石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

再掲載 「原発事故、本当の責任者は誰なのだろう?」

2011-04-01 18:33:19 | 社会

注:この記事は、2007-07-18に掲載されたものです。


赤城農水大臣が、今度はガーゼをぺったり顔に貼ってご登場だ。理由を説明できないから、またまたワイドショーの格好の餌食となっている。

 叩くのでなく、話題提供の貢献を多として、赤城君に表彰状をあげたらどうだろう。


 ところで、7月16日に起きた地震で、東電柏崎刈羽原発3号機の変圧器から出火し、消火まで約2時間かかった。その上、放射性物質を含んだ水が海に漏れ出た。

 東京電力が批判の矢面に立たされている。甘利明経産相は勝俣恒久社長に対し厳重注意し、耐震性の確認や消防態勢の点検と報告を指示した、そうである。

 きょう、社長は柏崎市長を訪ね、頭を下げていた。作業服の守衛さんかな、と思ったら社長だった。およそ風格がない。説明が出来ない。説得力がない。

 地震と変圧器火災の因果関係や、鎮火まで2時間もかかった理由を説明できない。

 こんな人に、こんな危険な施設の社長が務まるのかなー。「ご迷惑」を詫びていたが、「賞味期限切れの饅頭を配っちまった」という顔だった。

 ことは「消防」の問題か? 会社の不祥事か? 

 そもそも、活断層の上に原発を作ってしまった「国策」が問われているのである。経産省が、通報義務を怠ったことで東電を叱っているのは、実に滑稽だ。そして、国の、この無責任ぶりこそ、実に恐ろしい。

 社長の「ごめん」で終るなら、警察もジャーナリズムもいらない。
 
 原発のCMに出たタレントや「有識者」たちにも聞いてみたい。


http://blog.goo.ne.jp/shinpeishii/e/234352cb221d27ec2e94f82f3403ab7f

彼らのうめきを消したものは誰か

2011-03-18 19:05:11 | 社会
石井信平


 大震災のあの日から一年が過ぎようとしている。六千余人の死には、それぞれ個別的な理由と状況があっただろう。未曾有の災害に対し、立ち遅れたり、誤った対応もあった。そのあれこれをあげて反省することは関係各所に任せよう。

 ここでは、唯一点をあげたい。すべてに優先して生き埋めの人びとを救出すべきであった。そのために救急の車輌以外の交通を禁止すること。ヘリコプターを飛ばさないこと。

 その日から、津波のような震災情報がテレビと新聞を通して私たちの上に降ってきた。それらは生き埋めの人びとを救う上で、何んの役に立ったか?昼夜をわかたず現場上空を飛び続けた『取材ヘリ』は、生き埋めの人びとの声を消してまで、何を伝えようとしたのだろう。

 ふしぎなのは、政府の出動の遅れを言いたてるメディアの中から、ヘリコプターの騒音についての検証も反省も聞こえてこないことだ。

 苦痛と孤独の極限で、人がその口から発するものは、もはや叫びではない、ひそやかな『うめき』であったろう。それをかき消す轟々たるエンジン音は、高らかな『報道の自由』の雄叫びであるが、同時に明白な『殺人行為』でもあった。ひそやかにうめきを聴き分けるべき現場を騒然たるものにした過ちが報道の側にあったこと、まずそれを認めるべきではないか。

 いったい、人間の生死をわけたあの数日間、何機のヘリがどのように飛んだのか、報道各社はぜひ『情報公開』してほしい。その上に立って、今度同じようなことが起こったら、大臣の『視察』ヘリも含め、どうすべきか、具体的な提言をしてほしい。

 それがないまま銀行と大蔵省に対して責任追及と情報公開を求めるメディアの論調が空疎にきこえるのは私だけだろうか。

(映像&出版プロデューサー)

