石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

マスコミを鋭く問う新刊書 (2004.10.20)

2009-11-27 20:53:16 | 本・書評
以下の新刊本に「解説」を書いたのでご一覧ください

『日本マスコミ「臆病」の構造』
Japan's Chicken Journalism
副題・なぜ真実が書けないか
ベンジャミン・フルフォード(「フォーブス」アジア太平洋支局長)著
石井信平訳
宝島社刊行、定価 952円+税


陽の沈む国の辻説法       石井信平

これは新しい「東方見聞録」である。

極東にジパングという名の「陽出ずる島国」があって、食い物はウマいし、女性はきれいだ。特に、その社会システムは西欧諸国が真似できない、独特なものがある。本書はそんな、世界と隔絶したユニークさを書きとめた貴重な記録である。

世界各国には、それぞれルールがあり、「イタリアでは、禁止されていることも、ときには許される」。「アメリカでは、禁止されていること以外はすべて許される」。しかし、日本では「すべて役人にお伺いをたてなければわからない」というのはフルフォード氏の好きなジョークだ。



日本では役人がとびきりエライ。年金も手厚く、一生の経済的安定が保証されているから、親たちは子女を役人にしたがる。国の決め事は、ぜんぶ、役人が行う。三権分立? それはタテマエだけ。国会も司法も、役人のリモコンの下にある。役人は国会議員を「センセイ」と呼ぶが、裏ではバカにしている。司法は行政の奴隷だ。たてつく裁判官は人事で恫喝できる。

日本で役人に並ぶ人気職業はマスコミだ。民間企業を装っているが、「政府」の一部である。批判的なポーズをとることがあるが、決して権力側を追いつめない。自分たちの既得権益を危うくすることは絶対にしない。

「役人とマスコミ」、日本は基本的にこの二つで回っている。企業人は「戦士」と呼ばれて総じてよく働くが、その利益は税金と広告費になって、国庫とマスコミに津波のように流れこむ。

警察などは「奉行システム」そのままで、町場の秩序はヤクザが握っている。銀行の不良債権の根本原因はヤクザにある・・・。という漫画のような「日本の現実」を、具体的な取材で解き明かしているのが本書だ。



古来、東方に海を越えてやってきたのは「宣教師か遊び人」だった。キリスト教を布教したい、またはアジア女性とセックスしたい男たちである。その系譜でゆけば、フルフォード氏は「新種」または「珍種」に属する。宗教や女に目もくれず、社会の不合理を突き、「筋」を通そうとしているのだから。

どうも日本人はそんなことはどうでもよくて、「政府のお好きなように、よきに計らってください」と、暗証番号つきで、キャッシュカードを渡しちゃった。住専でも、金融システム支援でも、イラク派兵でも、あれよあれよのうちに法律が作られ、湯水のごとく国民の税金が使われてしまった。

フルフォード氏は、むさくるしいヤクザやパチンコ屋の事務所に自転車で乗りつける。そこが日本経済の本当の現場であることを知っているから。金融を破綻させ、日本人の貴重な資産を盗んだのは誰だったのかを追い続ける。それを問うことは日本のジャーナリズムの役目のはずなのに。フルフォード氏こそ日本と日本人を愛する「愛国者」ではないか。

「とんでもない。彼は『フォーブス』というアメリカ財界のタイコモチ雑誌のアジア太平洋支局長という体制派ですよ」という声が聞こえる。まさに、会社と肩書きによって言論が縛られる国の声である。



彼は本書の「4、記者クラブ」の末尾で書いている。「ジャーナリストは本来組織ではなく、個人だ。朝日です、読売です、ではなく、個人名なのである」。だから言うべきことを言わない記者は恥じを知るべきである、と考える。

本書にあるとおり、彼は実に手厳しく日本の「政・官・業・ヤクザ」の癒着を指摘し、この国を、国民の資産を盗む「泥棒国家(クレプトクラシーの国)」と呼ぶ。それは、東京駐在の記者として当たり前に、知りえたことを書いているに過ぎない。書かない日本のマスコミがおかしい。

ここまで自分の思うところを書けることは、彼のレポートがアメリカの本社で信用されている証拠だ。いや、何かの事情でクビになっても、彼が英文で書き続けたおかげで「日本の経済・政治の中枢を、ヤクザが蝕んでいる」というのはホワイトハウスもアメリカ財界も、今や常識として心得ている。

トヨタ、ソニーなどは『フォーブス』にとっても大事な広告主である。しかし、記者として知りえたことを書いて、どんなビッグな企業でも批判してしまう彼、載せてしまう雑誌にはジャーナリズムの精神が生きているというべきだろう。



彼の「弱者連合のメガバンク」の記事に怒った日本の銀行が広告を降りたとき、彼は社の幹部に言った。「私は読者のためにあの記事を書いただけです。もし私が何らかの理由で、事実に反する記事を書けば、損をするのは読者です」。その説明を受けた幹部が彼に「もっとがんばれ」と言ったエピソードは泣かせる。(光文社『ヤクザ・リセッション』P.141)。

