ガンが教えてくれた、からだ、こころ、暮らしの新しいスタイル
取材執筆 石井信平
室内は僧院の静寂がみなぎっていた。東京、杉並にあるピアニスト遠藤郁子さんが住むマンションは、隅々まで和風にリフォームされ、白木の棚に小さな地蔵がたたずむ。そこに季節のちいさな花が寄り添う以外、よけいな道具、装飾が見当たらない。
「いま、私は最高にしあわせで、贅沢な暮らしをしています。最小限のモノで暮らし、贅沢の一番は時間です。イヤな仕事はせず、イヤな人とは会いません。
『本来人間無一物』これをガンが教えてくれました」
四五歳で乳ガンの宣告を受けた。遠藤さんはその時の場面を再現する。
医師「悪い結果が出ました」
遠藤「ああ、そうですか」
こういう場合、ある人は病院中が聞こえる大声で泣き喚くのに、この人は愁嘆場を見せなかった。「なるべくしてガンになった」その思いはどこから来たのだろう。
「ショックは微塵もありませんでした。ガンはひょっとすると私の長い苦悩にピリオドを打ってくれるかも知れない。もう、いつ死んでもいい、という思いがあの頃常にありましたね」
ピアニストだった母の胎内でショパンを聴いていた。二十歳でワルシャワのショパン・コンク-ルに出場。批評家連盟特別銀賞を受ける。そのままヨーロッパに在留し、ピアノを通して、西洋のこころを求め続けた。国の内外に名声を高め、コンサートのスケジュールに追われた。しかし、華麗なスポットライトを浴びながら、心は呻いていた。
「ポーランド人の先生も驚くほど、私の演奏は楽譜に忠実でした。ショパンが書き残した遺書のような音楽を、適当な解釈で変えるわけにはいきません。でも、このままでいいのか、西洋人の『そっくりさん』をやっていて、どこに遠藤郁子のショパンがあるのか、四〇歳ごろ、その悩みがピークに達していました」
見失った自分のアイデンティティ。芸術家だけが知る孤独。コンサートをこなしながら、音楽がからだを素通りしてゆく。加えて、我慢とストレスを強いる私生活が、四六時中彼女を包囲した。三八歳も年長の夫の発病と発作にうろたえつつ、睡眠時間を削って看病と家事をこなす日々がエンエンと続いた。ピアニストとしての不屈の精進を持続する一方で、神の目を盗むように酒を飲み、忘却に酔いしれた。
「キッチン・ドリンカーでした。レギュラー缶のビールを一日二五本は飲んでいました。そんなことでは紛れようもないストレスの先に、ガンは当たり前のように待っていたのですね」
何という皮肉だろう! ガン宣告が「救済」だったとは。長い苦しみは転調を迎え、もうこの結婚は全うしたのだ。そう思うことがゆるされる。まるで「乗り換え切符」をもらうように、彼女は医師の宣告をきいた。
「このまま死んでもいい、という心境でした。でも、たった一つ心残りがありました。今まで、ピアニストとして自分のショパンを弾いたのか、これで終っていいのか、という問いが残りました」
人としての死は受け入れる。しかしピアニストとしては、どうしても死ねない! 終えたいことと、終えてはならないことの葛藤と選別。まず彼女は手術を拒否することを選んだ。手術はピアニストとしての死を意味した。
「バイオリンニストの巌本真理さんが乳がんの手術後、どれほど演奏家としての再起に苦しんだかを私は知っていました。神経と筋肉に刃物を入れることが、演奏家のからだにどんな結果を残すかが恐怖でした。それより、手術をしないで、命ある限り演奏し尽くして果てたい、という思いでしたね」
ところが家から近いというだけで行った病院で向井佐志彦先生とめぐりあった。彼はアメリカで「乳房温存療法」を学んできたばかりだった。ガン細胞のみを切除し、あとは放射線で治療する。大小胸筋を含めて乳房全部を摘出する手術にくらべ、筋肉へのダメージは少ない。彼女はこれに賭けることにした。一九九〇年、四五歳の夏だった。
ガン発病と時を同じくして離婚した。財産の一切を相手に与え、残ったのはピアノだけ。無一物の軽さは、思い出さえも遠い彼方にかき消して、ベッド一つの白い空間に横たわる。なんと心細く、しかし何と自由なひとときだっただろう。まるで、ふっと息を吸って、新しい人生の鍵盤に指を触れる瞬間のように。
