★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

五月学会漫遊記

2012-05-13 23:10:47 | 文学
12日……東京に着きました。

昭和文学会研究集会に来ました。

久しぶりに参加するような気がしないでもない……という非協力的な会員の癖に、偉そうに質問したり、懇親会や二次会でも日本酒をがぶ飲みしつつ地道にがんばっている研究者や批評家に対してあることないことふっかけていたらしいわたくし(あかん……)



日付が変わる頃、いつもの浅草の宿にたどり着いて気絶。

13日……日が昇ったので大阪に向けて出発。


山手線ホーム(どこか)


快晴なのに


そろそろフジヤマが見えるはずである




頭が出てきたフジヤマ


にょっきり





妹などに写真を送りつけるわたくし




大阪大学についた





ハイデガーの二つの発表、西田幾多郎の発表を一つ聞いた後、共同討議「必然性・偶然性・自由」。周りを見渡して思ったんだけど、日本哲学会って男が多いなあ、これに較べればいつもわたくしは女性に囲まれて文学の研究をしているのだなあと錯覚に陥ったよ、このときゃ……。共同討議を聞いて、まあ、昭和初期の文学と思想のあれこれをいじくり回している私にとっては、問題の基本的骨格はたぶん変わっていないというふうに思われた。現在、自由や偶然性の問題が語りにくいのは、科学やマルクス主義が必然性という言葉を容易に言ってくれなくなっていることであるように思われた。敵が硬直していないので、哲学者も文学者もそれに対立できないのである。にもかかわらず、誰も本気で自分が自由だと思っていない一方で、自由はそれっぽく見える立ち振る舞いの問題として依然としてあるわな。例えば、尾崎豊の歌ってることなんぞ、彼の本質的自由さを現しているわけでもなんでもなく、その余りの平凡さ故に人気があるわけであるが、我々が学校の規則や親や聖書や神の束縛から自由になろうとすることはある。のみならず、どこでそんなことが起きるかが予言できそうにないこと──それが偶然性という自由さであるとは残念ながら我々は思えない。あるいは、それが予言できるほど科学が発達したとしても、依然として、自由という言葉が我々のお尻をむずむずさせる時に付随して起こる何らかのくだらない意識現実そのもの(現実の記述ではなく……)が、そもそも自由や必然性を議論する出発点だと思う。だから、そもそもこの問題は、哲学というより文学でしかリアリティを捉えられない問題なのではないか(……といっても、いまどきの文学関係者には殆どそんな問題意識がないような気がする。だからだめなんじゃ)それを論理で武装する必要があるとすれば、教会やら政府やら党やらを論破しなければならない場合であろう。論理にもレトリックにも本質的に自由はない。しかし、だからといって「自由はない」と言う必要もないのである。実際に何かを突破するときに使える場合があるんだからな。その突破が難しく感じられるほど、我々が権力やら同調圧力やら科学的説明やら環境の快適さで疲れ切っているときに、そらぞらしく現れるのが、案外「永遠」とかいう主題だと、文学研究のわたくしは思った。ロマン派だけでなく芥川龍之介ですら、刹那より永遠、をというコースをたどったからな……。変わらない何かが刻々変化するものより自由に見えるのである。

それはともかく門外漢なので天使の私。



疲れたので帰る