸学問や諸力(笑)が血と土に根ざした精神的指導geistige Führung に導かれるとかなんとかの問題として語っているようにみえる訳であるから、陰険でかつ当たり障りがない(なわけないが……)のだが(少なくとも馬鹿には「血と土」云々の部分しか分からんし……ワシも分からん)、吾々の社会の場合は、露骨に実践とか塊への従属が唱えられたりして、まったく「野望の王国」状態なのである。