石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

Lawrence L.Langer(ed.)-"Art from the Ashes: A Holocaust Anthology" 本文日本語

2014-02-03 21:03:57 | 本・書評


 「日本人が泣いてるのを見ると頭にくるわ」知人の在日朝鮮人女性が言った。映画「シンドラーのリスト」を見終って、場内が明るくなった時、客席ではハンカチで涙をぬぐう人びとがかなりいた。

 ナチスによる「ホロコースト」について日本人は責任を問われることはない。ユダヤ人の悲しい運命に同情の涙を流してカタルシスにひたることは許されるはずだ。にもかかわらず、なぜ彼女は「頭にきた」のだろう。

 たぶん彼女は、日本人の想像力の欠如を言いたかったのだろう。ホロコーストは遠いヨーロッパの出来事だった。しかし同じ時期にアジア全域で日本人が行った暴力・拉致・殺戮に想像はいかないのか?ドイツ人がユダヤ人にしたことに涙を流す人は、日本人が朝鮮人に何をしてきたかを知らないのか?その「記憶」を日本人はどのような「ことば」にしてきたのか?

 私の目の前に一冊の本が置かれている。七○○頁、厚さ五センチの本書の重量感は圧倒的である。ホロコーストについて書かれたドキュメント、日記、エッセイ、小説、戯曲、詩が集められ、巻末には十六ページにわたってイラストや絵も紹介されている。

 驚くべきは本の重量感ではない。ホロコーストという一つのテーマについて、ユーラシア大陸各国語に加えてヘブライ語でも書かれた膨大な文献資料を渉猟、読解、選別、編集し切った人間の情熱である。

 ヤンキェル・フィルニクという、聞いたことのない名前もある。「トレブリンカの一年」という記録を残している。ポーランド生まれの大工と紹介されている。七十五万人から百万人が殺されたというこの収容所で彼が生きのびることができたのは、ひとえに大工という技術のゆえである。彼は脱走に成功し、1944年5月、自分が体験し目撃した記録をワルシャワで秘密出版する。それがロンドンに運ばれ、連合国側が強制収容所と大量殺戮の実態を知ることになる。

 毎日何人がガス室で殺されたか、ガス室はどのような構造か、拷問と労働の実態はどうであったかの克明な記録である。「ナチ『ガス室』はなかった」という『マルコポーロ』誌の筆者及び編集者は、まずこの記録に反証を試みるべきだったろう。

 神戸大震災の現場中継でキャスター達はしばしば不用意にくりかえした。「このような惨事を前に私はことばを失います」

 語れ、ことばを捜せ、表現を試みよ、どうか、ことばをなくすなどと簡単に言うな!

 本書の冒頭で、編者のローレンス・ランガーは「ホロコースト文学を書くことと読むこと」という題で小論を掲げている。「ことばには限界がある。圧倒的な現実を前に、ことばを紙に記す行為の無力感に襲われることがある」と認めつつ、しかし、彼が本書でやろうとしたこと、やりとげたことはそれへの挑戦だった。語り尽くせぬことを語ること、それ以外に体験の意味を探り、記憶にいのちを吹き込む方法はない、と言わんばかりに。

 私はイアン・ブルマ著『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(TBSブリタニカ刊)という本を翻訳した。翻訳家でもなく、ヨーロッパ現代史の専門家でもなく、映像と出版の企画をする個人事務所を経営する私が、敢えて八百枚の翻訳を試みたのは何故だったのだろう。

 私事を語れば、敗戦時三歳だった私に戦争の記憶があろうはずもないが、ソ満国境に勤労動員で送られ、ソ連軍侵攻に遭遇、死亡した当時十四歳の実兄の理不尽な運命に対し、心の中に埋めようのない空洞があった。翻訳はそれを埋めるせめてもの作業であった。ことばが欲しかった。信ずべきことばに出会いたかった。

 厚さ五センチのこのアンソロジーには、ドイツの教科書にものっている詩編「死のフーガ」を書いたパウル・ツェランの十五篇の詩も収録されている。ドイツ語を彼に教えた母は、ドイツ語で死の宣告を受け強制収容所で死んだ。1970年、49歳、パリでの自殺は、彼がドイツ語に絶望し、ドイツ語から逃れる唯一の方法だった。にもかかわらず、本書が我々に語りかける通奏低音は、よるべなき状況にあって、よるべとなることばをさがせ、そして語れという激励である。




 