1996年1月


妻より:この経験をもとに設けられた、サイレントタイム*が今回の東北地方太平洋沖地震でも実施されましたが、メディアのヘリコプターによりこのサイレントタイムが守られなかったという話を聞きました。メディアは何もこの15年のあいだ学んでいなかったようです。


*サイレントタイムとは:災害や大事故の際に、取材のためのヘリコプターなどの重機の使用を一定期間自粛し、静かな時間をつくること。

くだらない番組しか放送できないなら「死刑」生中継

2010-08-22 11:44:20 | 社会
永田町より「殺人事件」「殺し」好きな国民性


 日本のテレビは「殺人フェチ」である。異常なほど「殺人事件」を報道するのが好きだ。

 霞ヶ関や永田町で、お役人や政治家が国民全体を不幸にする隠し事や立法をしているのに、それを報じる熱意や時間はあまりにもお粗末だ。ところが、田舎で起こった殺人事件にレポーターが現場に張りつき、全国ネットで朝から晩まで放送している。何だか変である。

 番組制作者に思いこみがある。「殺人はニュースとして『一級品』だ。誰もが殺人に興味があり、視聴率を取れる」と。日本人は常に「新鮮な」殺人事件に飢えているのか?

 だったら、グッド企画があるぜ、ベイビー。

 国家による「死刑」の一部始終をナマ中継することさ。新鮮な「殺し」のディテールがリアルタイムで見られる。エッ、死刑ってこんなに酷いの!という見せしめになり、死刑・擁護論者が大好きな「犯罪の抑止効果」にピッタリだ。子供たちには「人が死ぬことの真実と尊厳」の学習になる。しかも法務省と裁判所がオーソライズした、トータルに「合法的」イベントだぜ。


テレビ局員は行動もメンタリティも“お役人”


 オラがこれを言う動機は、「末期的なテレビ状況」に喝!を入れたいからだ。

 挑戦するより、現状維持。面白さより、クレームゼロ。監督官庁、スポンサー、人気タレント事務所などから、文句を言われないこと。これじゃ、「今起こっている遠くの出来事を見せる」という「テレビジョン」本来の価値は今や死んだも同然。何しろ新聞紙面を写して「これがニュース」と平気な神経だ。

 生中継にこそテレビ本来の価値がある。テレビは、ジャズのアドリブのように、予定調和なき「時間だ」と見事に喝破したのは、先日亡くなった村木良彦さんだった。

 萩元晴彦・今野勉さんとの共著『お前はただの現在にすぎない』(田畑書店、1969年)という本はテレビの価値と可能性を追求した名著で、その後、これを乗り越えるテレビ論は誰も書いていない。

彼が仲間とTBSを去り、テレビマンユニオンという独立の番組制作会社を作る時、会社に要求したのは「中継車」だった。TBSはこれに応じず、代わりに向こう5年間の番組制作の「発注保証」をした。「外注・下請け」の構造が問題だが、テレビマンユニオンが、もし、あの時退職金代わりに「中継車」を手に入れていたら、日本のテレビ状況は別なものになっていたかも知れない。

その後、テレビは「東大安田講堂事件」(1969年)、「浅間山荘事件」(1972年)など、数日間も既定の番組枠をぶち抜く緊迫したナマ中継番組を放送した。いま、中継で残っている番組と言えば、マラソンかサッカー? そして「テレビよ、お前はただの現在に過ぎない」という魅力的な呼びかけに応える番組は皆無と言っていい。国民共通の財産たる電波のムダ使いは末期的惨状である。


人々が求めている感動のドキュメント


 今、人々が真に求めている番組は何だろう? それは、ホンモノのドキュメンタリーである。なぜなら、テレビとは元々が「現在という時間」「プロセス全部が大切」なドキュメンタリー・メディアだから。そこで「中継車を刑務所に横付けしてしまえ!」というのがオラの提案だ。

