AERA2003年3月31日号 「現代の肖像」掲載
イラク攻撃開始、「3月危機」を前に、ボルテージ沸騰中。
小泉にブッシュに竹中に、我らに代わってパンチを見舞う。
「悪魔の予言」は悉く当たり、「学会のアルカイダ」を自称。
この人、体育会系?お笑い系?いいえ、実はロマンティスト。
50歳にして酒を断ち、追いつづける見果てぬ夢とは?
金子勝(かねこ・まさる)は人間も生き方も丸ごと「ネオフィリア」である。ネオフィリアとは、好奇心を失わず、現状に満足しない動物のことだ。群れることを嫌い、ためらわずに敵に吼える。
テレビ朝日「たけしのTVタックル」「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」などで、今や「怒る、吼える」がこの男のブランドになってしまった。経済の「3月危機説」とイラク情勢が緊迫化して、彼のもとに電波メディアからの出演依頼が続く。フジテレビ「報道2001」、TBS「サンデーモーニング」、NHKラジオ「ビジネス展望」……。
活字では左の「世界」から右の「諸君!」、おじさんの「週刊現代」、若者の「SPA!」までが彼のコメントと分析を求める。月刊「現代」4月号で、金子は竹中平蔵に挑戦状を叩きつけたばかりだ。曰く、
「竹中氏よ、『あしたの経済学』などという本を書く暇があるなら、まずは昨日までの経済の問題がどこにあったのか、自分の責任もふくめて総括すべきだ。」
番組制作者も編集者も、金子勝のボルテージの沸騰を期待する。小泉に、竹中に、ブッシュに、我らに代わってパンチを見舞ってくれる。闘うのは彼で、僕ら見る人。いつの間にか人々は「金子勝依存症」になっていないか?
3月7日、国連イラク査察団から追加報告が提出された日、私宛に金子から異例のメールが届いた。「イラク攻撃が悪い方向へ向かっています。本日の東京新聞夕刊に書いたものを読んでください」。新聞には圧倒的なアメリカ軍に歯向かう「ペンの哀切」があった。最後に「私は孤立している。しかし孤立を恐れない」という切迫した言葉で終わっていた。今やマスコミに引っ張りだこの金子が孤立?この複雑な二面性(アンビバレンツ)が彼を解くキーワードかもしれない。
慶応の金子研究室には深田恭子のカレンダーがかかっている。学生からの差し入れだ。グラムシやヴィトゲンシュタインなどの硬い書物と共存している。乱雑な室内に入ると彼はコンピューターを立ち上げて「株価」をチェックする。「あ、下がってる!」と大声で叫んで嬉しそうだ。株価下落を喜ぶ経済学者とは、どういう人だろう。「僕は株が上がることを予想できないんです。それが出来たら、とっくに大金持ちになっています」
テレビではよく怒るが、素顔の彼は「お笑い系」だ。ゼミ学生との旅行など笑いの連続で、その中心に必ず彼がいた。面倒見がよく、学生の就職先も博報堂、トヨタ、銀行などが決まっている。日銀を狙う一人を捕まえ、「お前、日銀に入って10年たったら、金子ゼミにいたのは人生の汚点でした、なんて言うんだろ!この野郎」とブチかます。
去年12月20日、琉球大学・公法研究会に金子は招かれ「反ブッシュイズム」の講義をしたが、これにゼミの学生たちも参加した。そもそも金子と沖縄の関係は1971年まで遡る。
大学に入学したばかりの金子が初めて行った「外国」が本土復帰前の沖縄だった。その時に身元引受人になった弁護士から、金子は去年、憲法記念日に呼ばれ講演した。それを聞いた琉球大学の憲法学の教授から彼は来講の要請を受けたのだ。国立大学の教室に慶応の学生も居並び、経済学者の金子が「法学特別講義」で語る。学界の流儀などお構いなしの、実に金子らしい教室風景だ。
「沖縄は僕の原点です。イラク戦争が始まる前に、もう一度、ここに来たかった」と金子は言う。その日の午後は、ゼミの学生とのツアーで普天間、嘉手納基地を回った。「こんな独立国って、ないよな!」エンエンとつづく米軍基地のフェンスを前に金子はつぶやく。北部の沖縄美ら海水族館にも行った。あいにく閉館時刻が過ぎていた。みんなで巨大水槽を上から眺めるしかなかった。「オレが泳ごうか」と金子が言う。「見たくなーい!」のブーイングが学生たちから返る。
『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店・大澤真幸との共著)は彼の沖縄でのフィールドワークの書である。戦争の記憶と「沖縄県が自由に使える一般財源は、わずか7%」の経済的現実。沖縄は、ハーバード大学に留学してMBAをもって帰る、並みの経済学者とは別な人格を金子の中に作った。
その夜、琉球大学学生と慶応大学・金子ゼミとの「交歓飲み会」が那覇の居酒屋で開かれた。泡盛の乾杯が続く。しかし金子は一滴も飲まない。学生たちに注いで回る役だ。そしてデカい声で一番盛り上がっていたのは金子だった。飲まずに酔える、それが金子の特技であり、サービス精神である。
本棚のない家 下町育ち
反エリートの文学&野球少年
東大で「たった一人の反乱」
帰途、年末の飛行機は混んでいた。少しゆっくり話したいと、私はスーパーシートに移ることを彼に提案した。ツアーの格安料金で来ている彼は、追加料金を自分で払った。「取材費から出しますよ」という私に対して、「いや、これ僕の旅行ですから」と受けつけない。これはきっと彼の生活感覚なのだ。一体、どんな家庭環境で育ったのだろう?
