何の前触れもなく「名曲のたのしみ 吉田秀和」と本人がしゃべってはじまる「名曲のたのしみ」、というより「名曲のたのしみ 吉田秀和」というFMの深夜番組は、クラシック音楽や文學に携わる者にとって、深夜の心の友、というか、過去の論文執筆ややけ酒の記憶に混じっている何物かである。その吉田秀和が亡くなった。98歳!
伊藤整に英語を習い、小林多喜二のビオラを聴いたことがあり、阿部六郎の家に住み、中原中也にフランス語を習い、大岡昇平や小林秀雄と遊んだという、音楽というより文学関係の人である。小林秀雄の「モーツアルト」には、ちょっと音楽をかじった連中にでもすぐに馬鹿に出来る余地というものがあるようにおもうが、吉田秀和は難敵である。この人によって、わたくしなんかも含め、文学をやっている連中が音楽について一言云えるんではないかという幻想をつくってしまったような気がする。小林秀雄では出来なかったことであろう。
吉田秀和の語りは上のFM番組でそうだったけど、音楽を「さあお聞きください」と紹介してラジオを聴いている人に「どうでしたか?」などと言うことがない。「さあ聴きましょう」と言い、音楽が終わると、いきなり自分の感想──フランスの哲学者とか詩人の名前、あるいは隠微な言葉が注釈なしでぽんぽん出てくる──を言う。(小林秀雄もそういう種類の読者へ媚びがなかった気がする。これは、小林の文芸批評の出発点における事情に因るのであろうが、……印象批評の成立要件の根幹を為している気がする。たぶん左翼文士が寄りかかっている、読者とのコミュニケーション主義への反発かなあ……。つまり「印象」と言うより「個人」といった方がよいのであるなあ。)なんと、音楽が番組に入りきらずに、「時間がある限り聴きましょう」の時があった。音楽は、商人から提供されて一人で聴くものではなく、ただみんなで聴くものであり、一人だけの意見を述べる対象だったのである。文学と同じである。この姿勢が与えたクラシック音楽ファンのストイックさへの影響は大きい気がする。なぜか、吉田秀和が紹介する演奏は、名演奏にきこえるのだ。クラシック音楽のファンは、そうやって言葉によって、音楽を言葉として/言葉と共に、洗練させてしまう術を身に付ける(笑)
10代の頃、「吉田秀和もやっぱり輸入業者」とか、英語の勉強をさぼる言い訳をしていたわたくしはだめだった。
いまでもモスクワシアターオペラの来日の時の文章を思い出すわたくしでもある。