パリ撮影記 ―ワイセンベルク氏とショパン―

2014-02-01 16:56:14 | テレビ番組制作

 ワイセンベルク氏のパリのアパートを訪ねるのは、これでもう何度目になるだろう。セーヌ河に面したケ・ドルセー地区。パリの外交官街として名高い高級住宅地。

 いつもはひとりで訪ね、気ままにおしゃべりをして夕食時に氏の大好きな日本レストランなどにくり出すのだけれど、今回は少し勝手がちがう。13人のテレビ撮影班が1トン近い機材を運び込むのを引率しての訪問だった。1986年6月5日のことだった。

 日が暮れるころ、ワイセンベルク氏の友人たちが集まってきた。正装の紳士、淑女たち。舞台監督、詩人、女優、ニューヨークから飛んできた若い女性実業家。

―シャンペンが抜かれ、白いフォーマルウェアのピアニストを中心に楽しい談笑の輪ができた。30畳敷はあると思われる広い居間は、歩くと靴音が天井にこだまするようなゆったりとしたスペースだった。壁の一面に古書が並び、部屋のあちこちに古今の美術品が置かれ、さながら美術館の一室にまぎれ込んだ思いである。スタンウェイのピアノが小さく感じられる。友人たちがソファに坐り、ピアニストはゆっくりとピアノのふたを開いた。ショパン作曲「プレリュード、第4番」のふるえるような美しい旋律が、彼の両手の指からこぼれ、部屋いっぱいに、それが満ちた。

 「私のパリ・私のショパン」

 私がアレクシス・ワイセンベルク氏を主人公に、「私のパリ・私のショパン」というテレビ番組を考え、企画書にまとめたのはもう1年ほど前になる。

 その冒頭に私はこう書いた。

 「この番組は、ひとりのエトランジェ(異邦人)が紹介するパリ案内です。案内役は、ピアノの巨匠、アレクシス・ワイセンベルク。使用される音楽はフレデリック・ショパンの曲です。ヨーロッパは元気がない。パリは、もう魅力がない。―本当にそうでしょうか。この都市が人間の感性に与えた絶大な影響力、今なお秘めている魅力、それを新しい切り口と方法で問い直してみせます。ショパンは1830年、20歳のときにポーランドを発ち、ウィーンを経てパリに住み、ついに2度と故郷の土を踏むことはありませんでした。たくさんの恋がパリで生まれ、たくさんのピアノ曲がパリで作曲されました。
 ワイセンベルクは、そのようなショパンゆかりのパリに私たちを案内し、その現場で最もふさわしいショパンの曲を演奏します。」


 ヨーロッパでのワイセンベルクの音楽活動はすべてミシェル・グロッツ氏がマネージメントをとりしきっている。グロッツ氏との度重なるテレックスのやりとりがあり、最終の交渉に5月初めに私がパリに飛び、ようやく話はまとまった。
 
 ところが肝心のテレビ番組の方はなかなか企画が通らず、ついに見切り発車の事態となった。経費の一切を私たち制作会社の自己負担でまかない撮影を行うことを私たちは決断しなければならなかった。

 高画質のEC・35カメラ2台をふくむビデオ機材一式。どんなに小さな、ささやくようなピアニシモも最高の音質で収録するデジタル録音の機材一式。撮影監督は映像派の巨匠・実相寺昭雄氏に依頼し、14人の撮影班がパリに着いたのは5月29日のことだった。

 3年先の演奏スケジュールまでビッシリと詰まっている巨匠が、なんとか私たちのために時間を空けてくれたのだ。いま撮らなければ、チャンスは永遠にめぐってこないのではないか。お金のこと以上に、その一点が私を動かした。そして何よりも、誰よりも、一刻も早く、私は彼のショパンを聴きたかったのだ。

 
 撮影日記より

 パリでの撮影、第1日目。私たちは早朝のバンドーム広場に向かった。ショパンが短い生涯を終え、最後の息を引きとったアパートを撮った。低い雲がおおい、今にも雨が降りそうだった。たとえばショパンの故郷、ワルシャワの空はいつもこうなのだろうか。

 6月のパリは天候が不順だった。カメラマンは光の足りないことをなげきつづけた。しかし、だからこそショパンのあの音楽が光だった。たおやかな優しさの裏に秘められた強じんさ、そのようなショパンの音楽に人は人生の途上で何度も救われた体験をもっているはずだ。