家計に学者は皆無である。東京・板橋に生まれ、父親は自動車整備部品の卸売業だった。家には本棚もなく、電話口で頭を下げている父親を何度も見ている。終わって舌を出している場合と、心底打ちのめされている、両方の父をしっかり観察していた。父は佐渡島から学問を志して上京したが、中国戦線に徴兵に取られた。学歴は夜間中学卒である。学者になってゆく息子を夢見つつ、60歳を超えて間もなく前立腺を患って死んだ。「院内感染で」と、金子は悔しげに言う。誕生日に数日足りず、生命保険は5千万円のはずが、おりたのは500万円。「実態経済」の理不尽を目の当たりにした。
中学の頃は文学少年で、同時に野球に熱中した。東京教育大学付属駒場高校では、頭でっかちなエリートたちの「逆を張って」ハンドボールに汗を流す毎日だった。文化祭では人形劇の台本を落語風に書いて皆を笑わせていた。その頃の学友は、「TVタックル」でハマコーと漫才風にやりあって笑いをとる金子を見て「お前、ほんとにあの頃と変わってないなー」と感心した。体育会系か、お笑い系か?いや、やっぱり「左翼系」だったという貴重な証言がある。
71年、金子は東大にストレートで入学、教養学部自治会委員長になり、学費値上げ反対闘争でストライキの先頭に立った。その運動は、どこか「たった一人の反乱」の孤独感があった。毎日一人でマイクをもってアジ演説をする金子が印象に残っていると述懐するのは、東大社会科学研究所教授・大沢真理である。
「駒場東大前の駅を降りて正門から第一本館に学生がゾロゾロ歩く、その3分間が金子さんの勝負なのです。大事なことを手短にしゃべる力を、あそこで彼は鍛えたのでしょう。自分で書いたガリ版刷りのビラも配っていました。ゴム草履を履き、ズボンの裾を折って、手拭いをいつもお尻にぶら下げていました」
もともと学者になりたかったわけではない。「就職なんか出来っこないと思っていたから」大学院に残り、東大社会科学研究所(社研)に進んだ。しかし学問の場が、業績の取り扱いや人事において、必ずしも知的でもフェアでもないことを思い知る。奨学金と塾教師のアルバイトでしのぐ毎日だった。
無名で貧しいところに、知性の始祖鳥は舞い降りる。今回の取材で私を驚かせたのは、27歳の彼が書いた論文だった。イギリスとインドの関係を、財政から分析した論文「『安価な政府』と植民地財政」(福島大学『商学論集』80年1月号)。本文2行の中に注が3つ出てくるようなガチガチの学術論文だ。
私はこの論文を混雑した地下鉄で立ったまま読み始め、降りる駅を忘れ、学問とはこういうものか、と涙ぐんだ。近代イギリスが「安価な政府」を実現したことは経済学の常識である。しかし、これに金子は真っ向から反論した。「それはイギリス側の文献だけに頼った事実誤認だ。安価な政府は、植民地への『安価な侵略』があったから実現できた」。彼は学会が無視したインド・ナショナリストたちの資料と文献を徹底的に洗った。そして、例えば次の事実を明らかにした。
「イギリス軍の全費用はインド財政が負担した」「インドでの反乱鎮圧費用はインド財政の負担だった」。そこには「イギリス人幕僚参謀の人数と経費」が表で示され、「インド手当」に加えて本国に帰国後の「年金・退職金」までインドから送金された事実が明らかにされている。イギリス植民地政策の「カラクリ」と、アジア略奪の事実に、改めて怒りがわいてくる論文だ。大沢が語る。
「目の覚めるような明快な論文でした。この2年後に土光臨調でサッチャーに学べ、の大合唱が起こり、中曽根内閣が出来ます。サッチャーは『ヴィクトリア時代に帰ろう』と言っていた。その遥か前に、金子さんは安価な政府の歴史的実態を暴いたのです」
学府の秩序を破壊する男
東大を駆逐され、冷や飯食い
職安に通い、妻の稼ぎに頼る
