石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

こんな民間会社って、あり?

2010-08-27 12:29:42 | 月刊宝島「メディアに喝!」
 新聞社やテレビ局を「民間会社」と思ってはいけない。マスコミが政府批判をし切れないのは当たり前で、「政府の一部」と思えば納得できる場面があまりに多い。それを自覚しない新聞社の組合は、世間からズレ、役人も驚く高めの夏のボーナス要求をしていた。

 平均30歳で120万円! 彼らが毎日報道している「世間」では、ヤミ金融に追われて自殺者が相次ぎ、奴隷のような「派遣社員」が雇用の常態を地すべり的に崩落させている。この経済不安こそが、今の閉塞感と犯罪の引き金となり、社会の「液状化」の呼び水になっている。

 そういう世間を百も承知で、ジャーナリズムの使命感に燃えて「これぐらいもらって当たり前」というなら、むしろ立派な神経というべきかも知れない。私たちは、マスコミを唯一の情報源として世界につながり、森羅万象が、地球環境が、金融システムが「破綻」の様相を呈していることを知らされている。

 実は、それらの報道から確実に隠蔽されて、私たちから見えないものがある。「言葉の破綻」である。マスコミの言葉に対する無自覚、無神経である。そして泥まみれになっても「言葉」のボールに抱きついて離さない、ラグビーマンの執着がない。「問うこと」をサボる姿勢が紙面には現れない。しかし、それこそが厄災の根源ではないだろうか。

 「産経新聞」の8月2日コラム「正論」で評論家の加藤秀俊氏が「戦時を有事と言い換えるいかがわしさ」という文章を書いている。有事法制は英語ではWar Bill と報道されている。「つまり世界中の人々は、日本政府は「戦時法案」を可決したと理解している。・・・肝心の日本人が「有事」ということばでごまかしているのである。おそらく正直に「戦時法案」という名前で法律がつくられたら、われら日本人は平和愛好者だから絶対に法案は成立していなかっただろう」。

 この加藤氏の発言は、こんな基本的なことを「問う」ことさえしなかったマスコミへの直言と理解すべきだろう。イラクの大量破壊兵器の有無について小泉首相の発言「フセインが出てこないからといって、フセインがいなかったことにはならないだろう」は、マスコミが徹底的に追及すべき「恥ずかしい理屈」である。これをキチンと首相に問いつづければ、イラクに自衛隊を派遣する法案は通らなかったはずだ。マスコミの言葉についての怠慢が、こんな事態を引き起こしている。それを自覚した上のボーナス要求なのか、30歳120万円?

 世間の荒波をよそに、安定した航海を続けるマスコミこそ最後の「護送船団」だ。その入社選別には言葉に対する研ぎ澄ました感覚は要求されない。「記者会見で相手に不快な質問をしないこと」が必須である。そうして頂戴できる高額ボーナス。これぞ、政府からのご褒美なのだ。この民間会社の特殊なゆえんである。


2003年10月「月刊宝島」掲載

くだらない番組しか放送できないなら「死刑」生中継

2010-08-22 11:44:20 | 社会
永田町より「殺人事件」「殺し」好きな国民性


 日本のテレビは「殺人フェチ」である。異常なほど「殺人事件」を報道するのが好きだ。

 霞ヶ関や永田町で、お役人や政治家が国民全体を不幸にする隠し事や立法をしているのに、それを報じる熱意や時間はあまりにもお粗末だ。ところが、田舎で起こった殺人事件にレポーターが現場に張りつき、全国ネットで朝から晩まで放送している。何だか変である。

 番組制作者に思いこみがある。「殺人はニュースとして『一級品』だ。誰もが殺人に興味があり、視聴率を取れる」と。日本人は常に「新鮮な」殺人事件に飢えているのか?

 だったら、グッド企画があるぜ、ベイビー。

 国家による「死刑」の一部始終をナマ中継することさ。新鮮な「殺し」のディテールがリアルタイムで見られる。エッ、死刑ってこんなに酷いの!という見せしめになり、死刑・擁護論者が大好きな「犯罪の抑止効果」にピッタリだ。子供たちには「人が死ぬことの真実と尊厳」の学習になる。しかも法務省と裁判所がオーソライズした、トータルに「合法的」イベントだぜ。


テレビ局員は行動もメンタリティも“お役人”


 オラがこれを言う動機は、「末期的なテレビ状況」に喝!を入れたいからだ。

 挑戦するより、現状維持。面白さより、クレームゼロ。監督官庁、スポンサー、人気タレント事務所などから、文句を言われないこと。これじゃ、「今起こっている遠くの出来事を見せる」という「テレビジョン」本来の価値は今や死んだも同然。何しろ新聞紙面を写して「これがニュース」と平気な神経だ。