「私は病院始まって以来、一番早く回復した患者だったそうです。入院中もそっと夜抜け出して、飲み屋さんでキュッと一杯やっていました」
軽いフットワークのガン患者である。それは「一度死んだ」人間のもつ軽さだ。財産や人間関係から解放され、鍵盤を走った両手が、冷たく泡立つグラスの重みを確かめる。
「取られた、失ったと思うから執着が出てくるのです。捨てた、と思えばいいのです。ゼロになると、人間は強くなります」
それはガンが教えてくれたレッスンだった。ガンは津波のように暮らしの一切合切を海の藻屑と消してくれた。波が引いたあと、ピアニストという裸かの自分が一人浜辺にとり残された。
「あぶら汗を流す、辛いリハビリが始まりました。事務所がどんどんコンサートのスケジュールを入れてきました。ラフマニノフやベートーベンのコンチェルトです。断れば、もう一生仕事が来ないかも知れず、飢え死にするしかありません。芸大でのレッスン料だけでは、マンションの管理費で消えてしまいそうでした」
もう、あとがない。ガンから生還した人に、ラフマニノフを弾くことは、松葉杖の人にフルマラソンを走らせるに等しい。しかも「筋肉バトル」ではなく、ホール一杯の聴衆を芸術表現の高みへ拉致し、陶酔させなければならない。
「必死でピアノに向かうのですが、前はこう弾けたのに、今は体が言うことをきかない。昔のやり方では出来ないことを思い知る毎日でした」
遠い潮騒のように少女の頃から追いかけた西方の音。人生の深淵を越えて、遠藤さんは失った音を追うのではなく、新しい音の誕生に賭けて、自分の暮らしを変えた。
「椅子の高さを一ミリずつ変えるところからやり直しました。前のように弾けないなら、体の使い方と動き方を変えるしかありません。『動法』というのに関心を注ぐうち、ああ、自分は衣食住でヨーロッパを追いかけることばかりしてきたなー、と気付いたのです」
西洋人は重心が高い。丹田の位置が日本人は低い。整体協会で習った呼吸法で自分の体を探検してゆくうち、遠藤さんは和風の暮らしこそ自分にふさわしいことに気付いた。体に無理のない和服の優しさに驚き、卓袱台ひとつで暮らす目線の低さが、暮らしの合理性を教えてくれた。それは心のあり方も変える革命的なことだった。
「長いこと私はエトランジェ(異邦人)でした。二十歳でポーランドに行き、五年間を過ごし、パリに七年間いて、日本に帰ってきてもエトランジェ。おまけに病気をしたから、遠い祖国ポーランドを思いながらパリで喀血したショパンの気持がわかるようになりました」
もう一人、その気持ちを重ねたい人がいる。一九五五年、戦後初めてショパン・コンクールに出場した田中希代子。これからという円熟期、膠原病の病魔が彼女を襲い、音楽界を去った。自分の意思で手を動かせないまま七年前に亡くなった。遠藤さんは子供のころからこのピアニストに憧れていた。
「媚びのない演奏、媚びのない生き方、その一言に尽きる方でした。ポーランドに行くと必ずその名前を聞くほど、強い印象を残された方でした」
その田中希代子は晩年こう言っていた。
「もし神様が、お前からは随分いろいろなものを奪ったけれども、お皿を洗う能力を返してあげよう、と言ったら私は跳び上がって喜ぶでしょう。お皿を洗う事だって、立派な自己表現ですもの・・・」
ピアノを弾けないピアニストの苦悩を遠藤さんは知っている。同時にピアノが弾けるのに、それが「自分のショパンではない」と苦しみぬいた日々もくぐってきた。その遠藤さんに私は最後の質問をした。
「ピアニストとして、これだけはやっておきたいことがありますか?」
「ショパンの全曲を演奏したいです。十数回の連続演奏会になるでしょう。再来年ぐらいに取りかかりたい・・・すごい赤字になるかな」と言って笑った。
自分の弾くピアノが、すべて「自分の音」であることの自信がこめられた言葉である。ガンを切って十四年が過ぎた。
「再発はない、と私は決めました。不安があると血が濁るので、それは考えない。去年までタバコも吸っていました。お酒は相変わらず楽しんでいます」
地上のいとなみすべてを包み込んで、純白の雪景色から始まるようなCD「遠藤郁子・ショパン春夏秋冬」。舞い上げる鶴の飛翔を予感させる25曲のプレリュードは、すべて「遠藤郁子のショパン」である。