大内兵衛、遠藤湘吉、島恭彦といった財政学の巨大な権威者の書物が論破され、論文の最後では学界の重鎮、宇野弘蔵が名指しで批判されている。まるで、「マル経も近経も、主流も傍流も、みんなやっつけちゃうぞ」の挑戦状だった。このカネの流れで世界を読み解く方法は、実は、帝国日本のアジアに対する侵略政策、「中央と地方」の関係、そしてイラク戦争を始める覇権国家アメリカの実態さえ逆照射する視座と深さをもっている。経済学を批判する若き経済学者、それが金子のデビュー作だった。
道場破りをするが、彼の専門は何だろうと周囲は首をひねった。研究テーマはあちこちに飛び、アカデミズムで出世するのに必要な一冊の著書にまとまらない。学問上の受胎が定まらないまま、金子は東大医学部保健学科大学院出身の田村真理子と結婚した。披露宴の司会をしたのが新婦の高校の同級生でもある大沢真理である。
「仲人の林健久先生を前に、新郎が『林さんは下り坂の学者、僕は上り坂の学者です』とスピーチしたり、新婦の友人代表の米原万里さん(エッセイイスト)が新郎の悪口を言い始めたり、まあ、とんでもない結婚披露宴でした」
先に紹介した論文で彼は東大助手になれたが、またこれが「組織と学問の秩序を破壊する男」として東大をクビになる底流を作った。「マサルを欲しい」という一部の強い要望も、金子を嫉妬し否定する大勢には勝てず、彼は東大をお払い箱になり、長い「冷や飯」の時代がはじまった。経済的には新妻に頼り、職安に通い、失業保険でしのぐ日々。今、彼がどんなに多忙でも、秘書や事務所をもたないのは、この「干されていた時期」の痛切な体験故である。「いつあの状況に戻ってもいい」覚悟がある。
85年、金子はようやく茨木大学に職を得た。単身赴任の不自由と、都落ちの鬱屈のなか、彼は組織内衝突を繰り返す。「すぐ、ケンカしちゃうんです」。制度論を専門としながら「人間の事実」を追って、まるで檻にいられない「ネオフィリア」として、地を這うフィールドワークを続けた。80年代はイギリスに5回、90年代はインドに8回、スリランカに3回、中国に3回、韓国に6回。1回が約1カ月間、スラムから中央銀行、地方まで徹底的に歩き、語りあい、調べた。彼は今の言論活動を「デパートに出店して試食品を配っているようなもの」と言う。思えばこのフィールドワークが、その「だしの素」を作った。
旺盛な移動について、本人は「僕は明るい騎馬民族ですから」と笑う。現地のどこにでも寝られ、何でも食う。唯一下痢をしたのは日本大使館に招かれて食べた日本食だった。彼の官僚嫌いは、実に「腹の底から」である。
その後、法政大学を経て「坊ちゃんと御用学者がひしめく」慶応大学に職を得た。よくもまあ、という声に彼は言う。
「採用はモメたはずです。僕は常に賛否両論の男、学界のアルカイダです」
悪魔の予言者のように、連続して重要問題の本質を突いてきた。経済戦略会議批判、ITバブル批判、そしてアメリカV字型回復論と景気底入れ宣言の批判など。今では「恋愛する時間もない」というほど、圧倒的に増えた著作と電波への出演依頼。当然、逆風もある。竹中平蔵・金融担当大臣の緊急プロジェクトチームのメンバー、木村剛は次のように語る。
「リアリストの僕は理想主義者の金子さんを尊敬し、羨ましく思います。ただ、金子さんは目覚ましい言論人ですが、実践者ではない。格闘技評論家がリング上の血みどろのレスラーをアホと言えるけれど、じゃ実際に闘って勝てるのか?言っていることは極めて正論なんですが、批判するだけで世の中が変わるとは思えません。政治家や官僚を叩くのは簡単だけど、政策現場を動かすためには、それなりの苦労が要る。金子さんには得意分野で第一級の理論を構築してほしい。しかし、メジャーになったのですから、現実に闘う人間への思いやりも必要ではと思う時があります」
