石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

私を眠らせない明治・大正時代

2007-05-31 22:59:28 | 雑談
明治末から大正時代は、現代を考える上での巨大な「貯水池」のようだ。昨夜は大逆事件の首魁として刑死した「実録・幸徳秋水」(神崎清著)を読みふける。目が冴え渡って眠ることあたわず。

WOWOWで、1995年に放送された「道と椿・もうひとつの東京物語」をビデオで見る。こんなに洒落た番組が12年も前にオンエアされていたことは改めて驚きだ。大震災と戦災のはざまに出現した「幻の帝都」。それをを作ろうとした東京市長・後藤新平と資生堂社長・福原信三のドキュメントだ。

その「後藤新平賞」の第1回受賞者に前台湾総督・李登輝氏が選ばれた。この選考には、初め、ずいぶん専行・乱暴の印象をもった。しかし、台湾行政官としての後藤の業績を情理をつくして語った氏の「受賞の言葉」には感銘を受けた。

明日はその授賞式がある。名前もしんぺい、自分が後藤に縁の深い大連に生れた偶然も噛み締めつつ出席しよう。

こんなこと書いてる場合か?

2007-05-30 14:23:25 | 雑談
朝、納豆でご飯を食べていると、こんなふうに納豆を食べていていいのか、と思う。食後の散歩で海岸に出て、ぶらぶらと歩いていると、こんなふうに散歩していていいのかなー、と思う。

帰宅して、新聞を読み始めると農水大臣が自殺したり、ナントカ機構の理事が自殺したりという記事がびっしり書いてあって、重大事件のようでありながら、ものすごく「よそごと」に思える。

世間はなぜこんなことに騒いでいるのか、死にたい人間はそのままにしておこう、もっともっと大事なことがあるだろうに、という思いがつのる。そして、こんな新聞をいま読んでいる場合だろうか、と思い始める。

もっと大事なこととは何だろう? 納豆と散歩と新聞について、「こんなことをしている場合か」と自問していると、年の差妻から「そんなことをしている場合なの?」という声が掛かって我に帰る。

自分のいましていることが、どうもシックリこない現象は、いま、リタイアした初老の人間、引きこもる少年、育児に悩むお母さん、自信満々のはずの現職大臣にまで、年齢・性別も超えてあまねく侵食している。

ほらほら、僕の場合、こうしてる場合も、こんなことを書いていていいのかなー、っていう思いとなってこみ上げてくるのである。こうして自分の行動への容赦ない否定と切り捨ての果てに、宝石のような「生きる意味」に出会えるわけである。








「地球交響曲6」

2007-05-24 16:25:56 | 映画
5月22日、鎌倉駅前の生涯学習センターで、ドキュメンタリー映画「地球交響曲6」を鑑賞する。

昼間の回は完売で、夕方の上映に辛うじて滑り込む。監督の龍村仁さんの”持続する志”に改めて感服する。

彼はガイア・シンフォニーというコンセプトに、「不都合な真実」などが流行る遥か前に着目していた。テレビの深夜番組で「宇宙船とカヌー」という古典的な名作を作ったのは、もう20年も前のことではないか?

映像+音楽+インタビューという方法も実にシンプルでいい。加島祥造さんの「老子・タオイズム」の書物や書画が根強い人気を呼んでいることにも通底する。この天体や宇宙に存在して、いま生きてるという意識を鋭敏にさせてくれる作品だ。

全国上映会システムというのは、閉鎖的な利権にまみれた映画興行の仕組みを乗り越え、表現と流通のビジネスモデルとしてもユニークだ。作品内容とは別に、そのポイントで取材してみたいものだ。

ロックグループ「キャロル」のドキュメンタリー映画を作った龍村さんは、そのことで「就業規則違反」に問われ、NHKをクビになった。あれは確か1973年頃のことだ。局舎前で、彼が抗議のビラ配りをしていたのを私は目撃している。何だか、そろそろ「歴史の証人」になりそうな自分でいいのかなー。







淡々たる日常

2007-05-23 12:18:18 | 雑談
朝、ご近所で、101歳の老人が亡くなった。音もなくワゴン車が横付けされ、ご遺体を運び去って行った。100歳を越えれば大往生だ。私も去ってゆくワゴン車に手を合わせた。救急車のサイレンも、家族の愁嘆もなく、淡々とことが運ばれていった。

「僕のときも、よろしく頼んだよ」傍らの妻に言った。
「ええ、できれば、粗大ゴミを出す前の晩にお願いね」
淡々たるコメントであった。

困ったちゃん

2007-05-21 14:32:58 | 雑談
「安倍首相の公設秘書らが17日、朝日新聞社と山田厚史編集委員に対し、損害賠償などを求める訴訟を東京地裁に起こした」

という朝日新聞の記事には改めて驚いた。首相の器の小ささに対してだ。先の、長崎市長銃撃事件と首相秘書の関係を報じた「週刊朝日」を訴えたことと言い、首相の訴訟癖には困ったちゃんだ。

今回のコトは、山田氏による3月25日、テレビ朝日「サンデープロジェクト」でのコメント。氏はその中で、不正決算の日興コーディアルグループが上場廃止を免れたのは「安倍事務所の関与があったからでは」という疑問を呈した。

安倍事務所は「日興の常務が安倍事務所に働きかけて上場廃止を防いだとの印象を視聴者に与えた」と文書で指摘。謝罪広告と3000万円の慰謝料を要求しているそうだ。

朝日新聞社広報部は「訴状が届き次第、内容をよく検討したうえで、対応を考えたい」としているが、ゆるい反応だ。これではマスコミが権力に遠慮するパターンが出来上がってしまう。社を挙げて、メディアこぞって反論し、山田氏を守るべきだ。「疑う」ことが罰せられる社会になっていいのか、という問題なのだ。

権力を「疑う」ことはマスコミの大事な仕事である。権力に疑問を呈するのがメディアであり、疑われたら「シロ」の挙証責任は権力サイドにある。確定した事実しか書いたり言ったりしてはならない、となれば、そも「民主主義」は成り立たない。

民はお上を疑う。疑った民がお上に訴えられる、という世の中はヘンではないか?
宰相が、民の受けた「印象」に介入する、ヘンな国ではないか?