取材執筆 石井信平
室内は僧院の静寂がみなぎっていた。東京、杉並にあるピアニスト遠藤郁子さんが住むマンションは、隅々まで和風にリフォームされ、白木の棚に小さな地蔵がたたずむ。そこに季節のちいさな花が寄り添う以外、よけいな道具、装飾が見当たらない。
「いま、私は最高にしあわせで、贅沢な暮らしをしています。最小限のモノで暮らし、贅沢の一番は時間です。イヤな仕事はせず、イヤな人とは会いません。
『本来人間無一物』これをガンが教えてくれました」
四五歳で乳ガンの宣告を受けた。遠藤さんはその時の場面を再現する。
医師「悪い結果が出ました」
遠藤「ああ、そうですか」
こういう場合、ある人は病院中が聞こえる大声で泣き喚くのに、この人は愁嘆場を見せなかった。「なるべくしてガンになった」その思いはどこから来たのだろう。
「ショックは微塵もありませんでした。ガンはひょっとすると私の長い苦悩にピリオドを打ってくれるかも知れない。もう、いつ死んでもいい、という思いがあの頃常にありましたね」
ピアニストだった母の胎内でショパンを聴いていた。二十歳でワルシャワのショパン・コンク-ルに出場。批評家連盟特別銀賞を受ける。そのままヨーロッパに在留し、ピアノを通して、西洋のこころを求め続けた。国の内外に名声を高め、コンサートのスケジュールに追われた。しかし、華麗なスポットライトを浴びながら、心は呻いていた。
「ポーランド人の先生も驚くほど、私の演奏は楽譜に忠実でした。ショパンが書き残した遺書のような音楽を、適当な解釈で変えるわけにはいきません。でも、このままでいいのか、西洋人の『そっくりさん』をやっていて、どこに遠藤郁子のショパンがあるのか、四〇歳ごろ、その悩みがピークに達していました」
見失った自分のアイデンティティ。芸術家だけが知る孤独。コンサートをこなしながら、音楽がからだを素通りしてゆく。加えて、我慢とストレスを強いる私生活が、四六時中彼女を包囲した。三八歳も年長の夫の発病と発作にうろたえつつ、睡眠時間を削って看病と家事をこなす日々がエンエンと続いた。ピアニストとしての不屈の精進を持続する一方で、神の目を盗むように酒を飲み、忘却に酔いしれた。
「キッチン・ドリンカーでした。レギュラー缶のビールを一日二五本は飲んでいました。そんなことでは紛れようもないストレスの先に、ガンは当たり前のように待っていたのですね」
何という皮肉だろう! ガン宣告が「救済」だったとは。長い苦しみは転調を迎え、もうこの結婚は全うしたのだ。そう思うことがゆるされる。まるで「乗り換え切符」をもらうように、彼女は医師の宣告をきいた。
「このまま死んでもいい、という心境でした。でも、たった一つ心残りがありました。今まで、ピアニストとして自分のショパンを弾いたのか、これで終っていいのか、という問いが残りました」
人としての死は受け入れる。しかしピアニストとしては、どうしても死ねない! 終えたいことと、終えてはならないことの葛藤と選別。まず彼女は手術を拒否することを選んだ。手術はピアニストとしての死を意味した。
「バイオリンニストの巌本真理さんが乳がんの手術後、どれほど演奏家としての再起に苦しんだかを私は知っていました。神経と筋肉に刃物を入れることが、演奏家のからだにどんな結果を残すかが恐怖でした。それより、手術をしないで、命ある限り演奏し尽くして果てたい、という思いでしたね」
ところが家から近いというだけで行った病院で向井佐志彦先生とめぐりあった。彼はアメリカで「乳房温存療法」を学んできたばかりだった。ガン細胞のみを切除し、あとは放射線で治療する。大小胸筋を含めて乳房全部を摘出する手術にくらべ、筋肉へのダメージは少ない。彼女はこれに賭けることにした。一九九〇年、四五歳の夏だった。
ガン発病と時を同じくして離婚した。財産の一切を相手に与え、残ったのはピアノだけ。無一物の軽さは、思い出さえも遠い彼方にかき消して、ベッド一つの白い空間に横たわる。なんと心細く、しかし何と自由なひとときだっただろう。まるで、ふっと息を吸って、新しい人生の鍵盤に指を触れる瞬間のように。
