★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

起源

2010-08-27 17:08:40 | 思想
昨日は、思春期における音楽の恐ろしさについて書いたが、今度は一応本業の書物についてである。

中学の時は、ヘルマン・ヘッセとトーマス・マン、高校時代の最初は安部公房や大江健三郎である。よくありそうなチョイスである。昭和がまさに終わらんとする頃で、とすると、なんかあなたのチョイスは時代とずれてないか、と思うそこのあなた!どうせ村上春樹とか新井素子とか読んでたんだろう。はいはい、あなたはポストモダンで結構です。

高校2年生のある日、父親か母親の本だと思うんだが、たしか高山岩男の『哲学入門』(弘文堂)を手にとって読み始めた。すると、これがなんとなく分かったのである。このなんとなくが重要である。なぜなら、さっきこの本を読んでもなんとなくしか分からなかったからだ。京都学派の文章は、このなんとなくの波長に乗りさえすれば、理解は二の次なのではなかろうか。首領の西田幾多郎の座禅の成果かしらないが、なにかα波とか何とか波が出る仕組みがあるんじゃないか。このある種の電波を受けただけで「まあいいか、かっこいいし」と言えるのはある意味思春期だけである。つまり京都学派は今も昔も高校生以下に読ますべきである。大学生になっては手遅れだ、頭がよくなりすぎている。こういうことは、哲学書全般にもいえることかもしれない。

というかんじで、わたしの勘違いは益々はなはだしくなってゆき、その次の月には、吉本隆明の「マチウ書試論」、次の月には柄谷行人の「内省と遡行」に手を出した。このころは、実は柄谷が西田哲学に注目して行く時期にもあたっており、わたしは見事にシンクロニシティしていた訳だ。――単なる偶然です。

これで、学業優等で大学入試も軽くこなす頭脳があればよかったのだが、もとよりわたしにそんなものはない。

というわけでへんな電波を受けたまま現在に至っている。