石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

おたいせつ 4

2010-09-30 10:14:58 | 「おたいせつ」 石井敦子著
副作用と鍼の先生との出会い

 二回目の抗がん剤治療前に、経過報告を受けた。「効果があるかないかを判断するギリギリの線です。」ズルイ言い方だなぁ。効果がないなら即座にやめさせたい。弱った体をさらに衰弱させることはしたくないが、少しでも効果があるなら、続けた方が良いのか。心がせめぎ合う。生きてほしい、苦しませたくない、信平さんらしく居させたい。

 ギリギリの線と言うことで、抗がん剤はその後も3週間に1度のペースで続けられ、結局全4回受けた。2度目の投与から夫は更なる副作用に悩まされる。吐き気(胃痙攣)、食欲不振、赤血球の減少による、だるさ・貧血・動悸息切れ…。徐々に夫の顔から笑顔が消えていった。胃痙攣に悩まされながらも夫は懸命に食事をする。貧血と動悸に苦しみながらも、足腰の筋肉を衰えさせないよう散歩に出る。2人で手をつないで出かけた、いつもの散歩道が夫には長い長い道のりだったろう。改めて夫の精神力の強さに驚く。

 痩せ細り、体力が衰えた夫が、通院に使っていたタクシーはクッションが悪くて辛いと訴えた。困っていた矢先、大学時代の夫の友人が相模原からわざわざ車で送り迎えに来てくれた。ありがたかった。信平さんの大学時代の友人たちはこうして陰日向となって闘病中ずっと私達を支えてくれた。

 がんと分かると色んな人が様々な情報をくれる。その中には効果が不明な民間療法も含まれたが、藁をもすがる思いで、色々試させてしまった。今思うと、抗がん剤と同様にどれも大して効いていなかったと思う。結局は気休めだ。

 その中でこれだけは今でも良かったと思えることがある。それは、夫の副作用の苦しみを少しでも和らげるために紹介してもらった、葉山の鍼灸師・福岡先生との出会いだ。福岡先生は3月頃から自宅に治療に来てくれるようになった。先生の言葉が夫に希望を与えるらしく、治療後、夫はとても穏やかになる。先生とは亡くなるその日までお付き合いが続くことになる。


肺気胸での緊急入院


 抗がん剤の副作用が激しい。夫の場合、白血球は意外に減少しなかった。問題は赤血球の減少だ。慢性的な貧血に陥る。動悸・息切れに悩まされ、自分の足で歩くことが困難になる。私たちの家はマンションだが、2階建てでエレベーターはない。この階段を登れなくなった時が入院の時だと覚悟した。肺気胸が分かったのはそんな頃だった。あまりに呼吸が苦しそうなので、CTスキャンを撮りに行った日に、医者に無理やり診察を依頼して、血中酸素濃度を測ってもらう。「98あるので大丈夫です」それでも不安な気分で帰った。その翌日、突然主治医から電話が入った。「昨日のCTスキャンを見ていたのですが、片方の肺が完全に潰れています。これは苦しかったでしょう。至急病院に来てください。緊急入院の必要があります。」だから言ったじゃないかと思いながら、部屋で日向ぼっこをしていた信平さんと慌てて支度して、再入院することになった。

 この2度目の入院が更に身体を衰えさせた。歩く機会が圧倒的に減り、足の筋力が落ちた。歩くとよろけるから、車いすが必須になる。この治療の間に、主治医から「もうご主人の身体はこれ以上の抗がん剤には耐えられないと思います。治療法はもうありません。あとは緩和治療のみです。わざわざ肺気胸の為に二俣川まで来るのは大変でしょうから、地元の病院を紹介します」と言われた。持ってあと3カ月でしょうとのこと。夫にはもう余命については言わないでと念を押す。ここでの話は私の胸にしまい、夫には「もう抗がん剤治療はしなくていいみたい」と伝えると素直に喜んだ。

 肺の穴がふさがるのに時間を要し、入院は3週間に亘った。帰宅して久々のお風呂に入る。よろけるため1人で入るのは危険と、一緒に入る。夫の背中を流しながら、「お客さん、いい身体してるねぇ、どっから来たの?」と笑わせる。夫はこんな冗談が大好きだった。いつも○○ごっこをする癖がついていた。現実と向き合わなくていい、あまりに辛い現実なら想像の世界で楽しめばいい。


つづく

「おとなしい聖歌隊」

2010-09-27 09:08:20 | AERA メディアウォッチ
 まるで、教会のミサにおける司祭と聖歌隊のように、政府の発表を、メデイアはただ、オウム返している。

 六月十日「GDP(国内総生産)一・九%上昇」と政府が発表すると、各新聞が一斉に第一面トップにそれを掲げる。五月の完全失業率四・六%で「前月より改善された」と総務庁が発表すると、やっぱり「前月より改善!」という見出しが一面トップに踊る。

