お彼岸でオハギを食べ、月を見上げる。ああ、日本人でよかったなーと思う。それは、ロシア人が母親の手作りのピロシキを、ボルシチ・スープとともに腹に流し込み「ああ、ロシア人でよかった」と満足感にひたることと、どう違うのだろう?
私は中国東北部の大連に生まれた。大連は、その地名をダルニ(遠い)というロシア語を語源にした、ロシア人が作った街だ。彼らの首都モスクワから、遥かに遠い極東の港町。ここで引き揚げ船に乗り、戦争が終わった翌年の昭和二十一年、私たち一家は日本に引き揚げて来た。「満洲国」の生まれだから、私にとって、日本は初めての「外国」だった。
終戦の年、満三歳の私には何の記憶もない。日本の歴史にとっても、満洲はメモリー・ファイルから削除したい項目のようだ。私にとっては、自分の生まれた国が「なかったこと」にされ、官民挙げて満洲を忘れる風潮には、常に違和感を感じてきた。
たとえば、つい二年前、香港の中国返還に際して行われたセレモニーの盛大さと、わがマスコミが演じた大々的な取材騒動は記憶に新しい。それに比べ、満洲国の終焉と権力の移譲には、何のセレモニーもなかった。かつて中国文学者・竹内好氏はこう言った「われわれは、まだ、満洲国の弔いを出していない」。
たくさんの日本人が「虚構の国家」をあとに、日本に逃げ帰った。その過程で無数の悲劇が起こった。中国「残留」孤児たちが、まず思い浮かぶ。私の長兄、石井公平は新京第一中学の生徒だったが、ソ満国境の「東寧報国農場」に勤労動員で送られたまま、昭和二十年八月九日、ソ連軍の侵攻に遭い、消息不明だ。
長男の安否をついに確認できないまま、日本に帰った母の深い嘆きは、幼児の私の知る由もないが、「お兄ちゃんの消息が分かるまでは、帰ってくるんじゃなかった」と、たった一度だけ母が言ったのは忘れられない。日本人は文字通り、肉親の弔いもせずに帰ってきてしまったのだ。
私がその兄を慰霊する旅をしてきたのは1991年だった。生き残った彼のクラスメートとともに東寧の地まで行ってきた。現地の中国人の前で、とても大っぴらな慰霊祭など出来る雰囲気ではなかった。それをすれば、彼らは私たちに詰め寄っただろう「日本人よ、私たちの父や母、子供達を返して欲しい―」。
満洲国が存在した間、現地の中国人がどんな体験を強いられたかは、例えば石井部隊による細菌実験のモルモットに、多数の人々が殺された事実がある。満洲へ、満洲へ―そもそも拓務省が音頭をとり、日本のマスコミ挙げて日本から人を送り込んだ「開拓」とは、実は現地の人々の土地を奪って行われたことを銘記すべきだろう。敗戦時点での悲劇は、それらの「決済」だった。私の兄を含め、その地でたくさんの日本人が悲惨な死を遂げたが、それを記念する墓の類は、現地で一切見かけなかった。
日本人は過去を弔うことなく、墓を作ることなく、命からがら逃げ帰った。残留孤児達は、自分の意志で「残留」を選択したのではない。戦後日本は彼らを「放置」して逃げてきた。自分が作った過去から、満洲から。
満洲とはどんな国だったのだろう?その理想と現実の両方を知りたい。それを知る世代は、もはや高齢で亡くなりつつある。過去を直視し、記憶し、学ぶことは「自虐的」なことだろうか?ことは「謝る」より遥か以前の問題だ。謝るには、事柄をまず「認識」する必要があるが、日本人は実はこの認識をさえ忌避しているのではないだろうか?何しろ「逃げ帰って」来たのだ。一国の終焉を宣言もしていない。中学、高校では教えないし、満洲国研究を講座に持つ大学はどこにあるのだろう?
日本人が記憶を放棄している間に、異国のオランダ人が日本とドイツの戦争体験を克明に調べて本に書いた。イアン・ブルマ著『戦争の記憶・日本人とドイツ人』である。初め私はこれを英語の原書で一読、驚嘆した。ヒロシマ、アウシュビッツ、南京、そして遠く鹿児島の特攻基地にまで脚をのばし、現場を歩き、当事者に会って書いた、戦後世代による戦争体験の集大成である。私はこの本を翻訳しTBSブリタニカから出版した。それに続く彼の最新の著書はさらに深く、真珠湾攻撃、ヒロシマ、ナガサキの歴史と政治の背景を調べて書いた本だ。これも私は翻訳して『イアン・ブルマの日本探訪』の題で同社から刊行した。
自分たちの戦争についての真の考察を、外国人の書に頼ることは情けない話である。二つの本であぶり出されたことの一つは、日本に「政治がない」という実態だ。政治の責任体系があいまいなまま、事実だけがどんどん進行していく危うさは、現在の「金融危機」にもそっくり引き継がれている。
金融破綻の政治責任をあいまいにしたまま政府は君が代、日の丸を「法制化」することを考えている。私たちの愛国心は、法律によらなければ維持できない程度のものなのか。よろしい、法律でこれを定め、旧満洲の地で遅ればせの弔いのセレモニーをしようではないか。その時、現地で声高く歌えるのか、君が代を。空高く揚げられるのか、日の丸を。
昭和二十年八月九日、精鋭をうたわれた関東軍は、三十万人におよぶ国境の同胞たちに事態の危険を知らせることなく、道や橋を破壊して逃げた。首都・新京駅を出発した避難列車第一号を占拠したのは関東軍幹部とその家族達だった。
日本軍は戦わずして逃げたのはよかったのだ、という議論もある。もし戦っていれば沖縄と同じ戦場の惨事が起こっただろう。いずれにしても、関東軍は戦わずして逃げた。つまりそのような軍隊と戦費に、国民の膨大な税金がつぎ込まれ、カネはまるで燃料のように燃やされて八月十五日、煙となって消えたのだ。その納税者としての国民の愚かさを、私たちは自己点検しただろうか?
日米新ガイドラインとか、国の安全保障の議論の前に、自国の軍隊が決して同胞を守らなかった事態が、一体どうして起こったのか、私たちは正確に把握しておく必要がある。肉親達は、自分たちの官僚や軍隊に見放されて死んだ。彼らは帰ってこないが、「教訓」としてそこにある。
死者を偲ぶお彼岸には、オハギを食べたい。オハギの形をした赤茶色の石が、私の部屋の棚に置いてある。東寧の河原で拾った小石だ。満洲の体験が希薄な私は、石を見て触って、その国を思い起こそうとする。オハギは大好きだが、私は日本人ではない。ピリオドが押されないまま歴史に放置された「満洲国人」である。
(付記)敗戦直前の1945年夏、なぜかソ連国境へ送り込まれた新京一中生徒130名の記録が本になって昨年出版された。生き残った田原和夫氏著『ソ満国境・15歳の夏』(築地書館)
(浄土宗 知恩院発行「知恵」1999年5月号掲載)