★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

漂流教室と思春期嫌悪

2010-08-22 23:39:13 | 漫画など
昨日の疲れでまったく体も頭も動かなかった。

蒲団の中でぼーっとしながら、楳図かずおの「漂流教室」のことを想い出した。たぶん、20世紀を代表する漫画の一つである。最初から最後まで、異常なテンションに貫かれた話である。

校舎ごと砂漠化した未来に飛ばされてしまう小学生たちの話である。

教員たちもいっしょだったが、みんな発狂して死んでしまう。関谷という給食のおじさんが、子どもたちといっしょに運命をともにすることになるが、なぜか彼はとっても悪人!食料を独り占めしようとしたり、児童を奴隷化しようとしたり、ひどいものである。彼の年齢に近い私などは、その歳であなたのエネルギーはかえってすごいぞ、と感心するのだが。ともかく彼が専制政治をやろうとするのに対し、児童たちはある程度民主主義的である。これは我猛というIQ230の児童が言い出したことだが、民主?国家をつくろうとする……。しかし怪物に襲われたり、食糧問題が深刻になり、ペストでたくさん死んだりするうちに、それどころではなくなり、国は解散。全財産をランドセルに詰め込んだ一人一人が、もう一回集団をつくるとはどういうことかを問題にしていくのである(たぶん)。そんな過程で共食いをやらかしたりする。

物語は最後にあたりで次のように――、自分たちは過去から疎外されたのではなく未来に蒔かれた種なのだ、と主人公が自覚し、彼に常に同伴していた女の子が恋心を告白して自殺しようとしたり、といった、思春期的で現実的な話に移りかけたところで、実質的にこの物語は終わっているとみるべきだ。一応、過去にいる母親からロケットで生活必需品が送られてきたり、いっしょに漂流してしまった3歳児を悲惨な現実を変えてくれるようにと自分たちがいた過去に送り込むことで、過去と未来双方が少しずつ希望を与えられるというエピソードが最後にあるが、要するに、思春期を徹底的に回避する終わり方なのである。主人公たちは自分たちが成長しておとなになってゆくのを自覚してか、まだ希望がある3歳児に希望を託してしまっている。あとは母と子の愛。希望は、思春期まえの小学生と彼らの母にしかない、と作者は言っているようだ……。

そういえば、性交渉なしにこどもができる話──「わたしは真悟」もそんな感じだよなあ。

アダムとイブを人類の起源とする話は、そもそも思春期以降の大人のユートピア的な下心満載なのであった。知恵の実を食べた人間は、自己の超克すなわち堕落を繰り返す。その結果、地球は砂漠化してしまう。楳図かずお先生の思春期嫌悪が、「漂流教室」で希望を語らせることが出来たのだ。私も、現在よくある、青春漫画のくせに主人公が小学生的な精神を有している設定の作品を好まない。頭が悪い思春期は最悪である。

という感じで、おぼろげな記憶で想像してみたのだが、いま読み返すとどう思うか分からんね。