石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

大相撲から失われたもの

2008-09-21 11:59:50 | 社会
久々に自宅にいる時間が多く、妻とテレビ桟敷で大相撲を見物した。

高見盛への妻の評価は高い。一生懸命なのに、人を「笑わせる」というのは、普通の力士じゃ出来ない、すばらしい天分だというのだ。ウーン、そういう見方もあるか。

協会の新理事長が、何の思いつきか、急に立ち会いの「両手つき徹底」を言い始めたから、何だか力士達が相撲に集中できない。

気合い合わせて「ようやく」立つのが精一杯。始まった相撲は勝負を急ぐあまり、引きワザ、叩き、何だかジタバタした相撲ばかりの印象だ。

「堂々たる、いい相撲」がほとんどない。

腕っ節の強さを振り回す「朝青龍」が天下をとってから、みんながあれのマネをし始めた。何か大事なものが大相撲から失われた。「国際化」の弊害かな?

親方の教育が、チマチマした「生活指導」に明け暮れ、力士の素質をキチンと見抜いていない。

横綱白鵬が最近、しきりに「相撲の流れを大事にしたい」と語る。そして、意表を突かれて自分の「流れ」を見失うと、とんでもないみっともない負け方をする。

大相撲の重大事態とは何か? それは「型の喪失」である。

昭和の名力士たち、羽黒山、東富士、照国、千代の山の横綱たちは、みんな自分の「型」をもって土俵に上がった。

平幕力士でも、信夫山、安念山、大内山、大起・・と名前を呼び上げるだけで、相撲振りの「型」が思い浮かぶ。

大相撲が歌舞伎と並ぶ庶民の娯楽たるゆえんは、そこではなかったか。人はその場に「サーカス」を期待しない。もう少し「上等な時間」だった。

「型の喪失」をテーマに、時代を批評すれば、多くを語れる。

オリンピック柔道のつまらなさも、思えば、柔術の「型」を見失ったからだ。

政治の迷走も又、政治家に「型」がなくなったからだろう。「小泉チルドレン」に、いかなる「型」を期待できるだろう?

それは「大人がいなくなった」という最近顕著な風評にもつながる。

大人がいない時代や社会に、馥郁たる「エロス」が薫りようがないのである。

最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。