 生カメラが所内に入る。

 その日の夕方、刑務所長から呼び出された死刑囚はこう言われる。

「明朝、君を処刑することにした。ハトヤマ法務大臣が、君を殺すことにとても熱心でね。ま、今夜は、新鮮なスシでも、アツアツのピザでも、君の好きなものをとってあげよう」

この場面からして、最高のドキュメンタリーだ。所長室はちょっとした「お別れ会」となった。 既に心を落ち着かせた死刑囚は、寿司の味をかみしめる。しみじみとした「最後の晩餐」。ズルズルと茶をすする音にさえ、見る者に「生きること」の価値を訴え、胸迫る。

 中継車のディレクターが、本社の上司に電話する。「囚人の顔にモザイクかけますか?」。 インカムを通して本社から怒鳴り声が返ってくる。「バカヤロー! 死刑囚に人権はないんだ。素顔を見せろ」

 その通り! 死刑と判決された瞬間から、囚人に人権なし。面会、文通を徹底的に制限し、毎日毎日死の恐怖にさらして、結局殺してしまう。今さら何がプライバシー、人権か。

 次に、独房に戻った囚人に密着して「朝まで生インタビュー」だ。死刑囚は死の前夜に何を思い、何をするのか。人生の深淵が囚人の口から語られるはずだ。

 以上は、「ドキュメント・処刑」の前編。これが絵空事なのは「明日、誰を処刑する」かは刑務所内部でも極秘であり、刑務官、囚人本人、その家族にも伝えない。かつてあった所長との「最後の晩餐」は今はない。 前夜に知らせて、その夜のうちに自殺した囚人がいたからだ。法務当局は、朝に知らせ、即刻、絞首刑執行。最後の懺悔、自分の独房を整理する暇も与えないスピード処刑が現実だ。


秘密裏の殺人より処刑中継を


 本来、処刑とは公開が原則だった。江戸の小塚原、パリのコンコルド広場など、大群衆の前でとり行われた。何も隠さず、権威ある行事だった。「だった」と言うのは、今の日本国家には人を殺す資格も権威もないのではないか、とオラは疑うからだ。だから、死刑のこととなると、やたらに秘密主義を貫く。

 でも、「スピード処刑」だってテレビで見ようよ。アメリカでは注目を集める死刑囚にはメディアが直接取材し、報道する。

 1995年に起こったオクラホマシティー連邦ビル爆破テロ事件の犯人、ティモシー・マクベイ死刑囚は薬物注射で処刑された。被害者や遺族の多数が見物を要求し、死刑中継が有線によるクローズド放送で流れた。

 「順法精神の徹底」を立て前に、処刑を日本全国に生中継すればメディア史上画期的なことだ。ディレクターは現場から本社の上司に電話する。

「今、ロープを囚人の首に掛けました。刑務官の顔にはモザイクを掛けますか?」

「バカヤロー! 公務員が真面目に公務に励んでるんだ、素顔を写せ!」

「囚人が、出演ギャラを要求していますが・・・」

「わかった。1000万円を、被害者遺族に渡すから安心して死ね、そう言っとけ」

国家による秘密裏の殺人こそ残酷極まりない。するなら見せろ、死刑執行!




月刊宝島2008年4月号掲載(一部オリジナルのまま)




総「櫻井よしこ」化現象

2008-11-25 18:50:07 | 社会
(欧州の友への手紙より)

日本人はマンネリズム、と同時に飽きっぽく、すぐ先へ行くせっかちも併せ持っています。

「じっと待っているだけで、元の思想状況がまたやってくる」というのが鶴見俊輔さんの日本思想観で、一理アリです。

いま、昭和5年状況が出現していると言っていいでしょう。愛国史観・ナショナリズムの爆発寸前状況です。長期不況と政治の欠如・・・持って行き場のない不満が日ごと募っています。