「私は病院始まって以来、一番早く回復した患者だったそうです。入院中もそっと夜抜け出して、飲み屋さんでキュッと一杯やっていました」
軽いフットワークのガン患者である。それは「一度死んだ」人間のもつ軽さだ。財産や人間関係から解放され、鍵盤を走った両手が、冷たく泡立つグラスの重みを確かめる。
「取られた、失ったと思うから執着が出てくるのです。捨てた、と思えばいいのです。ゼロになると、人間は強くなります」
それはガンが教えてくれたレッスンだった。ガンは津波のように暮らしの一切合切を海の藻屑と消してくれた。波が引いたあと、ピアニストという裸かの自分が一人浜辺にとり残された。
「あぶら汗を流す、辛いリハビリが始まりました。事務所がどんどんコンサートのスケジュールを入れてきました。ラフマニノフやベートーベンのコンチェルトです。断れば、もう一生仕事が来ないかも知れず、飢え死にするしかありません。芸大でのレッスン料だけでは、マンションの管理費で消えてしまいそうでした」
もう、あとがない。ガンから生還した人に、ラフマニノフを弾くことは、松葉杖の人にフルマラソンを走らせるに等しい。しかも「筋肉バトル」ではなく、ホール一杯の聴衆を芸術表現の高みへ拉致し、陶酔させなければならない。
「必死でピアノに向かうのですが、前はこう弾けたのに、今は体が言うことをきかない。昔のやり方では出来ないことを思い知る毎日でした」
遠い潮騒のように少女の頃から追いかけた西方の音。人生の深淵を越えて、遠藤さんは失った音を追うのではなく、新しい音の誕生に賭けて、自分の暮らしを変えた。
「椅子の高さを一ミリずつ変えるところからやり直しました。前のように弾けないなら、体の使い方と動き方を変えるしかありません。『動法』というのに関心を注ぐうち、ああ、自分は衣食住でヨーロッパを追いかけることばかりしてきたなー、と気付いたのです」
西洋人は重心が高い。丹田の位置が日本人は低い。整体協会で習った呼吸法で自分の体を探検してゆくうち、遠藤さんは和風の暮らしこそ自分にふさわしいことに気付いた。体に無理のない和服の優しさに驚き、卓袱台ひとつで暮らす目線の低さが、暮らしの合理性を教えてくれた。それは心のあり方も変える革命的なことだった。
「長いこと私はエトランジェ(異邦人)でした。二十歳でポーランドに行き、五年間を過ごし、パリに七年間いて、日本に帰ってきてもエトランジェ。おまけに病気をしたから、遠い祖国ポーランドを思いながらパリで喀血したショパンの気持がわかるようになりました」
もう一人、その気持ちを重ねたい人がいる。一九五五年、戦後初めてショパン・コンクールに出場した田中希代子。これからという円熟期、膠原病の病魔が彼女を襲い、音楽界を去った。自分の意思で手を動かせないまま七年前に亡くなった。遠藤さんは子供のころからこのピアニストに憧れていた。
「媚びのない演奏、媚びのない生き方、その一言に尽きる方でした。ポーランドに行くと必ずその名前を聞くほど、強い印象を残された方でした」
その田中希代子は晩年こう言っていた。
「もし神様が、お前からは随分いろいろなものを奪ったけれども、お皿を洗う能力を返してあげよう、と言ったら私は跳び上がって喜ぶでしょう。お皿を洗う事だって、立派な自己表現ですもの・・・」
ピアノを弾けないピアニストの苦悩を遠藤さんは知っている。同時にピアノが弾けるのに、それが「自分のショパンではない」と苦しみぬいた日々もくぐってきた。その遠藤さんに私は最後の質問をした。
「ピアニストとして、これだけはやっておきたいことがありますか?」
「ショパンの全曲を演奏したいです。十数回の連続演奏会になるでしょう。再来年ぐらいに取りかかりたい・・・すごい赤字になるかな」と言って笑った。
自分の弾くピアノが、すべて「自分の音」であることの自信がこめられた言葉である。ガンを切って十四年が過ぎた。
「再発はない、と私は決めました。不安があると血が濁るので、それは考えない。去年までタバコも吸っていました。お酒は相変わらず楽しんでいます」
地上のいとなみすべてを包み込んで、純白の雪景色から始まるようなCD「遠藤郁子・ショパン春夏秋冬」。舞い上げる鶴の飛翔を予感させる25曲のプレリュードは、すべて「遠藤郁子のショパン」である。