石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

東京―神戸 「600マイルブレンドはボクのハードボイルド体験」

2011-10-14 12:15:15 | バイク

あくまでも走ることが目的ではない。
東京から神戸にまでコーヒーを飲みに
行くという行為が大切なのだ。


 神戸にコーヒーを飲みに行ったのは出来ごころからだった。東京から一気にランナウェイ。ひたすらバイクを走らせた。

 見たのは、一本の長い灰色のアスファルトの道だった。

 聴いたのは、ただ絶え間ない風の音だけだった。

 使ったガソリン60リットル。高速道路の料金、しめて1万5千円。所要時間、往路、11時間復路、9時間。

 車輪は疾駆した、世紀末に向けて!

 かつて、一篇の詩になりたくて割腹自殺をした作家がいた。それに比べて、バイクに乗って神戸にコーヒーを飲みに行く行為は、およそ詩とは縁遠い。評論の対象にもならない。バイクに乗り、走るということは人びとから忘れられる為の行為なのだ。考えることをやめた稲妻になることなのだ。

 道は中央自動車道、調布インターから始まった。信州の空気を吸ってみたかったから。これも、ほんの出来ごころである。都心から甲州街道を環八で左折して東名に乗るか、直進して中央道をとるかの選択に一瞬迷いふと気づいたら右手に大きく八ヶ岳が見え始めていた。信州は既に晩秋であった。

 CB550F。つきあって早や5年。特別ほれ込んでいるわけではない。別れそびれただけである。丈夫な下駄と呼べばいいか。走行距離はやがて4万キロになる。

 伊那、駒ヶ根、飯田と木曽路を南下して中津川に達すると道は間もなく太平洋を予感させる。小牧にて名神高速に合流する。ところで、この一文はいわゆるツーリング・レポートではない。地名や距離は重要ではない。ぜったいに「遠くへ行きたい」ではないのだから。

 軽薄な出来ごころを発端にして、ただひたすら走ること。旅と呼ぶにはあまりにシンプル。駅のスタンプ、おみやげ、展望台、時刻表、旅の詩情、遥かな思いと一切関係なくエンジン火の玉。さすらいの琵琶湖を過ぎれば早や日没で京都、山崎、ふり仰げば空はキラキラ星で、着いたところが神戸はメリケン波止場であった。

 ポートピアの喧騒がウソの様な静けさ。エンジンキーをオフにすれば、ハイウェイの激走が大昔の出来事に思え、まことにバイクとはふしぎな乗り物である。ひょっとしてオレは夜空をホウキに跨ってここにやって来たのかもしれない。

 海からの微風がそよぎ、右手にポートタワーのイルミネーションが輝やき、背後の六甲山のすそ野に神戸の夜景が広がっている。波止場は恋びとたちの散策の場所でもある。いのち短かし、恋せよ乙女、である。独り、皮ジャンのエリをたててダンヒルに火をつければ気分はいやがうえにもハードボイルドであった。

 この港町にやって来ると、サイトウサンキという不思議な名前の男と思い出す。

 「昭和十七年の冬、私は単身東京の何もかもから脱出した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。――」

 俳人、西東三鬼の名著「神戸」の冒頭である。

 太平洋戦争中、神戸のトーアロードの中途に、芝居の建物のように朱色に塗られて建っていた奇妙なホテルの長期滞在客として過ごした三鬼は、そこに雑居していた無国籍者や亡命外国人やバーの女達の暮らしぶりを活写した。

 彼の魂はコスモポリタンでボヘミアンで、その俳人としての観察眼はハードボイルドであった。熱い思いと冷たい眼――それがハードボイルドを支える。気分ではなく生き方のスタイル。

 「神戸」の中に、マジット・エルバという名のエジプト人が登場する。彼はコルシカ島で産まれ、エジプトの兵隊になり、ブラジルで賭博者になり、メキシコで男妾になり、神戸で肉屋になった。

 三鬼は書いている「――その流転の間、とにかく食って来たのである。現在、いずこの空の下に薄黒い肌を光らせているか知らないが、私の再会したい男の1人である。」

 ぼくにエルバのような生き方が出来るだろうか。銭湯が好き、ソバを食うのが好き、日本の女が大好きだから、日本よい国ジャパネスクキャンペーンにコロリと参ってしまう。せめて気分はハードボイルド、と気をとり直して、トーアロードを右に曲がり山手通りのコーヒーの殿堂「にしむら」の前に馬ならぬバイクを止める。


人は馬鹿馬鹿しいと笑うかもしれない。しかし、実際に
やりもしないで口をはさむことは遠慮してもらいたい。
少くとも、ボクにとって600マイルを走りきることで
初めて飲むことのできたコーヒーの味は格別だった。


 テキサスの無宿者のカーボーイが酒場に乗り込む心境である。

 ウェイターが、水をもってくる。注文をきく。

 「600マイルブレンド、濃い目に頼むよ」

 虚実皮膜のお芝居をしたい心境なのだ。

 演技でいいではないか、演技に真実熱い思いがこもっていれば、それは一つの本気なのだ。

 「ブレンドですね」

 ウェイターはいんぎんに頭をさげるとあっけなく立ち去る。

 腹の中は信州の空気と高速道路の排気ガスが4気筒4サイクルのエンジンの振動でたっぷり攪拌されて既にブレンド状態であった。そこに六甲の水で煮たったブラジル産コーヒーが流し込まれ、ぼくはウォオオーンと狼のように吼えたいキモチだった。

 コーヒーを飲み終りゃ、もうこの街に用事はない。吼えて吼えて吼えまくりながら名神、東名一直線で東京へと走りつづけたのである。

 
 中年や遠くみのれる夜の桃   三鬼

 
 バイク感覚を語るのに俳句がふさわしかどうかはわからないが、この句にこめられた情念は一杯のコーヒーを飲むために、600マイルの精神の勃起を体験したぼくにとっては自分のものの様に親しいものに思える。