自衛隊の空幕長の作文問題は氷山の一角で、今や社会の下部構造のみならず、上部も、ものすごい勢いで「櫻井よしこ」化が進行していると想像します。

エロスは国際問題である

2008-10-05 07:26:24 | 社会
オラの「エロ教師」就任は、国際的な波紋を呼んでいる。

海辺のレストランで、いつも朝食を共にするアイルランド人・ドイツ人が、立教大学でのオラの授業の様子を聞いて興奮している。いずれも還暦を迎える大学教師だ。

質実な語学教師でいつづけた彼らにとって、大学で「エロス」を教えること自体が仰天なのだ。西洋人にとってもエロスは暗い「タブー」であって、学園での「教科」ではない。

それを、思いっきり「正面」から切り込んでいるオラの姿勢、それをバシッと受け止めている学生の態度に、外人達は「教育」の新しいウェーヴをいち早く感じ取ったのだ。

Out of the darkness into the light  
闇から光へ

Healing Power of Eroticism
From Individual To The Society
エロスが秘めるヒーリング・パワー、
個人レベルから社会レベルへ

オラが取り組もうとしているのは、英語に単純化するとこういう表現になるという。時代閉塞、今やグローバルで人心は行き詰まっている。今までのやり方ではダメだ。

どちらかというと寡黙なアイルランド人が「ポルノとエロスの違い」について突然熱弁をふるい始めたのもビックリ。

みんな、潜在的に言いたいことを一杯隠し持っている。でも、パブリックに言うチャンスがないテーマなのだ。

オラの役割は、そこに道筋をつける「MC」役。今から次回の授業が楽しみである。

税務署から金一封

2008-09-27 08:56:51 | 社会
前夜は機嫌良く帰宅した。おや、郵便受けに「鎌倉税務署」から封書。すわっ、また督促状か? 開いたら「5100円、還付します」という。

こりゃ、「祝・エロ教師デビュー!」金一封だ。今度、税務署員が「ビビッとくるエロス」はどんなものか、いずれ取材したいな。

AV企画で提案「あたしは女子税務官・身体で還付します」っての、どうかな。

そんな「脳内エロ」はおくびにも出さず、金曜日は午後から、某放送局の番組審議会に出席。エラそうなことをブッてみんなを煙に巻く。

時代が熱かった、あの頃

2008-09-23 12:50:11 | 社会
『お前はただの現在にすぎない』が10月7日に朝日文庫で発売になる。

今の若い読者には解説が必要な語句がいくつも登場する。以下は、オラが新たに書き加えた「注釈」の一部である。


「ティーチ・イン」  
シンポジウムより熱かった1960年代に流行した討論集会。パネラーが壇上で一方的に語るのではなく、聴衆からの質問・詰問・野次の応酬激しく、スリルとリスクに満ちたイベントだった。

「エンプラ闘争」
核をもたず、作らず、持ち込ませず、の「非核三原則」にもかからず、1968年1月、日本政府は米原子力空母エンタープライズ号寄港を認めた。反対する学生たちは東京から長距離夜行列車「西海」に乗り、大挙して寄港地・佐世保に駆けつけた。中には村上龍・糸井重里などもいた。

「羽田闘争」
1967年10月8日、三派系全学連は佐藤首相の東南アジア訪問を阻止すべく、羽田デモを敢行した。このとき初めてヘルメット・覆面・ゲバ棒で機動隊と全面衝突、京大生・山崎博昭が死亡した。「ジュッパチ」の呼称で長く記憶された。

「三派系」
1967年10月8日、羽田闘争に日本共産党に対立する左翼三派(共産同・中核派・社青同解放派)が登場し、「三派系全学連」と呼ばれた。その後四分五裂するが、各地の大学闘争を主導した「全共闘」結集の核となった。その後「団塊の正統は戦った僕たち」と自慢したがるグループ。


