石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

くだらない番組しか放送できないなら「死刑」生中継

2010-08-22 11:44:20 | 社会
永田町より「殺人事件」「殺し」好きな国民性


 日本のテレビは「殺人フェチ」である。異常なほど「殺人事件」を報道するのが好きだ。

 霞ヶ関や永田町で、お役人や政治家が国民全体を不幸にする隠し事や立法をしているのに、それを報じる熱意や時間はあまりにもお粗末だ。ところが、田舎で起こった殺人事件にレポーターが現場に張りつき、全国ネットで朝から晩まで放送している。何だか変である。

 番組制作者に思いこみがある。「殺人はニュースとして『一級品』だ。誰もが殺人に興味があり、視聴率を取れる」と。日本人は常に「新鮮な」殺人事件に飢えているのか?

 だったら、グッド企画があるぜ、ベイビー。

 国家による「死刑」の一部始終をナマ中継することさ。新鮮な「殺し」のディテールがリアルタイムで見られる。エッ、死刑ってこんなに酷いの!という見せしめになり、死刑・擁護論者が大好きな「犯罪の抑止効果」にピッタリだ。子供たちには「人が死ぬことの真実と尊厳」の学習になる。しかも法務省と裁判所がオーソライズした、トータルに「合法的」イベントだぜ。


テレビ局員は行動もメンタリティも“お役人”


 オラがこれを言う動機は、「末期的なテレビ状況」に喝!を入れたいからだ。

 挑戦するより、現状維持。面白さより、クレームゼロ。監督官庁、スポンサー、人気タレント事務所などから、文句を言われないこと。これじゃ、「今起こっている遠くの出来事を見せる」という「テレビジョン」本来の価値は今や死んだも同然。何しろ新聞紙面を写して「これがニュース」と平気な神経だ。

 生中継にこそテレビ本来の価値がある。テレビは、ジャズのアドリブのように、予定調和なき「時間だ」と見事に喝破したのは、先日亡くなった村木良彦さんだった。

 萩元晴彦・今野勉さんとの共著『お前はただの現在にすぎない』(田畑書店、1969年)という本はテレビの価値と可能性を追求した名著で、その後、これを乗り越えるテレビ論は誰も書いていない。

彼が仲間とTBSを去り、テレビマンユニオンという独立の番組制作会社を作る時、会社に要求したのは「中継車」だった。TBSはこれに応じず、代わりに向こう5年間の番組制作の「発注保証」をした。「外注・下請け」の構造が問題だが、テレビマンユニオンが、もし、あの時退職金代わりに「中継車」を手に入れていたら、日本のテレビ状況は別なものになっていたかも知れない。

その後、テレビは「東大安田講堂事件」(1969年)、「浅間山荘事件」(1972年)など、数日間も既定の番組枠をぶち抜く緊迫したナマ中継番組を放送した。いま、中継で残っている番組と言えば、マラソンかサッカー? そして「テレビよ、お前はただの現在に過ぎない」という魅力的な呼びかけに応える番組は皆無と言っていい。国民共通の財産たる電波のムダ使いは末期的惨状である。


人々が求めている感動のドキュメント


 今、人々が真に求めている番組は何だろう? それは、ホンモノのドキュメンタリーである。なぜなら、テレビとは元々が「現在という時間」「プロセス全部が大切」なドキュメンタリー・メディアだから。そこで「中継車を刑務所に横付けしてしまえ!」というのがオラの提案だ。

 生カメラが所内に入る。

 その日の夕方、刑務所長から呼び出された死刑囚はこう言われる。

「明朝、君を処刑することにした。ハトヤマ法務大臣が、君を殺すことにとても熱心でね。ま、今夜は、新鮮なスシでも、アツアツのピザでも、君の好きなものをとってあげよう」

この場面からして、最高のドキュメンタリーだ。所長室はちょっとした「お別れ会」となった。 既に心を落ち着かせた死刑囚は、寿司の味をかみしめる。しみじみとした「最後の晩餐」。ズルズルと茶をすする音にさえ、見る者に「生きること」の価値を訴え、胸迫る。

 中継車のディレクターが、本社の上司に電話する。「囚人の顔にモザイクかけますか?」。 インカムを通して本社から怒鳴り声が返ってくる。「バカヤロー! 死刑囚に人権はないんだ。素顔を見せろ」

 その通り! 死刑と判決された瞬間から、囚人に人権なし。面会、文通を徹底的に制限し、毎日毎日死の恐怖にさらして、結局殺してしまう。今さら何がプライバシー、人権か。

 次に、独房に戻った囚人に密着して「朝まで生インタビュー」だ。死刑囚は死の前夜に何を思い、何をするのか。人生の深淵が囚人の口から語られるはずだ。

 以上は、「ドキュメント・処刑」の前編。これが絵空事なのは「明日、誰を処刑する」かは刑務所内部でも極秘であり、刑務官、囚人本人、その家族にも伝えない。かつてあった所長との「最後の晩餐」は今はない。 前夜に知らせて、その夜のうちに自殺した囚人がいたからだ。法務当局は、朝に知らせ、即刻、絞首刑執行。最後の懺悔、自分の独房を整理する暇も与えないスピード処刑が現実だ。


秘密裏の殺人より処刑中継を


 本来、処刑とは公開が原則だった。江戸の小塚原、パリのコンコルド広場など、大群衆の前でとり行われた。何も隠さず、権威ある行事だった。「だった」と言うのは、今の日本国家には人を殺す資格も権威もないのではないか、とオラは疑うからだ。だから、死刑のこととなると、やたらに秘密主義を貫く。

 でも、「スピード処刑」だってテレビで見ようよ。アメリカでは注目を集める死刑囚にはメディアが直接取材し、報道する。

 1995年に起こったオクラホマシティー連邦ビル爆破テロ事件の犯人、ティモシー・マクベイ死刑囚は薬物注射で処刑された。被害者や遺族の多数が見物を要求し、死刑中継が有線によるクローズド放送で流れた。

 「順法精神の徹底」を立て前に、処刑を日本全国に生中継すればメディア史上画期的なことだ。ディレクターは現場から本社の上司に電話する。

「今、ロープを囚人の首に掛けました。刑務官の顔にはモザイクを掛けますか?」

「バカヤロー! 公務員が真面目に公務に励んでるんだ、素顔を写せ!」

「囚人が、出演ギャラを要求していますが・・・」

「わかった。1000万円を、被害者遺族に渡すから安心して死ね、そう言っとけ」

国家による秘密裏の殺人こそ残酷極まりない。するなら見せろ、死刑執行!




月刊宝島2008年4月号掲載(一部オリジナルのまま)





最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。