実は、「理論に帰れ」という声は若い金子ファンからも聞こえる。京都大学学生・鈴木洋仁は金子の『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書)に感動、1年休学してニセ学生として金子の授業に通い詰めた。今やメディアに消費されつつある金子を憂慮して語る。
「先生には天気予報のような3月危機説の発言などやめて、早く本格的な理論構築に取り組んでほしいですね。テレビでの、あの分かり易い言い方や説得力は人々を思考停止に誘い、むしろ癒しに似た安堵感を流布させていて、金子さん本来の仕事ではないと思います」
金子が勝負を賭ける「メジャーリーグ」とは、アダム・スミス、マルクス、ケインズなど経済学の歴史で体系を残した人物に伍することである。「そういう著作を残したいという夢があります。社会哲学、歴史哲学、経済学批判の3冊を書かずに死ねません」と金子は言う。
酒を1日も欠かせなかった彼は2年前に禁酒した。尿道結石、肝脂肪、血糖値どれをとっても危ない、と医者から言われた。禁酒して変わったのが文体だった。それまで「と考えられる」「と言えなくもない」という学者的表現が、「だ」「である」とシャープになった。
50歳にして酒を断って夢を追う。自分に負荷を掛け、「家庭内ホームレス」状態に自分を追い込む。東京・駒込に家を建てたが、妻と娘二人は新居に移動し、彼はそれまでの所に一人残った。あまりに乱雑を極めるそこは、時に学生が掃除にくる。家族がいる家には「もらい湯」に立ち寄る程度で、深夜まで執筆し、コンビニで買った食事で飢えをしのぐ。レトルト食品を当てるワザで「TVチャンピオン」になれる自信がある。
マスコミの検証力劣化に警鐘
「みんな、どうしたんだ!」
「ネオフィリア」は叫ぶ
金子の発想と分析は、今や海外からも注目されている。中国社会科学院から岩波書店『反グローバリズム』、NHK出版『日本再生論』の中国語訳が刊行された。フランス国際問題研究所や韓国からも翻訳の希望が来ている。「東アジア経済圏」の確立が急務な時、金子への期待が募るが、彼はクールに言い放つ。「石原慎太郎を宰相に!なんて言ってるうちは、そんなの絶対実現しませんよ。前の戦争の総括もしないで、アジアの人たちを説得できるわけがないでしょう」
この「状況認識」が彼をメディアに向かわせる。「おいみんな、どうしたんだ!と言いたい場面がしょっちゅうです。96年の住専問題ぐらいから新聞の検証能力がダメになり、マスコミはこぞって無責任・同調社会を増幅させています」
流れに身を寄せて同調するのでなく、「対抗軸」、「逆張り」をゆくスタイルで来た。ナショナリズムで群れたい奴は群れろ。たった一人でも生きてゆく価値があり、そのルールや規範をどう作るかに彼は心を砕く。「引っ張りだこ」と「孤立」の矛盾した二面性を引きずりながら。
「メディアや論壇で、無責任な輩はますます増長しています。メディアが権力に弱いものとはいえ、この国はあまりに目に余る状況ではないでしょうか。学問の世界では、もっとひどいアメリカ追随が行き交っています。とりわけ経済学は無残な状況です」
そうして迎えた「イラク開戦」である。こうなることを洞察して1月に『反ブッシュイズム」(岩波ブックレット)を既に刊行している。ブッシュ演説があった3月18日、彼は語った。
「歴史の転換点に、こんなに劇的に遭遇するとは思いませんでした。驚くべきは、イラク攻撃後の世界がどうなるのか、誰もそのプランも構想も持っていないということです。イラク開戦は世界の全く新しい『ご破算』です。過去の、習い性の考え方を突破して、自分をリニューアルしなければなりません」
新しい、稀有な対抗軸を作るために金子勝は一匹の「ネオフィリア」でありつづける。
(文中敬称略)