「日本では、右翼の街宣車が一番真実を語っている、次が週刊誌、最低なのがマスコミ」というのは彼のユニークな指摘だ。彼自身は右翼のような徒党を組まず、資金源もない。「個人として」ひとり辻説法をつづけて出来たのが本書である。別段、抹香くさい男ではない。言いたいことを言うことを快楽とする「エピキュリアン」でる。

今後の懸念は、あまりに頑固に日本が変わらないから、彼の言ってることが段々「金太郎飴」になってくることだ。「フルフォードの言ってることはマンネリだ」、「また同じ事を書いてきた、女と遊んでるんじゃないか」。本社の疑いに、彼が「個人として」どう決着をつけるか、NHKふうに言えば「なりゆきが注目される」。  

  (フリーライター、翻訳家 2004/10/20)

脱藩

2009-11-22 08:00:45 | エッセー(随筆)
石井信平(映像&出版プロデューサー、石井信平事務所代表)
'66年同志社大学文学部社会学科新聞学専攻卒業


 脱藩。ダッパンとは、世界の中でたったひとりの自分に還ることである。

 新島襄が函館から船出した時、幕府の秩序と安中藩の保護の一切から、彼は自己を断ち切った。脱藩とは、制度への反逆だから、以後いかなる藩からも受け入れられない事を意味する。二百六十の藩があった当時、日本という国はなく、新島はその時、帰るあてない旅立ちをした。

 私は一九六六年、文学部社会学科新聞学専攻を卒業。筑摩書房に在籍。九八年、同社倒産により失業半年、テレビマンユニオンの入社試験をうけてテレビ番組の制作に転じた。そして八九年、フリーになった。脱藩ならぬ脱サラをしたわけだ。新島襄とは次元も状況も違うが、HELPLESS、という点だけは似ている。

 会社をやめて、最初に出会う二つの敵がある。収入の絶対的不安定と「孤独」である。

 フリーとは、給料日がない。だが、出費は容赦ない。年金、保険、労災、事務所費、定期券…一切を自腹で調達しなければならない。企画や取材をするのも、もちろん自腹である。打合せをして、コーヒー代に困ったこともある。

 孤独は、ひとりで食事する寂しさに象徴される。東京、赤坂に個人事務所をもったが、昼になっても「メシ行こか」と声掛ける同僚がいない。一日中、コトリとも電話が鳴らない日がある。だから、こちらから電話を掛ける。すると、必ずこう聞き返される。

 「どちらの石井さんですか?」

 つまり所属している会社、組織、団体の名前を名乗れというわけだ。私は答えられない。

 個人や個人事務所にお金を貸してくれないのが日本の銀行だ。土地、建物、目に見える資産を担保にして初めて貸してくれる。そうして迎えた事態が、国家的規模の財政と金融の破綻だった。なぜ、この国では、「個人」ではダメなのか?個人の企画、野心、志に投資しようとしないのか?

 フリーとは賃労働者だ、「やったこと」にだけは支払われる。しかし企画や「考えたこと」、つまりソフトウェアには相手は金を渋る。これが社会からダイナミズムと「おもしろさ」を奪っていないか?

 資産と知名度がない個人が、いかにサバイブするか。私は日々、自分を材料に実験しているようなものだ。新島ほど命懸けではない。法の裁きに怯えることでもない。法の保護を受けることでもない。つまり気楽が、財産であり特権である。

 新島先生、渡るに船なく、目指す水平線を見失ったとき、我を助け給え。



(同志社大学発行「随想」より)

社長のブログ

2009-11-15 01:30:18 | コラム
「社長夫人を裸にする」という企画を出したら即刻ボツになった僕。急遽「社長ブログ」に突っ込みを入れるという本邦雑誌史上、初のコラムに挑戦することになった。

毎度お騒がせのホリエモンが、長く休載していたブログ「社長日記」に帰ってきた。早速、アメリカに飛んで、IRや新規事業の打ち合わせしたことを書きまくっている。

怒涛の進撃は「選挙に負けた」どころか、スゴミが出てきた。何しろ広島第6区で、1日百人以上のミニ集会を毎日数十回こなしてきた。こういう経験をしておけば、こわもての外人投資家が束になってかかって来ても、気合で撃退できそう。文面からそれを感じた。選挙には、何か人を変える「デーモン」が棲んでいるのではないか。

ブログとは、有名人の動向、それも微妙な変化を読み取れる。同時に無名の人やコンセプトにも出会える。物つくりのエンジニアが、ふと漏らした言葉がスゴく新鮮だったり。普段こういう人と専門用語でしゃべる機会なんて皆無だからね。

「イナーシャ」という言葉をご存知? 何だか、西欧の悲恋の王妃みたい。今回一番心揺さぶられたのが「イナーシャの怖さ」という頁だった。自民党大勝に沸く表通りから、スッとはずれたブログの路地で見かけた。筆者は「緑川さん」という治具製作・木工モデル加工会社「ミナロ」の代表。