 誰がどこで、どれだけの精度ではじいているのか、トンと分からないこの種の数字。政権維持に役立つものなら、政府サイドはどんな数字でも動員するだろう。それを黙って、まるで官報のように報じるメデイア。「あんた達、いつまで役所の広報におさまってるんだ?」と言いたくなる。

 なにしろ一年前は金融監督庁は長銀を「健全な銀行」と認定して公的資金六千億円を投じた。ゴミ箱に放り込んだも同然のそのカネは、もう還ってこない。その判断の誤りを、誰も責任をとっていない。いや誤りを公式に認めていない。そういう政府だ、と肝に銘じて数字に対処するのがメデイアの仕事だろう。

 去年、アメリカの雑誌「ビジネスウイーク」は「日本の本当の危機」という記事を掲げ、日本の公的負債総額はGDPの二五〇%、千三百兆円になると報じた。あれ?公表されている国と地方の借金は五百兆円じゃなかったっけ? 同誌の分析は、空港や鉄道など公的資金が投入されている公団・第三セクターなどの、全負債総額を試算し、その総額が千三百兆円だという。

 外に向かっていつも言う「国民の個人金融資産千二百兆円があるから大丈夫」は、これで吹っ飛ぶことになる。人類発生以来、このような負債を背負った国はない。事実上の破産国家ではないか?

 この数字は大雑把だと批判する前に、日本のメデイアは、国・地方・公共団体を含めた連結決算の実態を官が公表していない事実をこそ突き、自ら乗り込んで調査し、発表すべし。GDP上昇にバンザイしてる場合ではない。

 かつてメデイアがやったのは「戦局報道」という提灯持ちだった。「大本営発表、勇猛ナル我ガ機動部隊ハ台湾沖海上ニテ、敵空母三、戦艦七隻を劇沈セリ」。

 こうした数字を掲げた大新聞が、その後「訂正とお詫び」を出しましたっけ?


1999年7月



おたいせつ 3

2010-09-21 10:48:05 | 「おたいせつ」 石井敦子著
余命宣告とセカンドオピニオン

 なぜ余命宣告に対して患者に選択肢がないのか。生きるには希望が必要で、余命宣告は希望を奪う。繊細な心の持ち主なら自殺さえ誘発するだろう。余命宣告の希望を予め確認し、宣告する場合もメンタルケアをするべきではないか。

 私が提案したいのは、病院に入る際に、リクエストカードで本人の希望を確認する方法だ。たとえば、『余命宣告: 希望する・希望しない(家族のみ)・○か月以下なら希望』のように。もし希望する場合も必ずメンタルケア担当の医師なり専門家がフォローアップをするべきである。こうすれば、たとえば家族だけに余命宣告された際にも家族は本人の希望を客観的に知ることができるから、伝えるか伝えないかで思い悩まなくても済む。

 がんセンターで「抗がん剤しかない」と言われても、それは避けたかった。がんで家族を失った人達から、「抗がん剤で苦しませた」と副作用の評判の悪さを聞いていたからだ。
 
 私達にとって大きな決断をする時が来た。診断を受けたショックも癒えぬ間に、情報収集を始めた。1週間後の入院予定日までにあらゆる情報を揃え、セカンドオピニオンをとり、あわよくば別の治療法が見つかれば良いと考えた。

 複数の友人から、東洋医療を取り入れた帯津三敬塾病院の帯津先生の名を知った。最も抗がん剤を勧めなさそうな、この先生に聞いてみようという話になった。セカンドオピニオン専門の元国立がんセンターの外科医にも打診した。もし片方でも抗がん剤はやめた方が良いと言えば、抗がん剤はやめようと話し合う。ところが、どちらの先生も、「これだけ勢いの強いがんであれば、抗がん剤しかない」と言う。2人でうなだれた。でもそれが今考えられるベストなら、やるしかない。

 帰る途中、ホテルのロビーで美しく飾り付けられたクリスマスツリーを2人で眺め、これから起きることを考える。少し不安になるが、私だけは強くなければと気を引き締めた。


初めての抗がん剤と入院


 入院は、’08年12月15日。初めての治療でどんな副作用が出るのか分からず、年始年末にかかるため、1カ月の長期入院となる。病室は、古くて狭い相部屋だ。夫には、「これからホンモノのコスプレナースが面倒を見てくれるから大いに楽しむように」と冗談を言ったが、身長186cmの夫には小さすぎるベッドが痛々しかった。

 夫の闘病中、私が心がけたのが、いつもの自分で居ることだ。それは即ち、ユーモラスな自分。がんでショックなのは夫だ、なるべく夫には穏やかに過ごさせたい。幸いなことに最初の抗がん剤は順調に終了した。

 病院生活が寂しくないよう、毎日早い時間から病院に行き、面会時間ぎりぎりまで共に過ごした。毎日、食料、着替えやミネラルウォーターをリュックに詰め、病院に来る私を見て、夫は「まるで闇市に行くみたいだね」と笑った。