 生中継にこそテレビ本来の価値がある。テレビは、ジャズのアドリブのように、予定調和なき「時間だ」と見事に喝破したのは、先日亡くなった村木良彦さんだった。

 萩元晴彦・今野勉さんとの共著『お前はただの現在にすぎない』(田畑書店、1969年)という本はテレビの価値と可能性を追求した名著で、その後、これを乗り越えるテレビ論は誰も書いていない。

彼が仲間とTBSを去り、テレビマンユニオンという独立の番組制作会社を作る時、会社に要求したのは「中継車」だった。TBSはこれに応じず、代わりに向こう5年間の番組制作の「発注保証」をした。「外注・下請け」の構造が問題だが、テレビマンユニオンが、もし、あの時退職金代わりに「中継車」を手に入れていたら、日本のテレビ状況は別なものになっていたかも知れない。

その後、テレビは「東大安田講堂事件」(1969年)、「浅間山荘事件」(1972年)など、数日間も既定の番組枠をぶち抜く緊迫したナマ中継番組を放送した。いま、中継で残っている番組と言えば、マラソンかサッカー? そして「テレビよ、お前はただの現在に過ぎない」という魅力的な呼びかけに応える番組は皆無と言っていい。国民共通の財産たる電波のムダ使いは末期的惨状である。


人々が求めている感動のドキュメント


 今、人々が真に求めている番組は何だろう? それは、ホンモノのドキュメンタリーである。なぜなら、テレビとは元々が「現在という時間」「プロセス全部が大切」なドキュメンタリー・メディアだから。そこで「中継車を刑務所に横付けしてしまえ!」というのがオラの提案だ。

 生カメラが所内に入る。

 その日の夕方、刑務所長から呼び出された死刑囚はこう言われる。

「明朝、君を処刑することにした。ハトヤマ法務大臣が、君を殺すことにとても熱心でね。ま、今夜は、新鮮なスシでも、アツアツのピザでも、君の好きなものをとってあげよう」

この場面からして、最高のドキュメンタリーだ。所長室はちょっとした「お別れ会」となった。 既に心を落ち着かせた死刑囚は、寿司の味をかみしめる。しみじみとした「最後の晩餐」。ズルズルと茶をすする音にさえ、見る者に「生きること」の価値を訴え、胸迫る。

 中継車のディレクターが、本社の上司に電話する。「囚人の顔にモザイクかけますか?」。 インカムを通して本社から怒鳴り声が返ってくる。「バカヤロー! 死刑囚に人権はないんだ。素顔を見せろ」

 その通り! 死刑と判決された瞬間から、囚人に人権なし。面会、文通を徹底的に制限し、毎日毎日死の恐怖にさらして、結局殺してしまう。今さら何がプライバシー、人権か。

 次に、独房に戻った囚人に密着して「朝まで生インタビュー」だ。死刑囚は死の前夜に何を思い、何をするのか。人生の深淵が囚人の口から語られるはずだ。

 以上は、「ドキュメント・処刑」の前編。これが絵空事なのは「明日、誰を処刑する」かは刑務所内部でも極秘であり、刑務官、囚人本人、その家族にも伝えない。かつてあった所長との「最後の晩餐」は今はない。 前夜に知らせて、その夜のうちに自殺した囚人がいたからだ。法務当局は、朝に知らせ、即刻、絞首刑執行。最後の懺悔、自分の独房を整理する暇も与えないスピード処刑が現実だ。


秘密裏の殺人より処刑中継を


 本来、処刑とは公開が原則だった。江戸の小塚原、パリのコンコルド広場など、大群衆の前でとり行われた。何も隠さず、権威ある行事だった。「だった」と言うのは、今の日本国家には人を殺す資格も権威もないのではないか、とオラは疑うからだ。だから、死刑のこととなると、やたらに秘密主義を貫く。

 でも、「スピード処刑」だってテレビで見ようよ。アメリカでは注目を集める死刑囚にはメディアが直接取材し、報道する。

 1995年に起こったオクラホマシティー連邦ビル爆破テロ事件の犯人、ティモシー・マクベイ死刑囚は薬物注射で処刑された。被害者や遺族の多数が見物を要求し、死刑中継が有線によるクローズド放送で流れた。

 「順法精神の徹底」を立て前に、処刑を日本全国に生中継すればメディア史上画期的なことだ。ディレクターは現場から本社の上司に電話する。

「今、ロープを囚人の首に掛けました。刑務官の顔にはモザイクを掛けますか?」

「バカヤロー! 公務員が真面目に公務に励んでるんだ、素顔を写せ!」

「囚人が、出演ギャラを要求していますが・・・」

「わかった。1000万円を、被害者遺族に渡すから安心して死ね、そう言っとけ」

国家による秘密裏の殺人こそ残酷極まりない。するなら見せろ、死刑執行!




