白爺の父は、白爺が6年生になってすぐに、一人でパラオ島に行きました。
戦争が激しくなり、テニアン島で和服の教室を開いていても生徒が集まらず、友人から「パラオ島では仕事がある」という話を聞いて視察に行ったようです。
しかし、戦争が更に激しくなったのでテニアンに帰ることが出来なくなり、そのまま単身でパラオに住み、南洋庁に勤務することになったようです。
写真は、そのときの採用辞令だそうで、終戦後引揚の時に持って帰国しました。
お役人とは有難いもので、白爺たちがテニアンから強制引揚をして、福井県に落ち着いたら、その落ち着き先まで父の給料を送金してくれました。
写真はそのときの「振込通知書」ですが、振込局の日付印が南洋振替貯金局となっている珍しい通知書です。
19年7月の採用で、まだ一年も経っていないのに高い金額をもらっていますが、裏の明細を見ると本俸34円・加俸給38円・戦時家族手当25円それに戦時勤勉手当等が加算されていたようです。
因みに6月のボーナスは、483円63銭となっていました。
さて、父は身長が既定に届かなかったので、兵隊検査では丙種合格になり、兵役を免除されていました。
しかし、戦雲が急を告げてきたので、南洋庁の偉い方は東京へ転勤、平役人は全員現地応召になったようです。
父も応召し、パラオ守備隊の陸軍一等兵として従軍を開始しました。
兵員手帳は見当たらないのですが、「俸給支払証票」が残っています。
所属した部隊名は「照第7768部隊」というのですが、白爺に「宇都宮連隊?」と話していたように思います。
この部隊は、ペリリュウ島守備隊として派遣される予定で、毎日爆弾を抱えて戦車の下に飛び込む訓練ばかりをさせられていたと話していました。
爆弾を抱えて自爆する兵隊さんの給料が、「俸給支払い証票」に記されています。
本俸9円増給12円合計21円で命を賭けた戦争をしていたようです。
ペリリュウ守備には、部隊の半数が渡島したのですが、途中で米軍が上陸し全員が玉砕してしまったので、父達は渡島を中止・パラオ本島で蛸壺(塹壕)堀ばかりをしていたそうです。
この俸給支払票には、昭和21年12月第14師団復員規定12条により返納と朱書きした欄があるので、この時点で戦争は終わり、父は南洋庁に復員したのだろうと思います。
復員した南洋庁には、父ともう一人の事務員以外は誰もいないので、現地の人を雇い民間日本人の引揚事務に追われたそうです。
食べ物の措置から引揚事務の処理まで、毎日が戦場だったと帰国後話していました。
それでもパラオから最後の引揚船で帰国してくれたので、余命少ない白爺の母に会うことが出来ました。
その1ヵ月後に母は亡くなりましたが・・・。
白爺はいろいろな人生経験をしてきました。
しかし、父も同じように多彩な人生経験をしたようですねー。
ご苦労さまでした。
戦争が激しくなり、テニアン島で和服の教室を開いていても生徒が集まらず、友人から「パラオ島では仕事がある」という話を聞いて視察に行ったようです。
しかし、戦争が更に激しくなったのでテニアンに帰ることが出来なくなり、そのまま単身でパラオに住み、南洋庁に勤務することになったようです。
写真は、そのときの採用辞令だそうで、終戦後引揚の時に持って帰国しました。
お役人とは有難いもので、白爺たちがテニアンから強制引揚をして、福井県に落ち着いたら、その落ち着き先まで父の給料を送金してくれました。
写真はそのときの「振込通知書」ですが、振込局の日付印が南洋振替貯金局となっている珍しい通知書です。
19年7月の採用で、まだ一年も経っていないのに高い金額をもらっていますが、裏の明細を見ると本俸34円・加俸給38円・戦時家族手当25円それに戦時勤勉手当等が加算されていたようです。
因みに6月のボーナスは、483円63銭となっていました。
さて、父は身長が既定に届かなかったので、兵隊検査では丙種合格になり、兵役を免除されていました。
しかし、戦雲が急を告げてきたので、南洋庁の偉い方は東京へ転勤、平役人は全員現地応召になったようです。
父も応召し、パラオ守備隊の陸軍一等兵として従軍を開始しました。
兵員手帳は見当たらないのですが、「俸給支払証票」が残っています。
所属した部隊名は「照第7768部隊」というのですが、白爺に「宇都宮連隊?」と話していたように思います。
この部隊は、ペリリュウ島守備隊として派遣される予定で、毎日爆弾を抱えて戦車の下に飛び込む訓練ばかりをさせられていたと話していました。
爆弾を抱えて自爆する兵隊さんの給料が、「俸給支払い証票」に記されています。
本俸9円増給12円合計21円で命を賭けた戦争をしていたようです。
ペリリュウ守備には、部隊の半数が渡島したのですが、途中で米軍が上陸し全員が玉砕してしまったので、父達は渡島を中止・パラオ本島で蛸壺(塹壕)堀ばかりをしていたそうです。
この俸給支払票には、昭和21年12月第14師団復員規定12条により返納と朱書きした欄があるので、この時点で戦争は終わり、父は南洋庁に復員したのだろうと思います。
復員した南洋庁には、父ともう一人の事務員以外は誰もいないので、現地の人を雇い民間日本人の引揚事務に追われたそうです。
食べ物の措置から引揚事務の処理まで、毎日が戦場だったと帰国後話していました。
それでもパラオから最後の引揚船で帰国してくれたので、余命少ない白爺の母に会うことが出来ました。
その1ヵ月後に母は亡くなりましたが・・・。
白爺はいろいろな人生経験をしてきました。
しかし、父も同じように多彩な人生経験をしたようですねー。
ご苦労さまでした。
白爺さんの御尊父はだいぶご苦労されたと察します。
白爺さんもそうですが、昔の人(失礼します)は
ほんとうに一生懸命に日本のために尽くしてこられた
のだと思います。
なんだか、この頃はヘンな日本になりつつありますが
私たち若者も含めて、真の日本の姿というものを一度
振り返ってみる必要があるようですね。