 中年は、ではなく、人間はだれでも夜の桃を追って生きていく。夜の桃が何を象徴しているかは、それぞれの人が勝手に思いをめぐらせばいい。官能とか快楽、せつなさ、性的で、かつ精神的な高み、生きていることの実感、である。

 少年にバイクを禁止することで教育的配慮と錯覚している人々は、少年から生きている実感を奪っている。明日のために今日は忍べという大義名分で。

 うるさく乗る、危なく乗る、他人に迷惑をかけて乗るかどうかは個人の品性の問題であって、まるごと禁止する理由にはならない。今は陸続たる中年ライダーの出現は何を意味するか。少年よ忍んでも明日などついに来やしないぞ、ということを語っていないか。

 少年たちのきょうの充実に心をくだかない教育の結果は目に見えるようだ。

 彼らは大人になり、老人たちの生の実感に極めて冷淡な態度に出ることで復讐してくるだろう。

 将来の国家財政は彼らが食うだけで精いっぱい。年金制度は破綻して老人は大量に路頭に迷うだろう。

 そんな時でも、ぼくは元気にバイクに乗っていたい。今度は京都に抹茶を飲みに行くんだ。彦根あたりで、セーラー服ナンパしてドドッとくりこむぞ。

 今月、わたくし、39歳に、な・り・ま・し・た。



石井信平 (いしい しんぺい)
テレビマンユニオンのプロデューサー。「遠くへ行きたい」(TBSテレビ)などを製作している。身長186cmの巨体。言葉少ない渋い中年だが、「あんまり若い娘にモテませんネ」
 

「ミスター・バイク」1981年12月号 掲載 
(信平さんはライダースジャケットとGパン姿で表紙も飾ってました。

真にセクシーな音楽

2011-10-07 18:11:01 | テレビ番組制作

<夜想曲>

 ハッキリ言って、私はワイセンベルク氏のファンです。初めて彼に会ったのは1980年、私がTBSの番組「オーケストラがやって来た」のアシスタントプロデューサーをつとめていた時でした。

 同番組の400回記念のゲストとして彼を迎えるべく、成田空港の貴賓室であわただしく打合せしました。番組収録は習志野文化ホールで、新日フィルとの共演でショパンの「ピアノ協奏曲第1番」を演奏してもらいました。

 休憩時間に、食堂で海老フライをパクつく巨匠の気さくな一面に初めて触れました。それ以上に、この日、アンコールで演奏された「夜想曲、嬰ハ短調、遺作」を聴いたことが、私にとっては“事件”でした。

 大げさを承知で言えば、こんな音楽がこの地上に存在しうるのか、という驚きでした。悲劇的に流せば簡単にそれらしく出来上がる曲です。しかし安易に流れることを拒否して、力強く、無邪気な透明な音楽に彫り上げていく彫刻家のノミの輝やきを1つ1つの音に感じたのです。

 この1曲を、もう一度聴きたい。その私欲で私はパリに出掛け、マネージャーのグロッツ氏と交渉し、契約にこぎつけ、13人の撮影・録音スタッフとその機材と共にパリを再訪したのです。1986年5月末のことでした。

<エトランジェ>

 マロニエの白く花咲く5月のパリは、春の名ごりと夏の予感で、もの狂おしい思いに人を誘います。5月のセーヌ川にむかって窓が開かれたワイセンベルク氏のアパルトマンのキッチンに、1トン近い収録機材が運び込まれました。さながら小さな美術館を思わせる居間の床にケーブルが何本も走り、ふだんは巨匠のひとり暮しの家が突如、撮影・録音スタジオに変貌しました。

 氏の自宅は、このビデオでは「夜想曲、変ホ長調」「エチュード、ホ長調」「プレリュード、ホ短調」の演奏場所として映像に登場します。

 かつてショパンもまた、このパリで異邦人の暮しをしていました。エトランジェの独り住い。―ニューヨークで、ローマで、東京で、ワイセンベルク氏は、コンサートの緊張と喝采の旅を終えると、パリの、この自宅に帰ってきます。つかの間の休息と静寂が、新しい旅立ちの身づくろいの時に重なる。帰るところが、また旅立つ場所でもあるエトランジェの宿命。

<知と情>

 演奏場所は他に2カ所。サル・ガボー・コンサートホールとブーリエンヌ館という19世紀初めに建てられた家です。

 「ソナタ第3番」「葬送」「夜想曲、遺作」が演奏されたのがサル・ガボーです。典雅なホールを借り切っての収録も、機材のトラブルによる中断や、演奏家が乗れずに初めからやり直したりでホールの貸時間が過ぎ、夜のコンサートに来た客が外に並び始めました。音楽に酔いたくても酔えない辛いひとときでした。

 あるいは、ワイセンベルク氏の音楽は「酔う」ためのものではなく、より「さめる」ための音楽かもしれません。「さめる」とは、感性をクリアーにしてくれる、という意味です。

 この人は、凡庸な演奏家が思い入れをこめて歌うところで、むしろ悲しみに似た抑制をもって音楽を確かめ、人が機械的に弾き流すところで、楽しそうに歌をうたう。―知性のプリズムに情熱の光が乱反射しているふしぎな世界。ああ、セクシーな音楽だな、おとなになるってステキなことなんだ、と教えてくれる。―私がワイセンベルク・ファンであるゆえんです。

プロデューサー 石井信平


「私のショパン/アレクシス・ワイセンベルク」

総合演出: 実相寺昭雄
プロデューサー: 石井信平