月刊宝島2008年4月号掲載(一部オリジナルのまま)




うなぎの食べ方

2010-08-15 08:35:44 | 妻より
かつて、夫について私が書いた文章があったので、今回は趣向を変えてそちらを掲載します。信平さんの文章を楽しみにされていた方、次週までお待ちください。


私が仕えているご主人様について少し。

ご主人はとても食いしん坊である。目の前にあるものは全て召し上がらずにはいられない。

そして、『おかわりのS平』と別名(私たちの間だけではあるが)がある通り、外食に行ってもコーヒーはおかわり、ご飯もおかわり、何でもおかわりである。「おかわり」とはご主人様にとって非常に重要なキーワードである。レストランに入っては必ず、「コーヒーのおかわりはできますか?」と確認に余念がない。おかわりのできないところはご主人様のリストから自然消滅する運命にある。

ご主人様に言わせると「私は引揚者です。」とのことであるが、私から見ると他に類を見ない食いしん坊である。

うなぎ屋に行ったときのことをご主人様は以前話してくれた。しかも自慢気に・・。「一流のうなぎ屋で煙で一膳、香りとタレで二膳、身で三膳(・・・ホントか?)」食べたそうである。さすがは一流料亭、「NO」と言わなかった姿勢に私は敬意を表したい。


2005/8/23 石井敦子

「戦争の記憶」 訳者あとがきより

2010-08-06 22:35:37 | 戦争
(一部抜粋)

 先の戦争をどう受け止めるか、ドイツ人の悪戦苦闘ぶりがうかがえる。ひるがえって日本では「一億総懺悔」に始まり、「侵略か進出か」の不毛な議論の他に、どのようなことばがしのぎをけずってきただろうか。

 400字詰原稿用紙で800枚を超える訳業は私の能力を超えていた。この仕事を途中で投げなかったのは、移り気な私にはめずらしい。ひとえに、あの戦争への理不尽な思いが消えないからである。

 敗戦時2歳半だった私には、戦争の体験も記憶もないに等しい。しかし当時の日本人がすべて何らかの形で被害を受けたように、私の家族がこうむった体験は大きく、とりわけ母の無念の思いを、いわば放射能のように浴びて私は成長した。

 私の長兄、石井公平は昭和21年、新京一中に在籍。5月末、ソ連国境の東寧報国農場に勤労動員で送られ、8月9日未明、ソ連参戦に遭遇した。級友とともに徒歩で避難の途中、牡丹江近くで死亡した。14歳だった(この、戦史にも教育史にも残らぬこの出来事は、級友のひとり谷口佶氏が『子羊たちの戦場』読売新聞社、1988年刊に書き記した)。

 私の父、石井真澄は満州中央銀行に勤務、昭和20年6月、招集を受け、敗戦とともにシベリアに送られた。私はこのふたつの出来事について「暴虐ソ連」と言い捨てることができない。

 まず、5月7日のドイツ降伏後、ソ連の大量の武器兵員が極東に移動され、「ソ連参戦必至」の情報を関東軍はつかんでいた(瀬島龍三証言『味の手帖』1991年7月号)。にもかかわらず、その国境に中学生を送り込み、期限を超えても呼びもどさなかった軍と教育当局の「判断」がある。

 また、すでに40歳を超えていた父のような非戦闘員を「根こそぎ動員」して兵士に仕立て、結果的には60万人の「シベリア抑留」のおぜんだてをした「動員政策」があった。

 それはまた、満州の辺境に30万人の開拓団婦女子を無残に放置して関東軍撤収の煙幕とした「作戦」とも関わる(草地貞悟・関東軍作戦参謀証言、TBS『報道特集』1991年7月21日放送)。

 つまり、私たちを守る指導者も軍隊も、あのとき、日本国民はもちえなかったという「事実」にゆきつく(1991年5月、私は兄の級友とともに牡丹江に慰霊の旅をした。それは事実を確かめる旅でもあり、その記録を「関東軍作戦放棄地区をゆく―戦後世代の「満州」訪問記」として『中央公論』同年9月号に寄稿した)。