最近、鎌倉の町には、いかにもの「団塊夫婦」が群れなして散歩するのを見かける。

1970年生まれの妻は、彼らをターゲットに、喫茶店を開くなら「ゲバ棒」という名前にしたいと主張している。

大相撲から失われたもの

2008-09-21 11:59:50 | 社会
久々に自宅にいる時間が多く、妻とテレビ桟敷で大相撲を見物した。

高見盛への妻の評価は高い。一生懸命なのに、人を「笑わせる」というのは、普通の力士じゃ出来ない、すばらしい天分だというのだ。ウーン、そういう見方もあるか。

協会の新理事長が、何の思いつきか、急に立ち会いの「両手つき徹底」を言い始めたから、何だか力士達が相撲に集中できない。

気合い合わせて「ようやく」立つのが精一杯。始まった相撲は勝負を急ぐあまり、引きワザ、叩き、何だかジタバタした相撲ばかりの印象だ。

「堂々たる、いい相撲」がほとんどない。

腕っ節の強さを振り回す「朝青龍」が天下をとってから、みんながあれのマネをし始めた。何か大事なものが大相撲から失われた。「国際化」の弊害かな?

親方の教育が、チマチマした「生活指導」に明け暮れ、力士の素質をキチンと見抜いていない。

横綱白鵬が最近、しきりに「相撲の流れを大事にしたい」と語る。そして、意表を突かれて自分の「流れ」を見失うと、とんでもないみっともない負け方をする。

大相撲の重大事態とは何か? それは「型の喪失」である。

昭和の名力士たち、羽黒山、東富士、照国、千代の山の横綱たちは、みんな自分の「型」をもって土俵に上がった。

平幕力士でも、信夫山、安念山、大内山、大起・・と名前を呼び上げるだけで、相撲振りの「型」が思い浮かぶ。

大相撲が歌舞伎と並ぶ庶民の娯楽たるゆえんは、そこではなかったか。人はその場に「サーカス」を期待しない。もう少し「上等な時間」だった。

「型の喪失」をテーマに、時代を批評すれば、多くを語れる。

オリンピック柔道のつまらなさも、思えば、柔術の「型」を見失ったからだ。

政治の迷走も又、政治家に「型」がなくなったからだろう。「小泉チルドレン」に、いかなる「型」を期待できるだろう?

それは「大人がいなくなった」という最近顕著な風評にもつながる。

大人がいない時代や社会に、馥郁たる「エロス」が薫りようがないのである。

アバウトで行くよ

2008-09-20 06:33:02 | 社会
来週から「メディアとエロス」の授業が始まる。大学教務課に教室のAV装置のことなどで電話をする。気になることを尋ねる。

「受講する学生数は、何人ですか?」
「授業開始の前日まで申し込みを受け付けますので、わからないのです」
「え? ということは、10人なのか、千人なのか、わからないということですね?」
「そういうことです」

これでは、そもそも「心構え」を作れない。「心構え」は要らないのだ。

大学って、おおらかな所だなー。好きだよ、そういうの。

この時、オラは「ものすごくアバウトな教師になろう」と決めた。

道遠しともメゲず

2008-09-15 10:58:38 | 社会
3連休で、鎌倉の海岸を走る136号線はノロノロの大渋滞。

近郊からの家族連れは、車内で団らんをしているかもしれない。気の毒なのは、こんなのに巻き込まれた長距離トラックだ。

仕事で九州や北海道に運ばねばならぬ物がある。決められた日時まで。

ガソリン価格の高騰で「大衆はクルマを自粛し始めた」なんて報道されてるが、とんでもない。きょうは鎌倉市内の道路も、ビッシリと超満員!

市外からのクルマで、市民生活の機能停止だ。こんなのをコントロール出来ない、情けない地方行政だ。

妻の実家に夕食に呼ばれ、タクシーに飛び乗った。裏道を知り抜いてるから、スイスイと走る自信アリ。

ところがドッコイ、どの道も渋滞で動かない。道半ばなのに、メーターは早くも1300円を超えた。憤然として、歩くことを決意。支払って、歩き始めた。

いま降りたばかりのタクシーに、スイーッと追い抜かれてしまった。人生の道は長いのー。