前にいた会社をリストラされ有限会社を立ち上げた。社名の由来は「設立時に参加したメンバーで、緑川のミ、中村のナ、樋口のロを取ってつけました、社名に自分の名前がついているということで、責任とやる気を持つ、また『実なろう』『身なろう』の意味も兼ねています」という。職人の誠実さがあふれた文章だ。ついでに、「行政・政府・金融と名の付くエセなものには噛みつきます。(笑)」と。

彼は小泉大勝利の「怖さ」の一部をこう書いている。「郵貯・簡保資金総額が340兆円と言われ、道路公団や住宅金融公庫など特殊法人におかまいなしに貸し付けられてきた。その焦げ付きの実体が私達には知らされていない」まま「民営化」に突っ走ることの怖さ。

彼はそれを「イナーシャ」と呼ぶ。機械用語で「慣性がついて機械が制御不能」の状態を言う。これは「小泉改革」に対する鋭い警告と読めた。ブンブン唸る機械を相手にしている人だから言える、この感覚。

女性なら、ときめいて恋に落ちた時の「制御できない」感覚を知っている。そう、男性ならエジャキュエーションの、あの瞬間だ。今回の選挙結果は、もはや誰も止められない「イナーシャ」の崖っぷちに日本を引きずり込んだのではないか?


ブログ「製造業社長の逆襲」
http://blog.with2.net/out.php?8585;http%3A%2F%2Fminaro.cocolog-nifty.com%2F

日経ベンチャー連載 社長のブログ第一回より
(2005年9月)

カンボジア

2009-11-15 01:07:30 | 妻より
しばしカンボジアに行っておりました。結果、ブログの更新が遅れてしまいました。

カンボジアは、貧しいながら日本が失ったものがまだ残っており、どこか羨ましくも感じました。失ったものは家族や絆のようなものでしょうか。

質素ながらも日々の暮らしを味わうことができるというか、ヒトとしての基本がまだ残っているように感じました。まぁ、旅人としての感想です、実際に住んだらもっとディープなものが見えたでしょう。

とは言っても、まだまだインフラなどが未整備でこれから発展する余地が大いにあり、なんとか中国やかつての日本のような道を回避しながら独自の文化を大切にした発展を期待したいと思います。

その貧しさゆえの事情からか、多くのNGOが活動しており、たくさんの話を聞いてきました。NGOの中にカンボジア人が多くいたことが印象に深く、自分の足で立ち上がろうとしているところに好感を持てました。

自立を促す方向のNGOの活動が大切なんだなぁとしみじみと感じました。というのは、やはり与えられ続けてしまうと当たり前になってしまうという性質が人間にあるせいか、自立を奪ってしまうNGO活動もあるようです。

とても学びの多い旅となりました。

岡本敏子著 「岡本太郎がいる」

2009-11-01 08:47:54 | 本・書評
ここに二つの同じ書評があります。一つは実際に日経新聞の「描かれたエルダー」に掲載されたもの。もうひとつは掲載しなかったバージョン。

掲載されたものはこちらでご覧いただけます。

皆さんはどちらがお好きですか?


 亭主が家に「いる」だけでうとましい、定年退職離婚ばやりの昨今だ。そんな時世に『岡本太郎が、いる』(新潮社)という大胆な書名の本がある。著者は太郎の「秘書」として五十年連れ添った岡本敏子。

 太郎の多彩で傍若無人な表現の一切を支えたのが敏子だった。今、若い人の間で熱く読まれている『岡本太郎の本』(全五巻・みすず書房)にみる彼の著述群は、すべて敏子の手による口述筆記から生まれた。

 秘書はやがて「養女」に立場を変えた。こんな男女関係があり得るのだ。彼女は「太郎巫女」として彼の表現の一切を受け止め、讃えた。「夫婦」などという固定した枠に閉じこめない、新しい関係。思えば、これだって太郎の創造であり、作品だったのだ。

 太郎と敏子、晩年の会話。「オレが岡本太郎でなくなったら、自殺するよ」。「その時は私が殺してあげますよ、大丈夫」。ここに、しっかりと通い合う意志は、なしくずしに、なぁなぁと、しがらみに流されゆく普通の「老後」とは違う。いや太郎から老後を奪い取って、表現者の栄光を与え続けたのが敏子だった。つまり最後まで秘書であり、死後も精力的に太郎の記念館と美術館のプロデュースを続けている。今も彼の秘書であることを至福に生きている。いや太郎に生かされている、とためらわずに言う。

 パーキンソン病で闘病の後、太郎は四年前に84歳で亡くなった。彼女は悲しむ「遺族」であることを拒否した。並の葬式ではなく、草月会館に「岡本太郎と語る広場」を作り、出席者は彼の表現をたどり、最後に梵鐘「歓喜」を叩いてその場を去るというカッコいいイベントを演出した。

 太郎の名言「老いるとは、衰えることではない。年とともにますますひらき、ひらききったところでドウと倒れるのが死なんだ」。こう言い切り、こう生き切れたのは、秘書敏子あってのことでしょ、太郎さん。

 『岡本太郎が、いる』という書名は、今も彼が「いる」実感で仕事を続ける秘書の心境だ。同時に彼が「いない」ことの哀しみがまっすぐに伝わってくる。(信)


石井信平 2000年10月