 開放的でありたいから、病室のカーテンは閉めずにいた。ベッドの簡易テーブルに2人で向かい合い、食事を共にする。ベッドが我が家の小さな食卓となる。ちゃぶ台を囲む雰囲気が良かった。不便だらけの病院生活だがそれも楽しもうと思ったし、夫も楽しんでいた。夫はブログでその時の光景をまるで昭和の映画の世界だと表現した。要は心の持ちようで不幸にも幸福にもなる。

 夕方になるといつも8階のテレビルームに行った。天気が良い日は夕陽を背景に富士山がくっきりと見える。夫は富士山が大好きだった。これは良い場所を見つけたと思った。

 点滴をうけて数週間後、ベッドを掃除してたら枕に髪の毛がごっそり抜けてるのに気づく。抗がん剤の影響が出始めていた。お洒落な夫にはショックだったろう。かなりめげているのが分かった。食事を食べ終わる度、「完食!」と誇らしげに言う一方で、夫の体重は日に日に落ちていく。心は焦った。

 病室の患者仲間と夫が仲良くなり、よくテレビルームで話をしていた。やはり同じ患者でないと分かち合えないものがあるのだろう。前向きで明るい人達だったから夫も良い影響を受けたようだ。初老の気さくなSさんが、奥さんが見えた時に、「石井さんの奥さんはね、毎日通って来ては、『信平さん、信平さん』って大変なんだよ。俺もあんな風にしてほしいなぁ」と言っていた。そんな風に思われていたのかと気恥ずかしかった。

 信平さんの友達が何人も来てくれた。つい病気に向き合いすぎる私達によい気分転換となる。やはり、友人の力はすごい。病人に大切なのは、心配ではなく、生き生きとした空気なのだと痛感した。



つづく

さよなら久米宏、さよなら報道記者!

2010-09-10 09:08:13 | 月刊宝島「メディアに喝!」
 十八年間走り続けた列車が消える。「ニュースステーション」という駅から久米宏が立ち去る。「疲れたのではない、衰えたのです」。衰えを感じさせない名セリフではないか。八月二六日の降板記者会見のやりとりだ。

 「衰えたとは具体的に言うと?」

 「最適な言葉が出てこなくなった。しゃべり出してから何を次にしゃべるか決めてない状態が出てきたのです」

 そーか、この番組は久米という達人が、次に何をしゃべるかの「話芸」によって引っ張ってきた番組だったのだ。TVニュースという、ものすごい古い手法の「動画つき官報」の各項目を、次々と話芸でつないで来た。そのつなぎに衰えを感じての降板だった。

 久米宏が降りることが「ニュース」で、次に古館伊知郎が後継者です、が「ニュース」になり、「番組がなくなるのに、後任がいるのは分からない」と久米がカンカンに怒ったことが「ニュース」になる。芸能も含めて日本のメデイアが異常に「人事」をニュースとして愛するのは何故だろう? たぶん、それだけが「新鮮」に見えるからだろう。

 つまり日本のニュースとは、大部分が全国四〇〇ヶ所もある記者クラブで「官製」の原材料が仕入れされて、一部加工、化粧直しされ、分配、流通、全国のメディアから怒涛のごとく吐き出される。その取り扱いと手法のマンネリズムこそが問題なのだ。それを直視せず、「商品」としてどう魅力的に見せるか。そこに久米宏という香具師(やし)が必要だった。プラスチックの寿司も、新鮮なネタに見せて十八年間お客に食わせ続けた、久米とは天才詐欺師だった。

 この際だ。テレビニュースを根本的考え直そうよ。テレビの報道部を作ったとき、新聞記者を鑑と仰ぎ、いそいそと同じ記者クラブに加わった。あそこで断固として新聞などと席を同じうせず、映像と音声という全く新しい武器を使って、ニュースを「つかむ」手法を身もだえしながら考え抜くべきであった。

 きょうのニュースとして首相のワンコメントを頂戴する、あのマイクを捧げ持つだけの人も放送記者? そんなのニュースじゃないだろう。ニュースは記者の群の外にある。カメラとマイクがあるなら、いっそ「本日の自殺中継」を毎日やって、ほんとに庶民が今どんな現実で生きているか、死のうとしているか、それを伝え切るのがニュースである。

 テレビ取材をENG(Electric News Gathering)と呼ぶ。ニュースの「ギャザリング(集め方)」を全部洗いなおそう。たとえば拘置所から裁判所まで重要容疑者が乗った護送車の屋根をエンエンとヘリで撮る、あんなの単なる「手抜き」である。

 ニュースの「顔」を百回変えても日本は変わらない。ニュース作りの「システム」こそ変えなければならない。十八年間走り続けた列車が消える。この際、ニュースステーションという古い駅舎でメモだけしている「マンネリ報道記者」たちも一緒に乗り込んで、さよーならー。


月刊「宝島」 メデイアに喝! No.2 2003年11月掲載