 パリで記した撮影日記の抜すいを書き出してみよう。

 5月30日
 コンセルバトワールの楽器博物館。ショパンの使用したピアノの前でワイセンベルクの語り。数々の名曲を生んだ鍵盤の上にワイセンベルクの手が置かれた感動的な一瞬。時間を超えたふたりの出会い。午後、オルレアンのショパンが住んだアパートへ。

 5月31日
 国立図書館、音楽部の部屋でショパンのデスマスク、肖像画など撮影。午後、ショパンが通ったサロンの跡、ミュゼ・シェファーでのワイセンベルク。19世紀のサロン芸術について語ってもらう。
 「私には、人びとがお酒を飲んでいる場所でピアノを演奏することは苦痛だ。私は、現代のホールで、広いステージの上で演奏する緊張感の方が好きだ。しかし、刺激を互いに与えあっただろうことは、私にはうらやましい。」
 夕方、ショパンの葬儀が行われたマドレーヌ寺院撮影。

 6月2日
 ジョルジュ・サンドとショパンが共に暮らしたノーアンの別荘へ。パリから300キロ。雲間からこぼれる陽光がパリの南の田園地帯を照らす。

 6月3日
 ワイセンベルクのパリ案内撮影。レストラン「リップ」。彼がいつも坐る椅子に腰かけてもらい、パリの魅力を語ってもらう。つづいてシテ島、芸術家の橋、アンバリッドを彼が散策しているところ撮影。

 6月4日
 いよいよ、ワイセンベルクによるショパンの演奏。サル・ガボー・コンサートホール。お客のいない客席中央にカメラ。もう1台はステージ上、レールを組んだ上に置いて移動ショット用。
 タキシードに正装したワイセンベルク。緊張しきったスタッフに気軽にジョークで語りかけて雰囲気をやわらげてくれる。
 演奏曲目。「ソナタ第3番」「夜想曲、嬰ハ短調(遺作)」「夜想曲第2番、変ホ長調」「葬送行進曲」「幻想即興曲」。
 ソナタの演奏、ワイセンベルク気に入らず再度やり直し。ところがスタッフのミスで途中テープ切れとなり、更にやり直す。身の細る思い。ホールの貸時間の修了が迫り、次のコンサートに来た客がホール外に並び始める。音楽に酔いたくても酔えない辛いひととき。

 6月5日
 ワイセンベルク自宅での撮影。録音機材、映像モニターなどキッチンに並べる。3時より、ふだんの練習風景を撮る。カラヤン、ホロビッツなどのサイン入りポートレートが飾られた練習室。バッハの練習曲などをひく。なぜバッハを練習用にひくか、毎日どういう練習を日課としているか、などインタビュー。白いシャツのくつろいだ服装。猫もかたわらで静かに聞いている。
 夕方から友人たち集まり、今でサロンの再現。演奏曲目、「エチュード・別れの曲」、「プレリュード、第4番」。
 午後9時、撮影終了。全員で記念撮影。ワイセンベルク、スタッフに感謝のあいさつ。「収録した映像をモニターで見せてもらい、その美しさに驚きました。プロフェッショナルとしての皆さんに改めて感謝と敬意を表します。」

 6月6日
 ショパン時代のサロンそのままの雰囲気を残す19世紀の館で演奏。典雅なシャンデリア、ナポレオン時代の壁と家具調度。
 曲目、「華麗なる大円舞曲」「スケルツォ第2番」「夜想曲第5番」再び「幻想即興曲」
 午後6時半、すべての撮影を終了。
 ワイセンベルク、スタッフひとりひとりにお菓子を配ってその労をねぎらう。

 無邪気に、そして透明に

 知性と情熱のふしぎな調和をたたえた彼の演奏が、私は好きだ。この人は、凡庸な演奏家が思い入れをこめて歌うところで、むしろ悲しみに似た抑制をもって音楽を確かめる。人が機械的に弾き流すところで、楽しそうに歌をうたう。その最も美しい典型が、彼の「夜想曲、嬰ハ単調」だ。この1曲を聴きたいために私はこの企画を思い立ったのではないかとさえ思う。

 少し間違えば悲劇的になってしまうこの旋律を、こんな無邪気な透明感をもって響かせることができる演奏家が他にいるだろうか。これにはショパンも脱帽するに違いない。
 
 これを企画したプロデューサーとして、私はとにかく現場に立ち会う幸福を味わった。一つ一つの音が生まれてはかき消えてゆく、はかない、しかし確かな現場。この幸福をひとりでも多くの人に分かちあいたいために、いま、なんとかこれをテレビ番組及びビデオディスクにしようと私は奮闘中である。

(1986年10月7日)