★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

クルシェネク讃

2010-08-26 17:26:06 | 音楽
私が作品論者であるのは、なんというか、一つの作品を諳んじるまでいじくり回すのが好きなせいであるが、これは思春期のころ、今もそうであるが――クラシック音楽オタクだったことと関係があるかもしれない。クラシック音楽の優れたものは作品自体が取り替えのきかない輝きを帯びているような気がしてくるし、また、作曲者の気分や感情を読もうとしても音の自律性がそれをはねつけるからである。

私は演奏や作曲は大成しなかったが、鑑賞の方はよく自らを訓練した。私はたぶん、いまでもベートーベンとブラームスとマーラーとショスタコーヴィチの交響曲を全曲、鼻歌で最初から最後まで歌うことが出来る。(ブルックナーは反復が多くて間違えそうなので除いた。プロコフィエフは第2~4番がどうしても覚えられない……)この記憶力を英単語を覚える方に使っていたらと、残念でならない。

特に無駄に私の頭の容量を食っていると思うのは、クルシェネクの交響曲第2番の記憶であろう。中学2年の頃、FMで聴いて気に入ってしまい、大学の時にはじめてCDを買えたときは嬉しかった。すぐ歌えるようになった。曲は、マーラーの第10番とベルクとヘンツェをブレンドした感じである。思春期のころの体験というのはおそろしく、この曲の前では、モーツアルトの曲など、ちゃらちゃらしていて聴くに堪えないものばかり、という感じがするくらいである。

かくして、マイナーポエットの作品論しか認めない性狷介な学徒ができあがったのである。

こういう私のようなタイプに一番よい薬は、自分の好きな作品を学生によく分かるように説明する訓練である。

とはいえ、クルシェネクといっても、大学生に説明するときは苦労しそうである。マーラーの娘と結婚してたよ、とか、アドルノと手紙をやりとりしてたよ、とか、グレン・グールドがお気に入りだったよ、とか……これだけ言っても分からないかもしれないから、いざとなりゃ

「ナチスに迫害されてアメリカに逃げて死んだ不幸な人です」

という決めぜりふしかないな。もはや彼の説明ですらなくなっているが……