ツンヅのダラ×2日記だら

社会人8年目に突入した鳥取生まれの埼玉人スポーツマン(??)、ツソヅのブログです。

24歳/30歳

2009-08-30 21:55:52 | Weblog
社会人1年目 水資源開発公団に入った
最後に未公表の事実もあるから見てね
就職試験を受けた本社は東京赤坂のTBSビルのオフィスはさいたま新都心へ移っていた さらにこの年の秋には水資源機構と組織も変わった 仕事の中身は後ほどに
同期は15名いた 3月31日から1週間の研修だ 研修は社会人としての意識や挨拶・電話応対などもした が、同期と飲んで遊んだことが1番有意義だった この場で同期会長になった
さいたま市での研修を終え、それぞれの赴任先へ飛び立つ 関東から九州まで同期が散らばっていく 俺は埼玉県秩父市へ 同期は俺を含め4人も一緒だった(それだけ人が必要だったようだ) 赴任当日、皆でTVのニュースを見ていたら「本日は寒気が流れ込み、秩父では雪が…」なんて言ってる 『なに、4月だぞ』 4人でローカル線に揺られながら、夕方秩父へ到着 雪が降っていた どんな所なんだ、秩父は
仕事場は、ダムの建設現場であった 水資源機構とは、国土交通省の命を受け、水の開発、施設の管理をしており、ダムや水路の現場が北は群馬から南は大分までの大河川沿いにある 当時は秩父の滝沢ダム建設が水資源機構のメイン現場だった 職場は職員が60人位、派遣職員がうん十名、建設作業員は何人いるか分からないくらいいた 滝沢ダムは高さが140m位あり日本のダムの中では大きな方だ 行った時点では半分の高さくらいだった
いきなり歓迎会があった 花見を兼ねた歓迎会だった 覚えていることは春先の秩父の夜は極上に寒かったことだ 新人4人は一発芸をやらされた 乗りのいい職場なのですぐ溶け込んだ(可愛がりを受けた)
所属する課は調査設計課 建設事務所には他に総務、経理、用地、工務、ダム課、道路課など様々だ 調査設計課はダム・道路などのハード面の設計と、環境・地元整備などのソフト面の設計があり、俺は環境の担当だった たった1人しか環境食として採用されなかったから、この滝沢ダムは環境にはうってつけだったようだ ダム現場の緑化対策や、環境調査などをした その中でも1番重要だったのが、猛禽(もうきん)類、そうタカの調査だった ダム現場は山の奥にあるからタカもウロウロしてた オオタカやクマタカは重要種だったから、ダムや道路工事をする際にも慎重にならなければならなかった 環境団体からの圧力がすごいし、新聞報道されれば世間の敵だった クマタカ様が繁殖行動を起こすと、道路工事は止まった 道路課に休止の指示をするのは俺の仕事 後期内にダム事業を完成しなければならないのに、工事を休止する まさに板挟み クマタカ様恐ろし 入って早々、タカのビデオ調査で手を抜いたら、課長に「仕事をなめてんじゃねぇ」と怒られた かなり厳しい上司だったが、大切な教えを貰ったと、今でも心に残ってる
さて仕事の話はこれからも嫌ほど出てくるから、秩父の話を 秩父は社会の教科書に秩父事件とかで出てくる地名で、名前だけは知っているはずだ ただ秩父宮ラグビー場は東京の明治神宮にあり、秩父は関係ない 秩父セメントが有名で、石灰石の産地だ 武甲山という山がすぐあるが、前面は石灰の採取のため、きれいさっぱり削られていた なかなかまれな山の形をしている 東京に流れる荒川の源流があり、滝沢ダムも荒川の源流域に造られている 盆地であり、気候は夏暑く、冬寒い 日本でも色々な所がこう称されるが、秩父は強烈だ 夏はどこも暑いが、冬は市内でも-5~-10℃に平気になる 痛いとは、こういうことだと分かった
東京からは池袋から西武線で1時間30分で来れる 埼玉県だらか東京とのアクセスはまあまあだった 池袋でPM10時前までは飲めた 名物はそば 土壌が肥えてない所はそばしか作れないから、ここも例外ではない うどん好きだったが、そばが好きになったのも秩父のおかげ
私生活だが、建設現場だったので、忙しかった 昼は現場に出たりし、夕方からはデスクワークというのが多かった 大学4年ころからダイエットのため、早朝ランニングをしていて、社会人でも継続 通勤ランにチャレンジ 職場までの2km強をジャージでリックを抱えて通った 職員の評判になった「変な奴だ」 帰りも走った 仕事が深夜になっても走った 市民の評判にまでにはならなかったが、近所の評判にはなった まだまだ24歳は元気であった
野球は職場でもあったが、定期的ではないので、地元のチームに売り込んだ スポーツ用品店のチームに入ったが、秩父の野球リーグは早朝野球だったので、水曜、土曜の朝はキツかった 二日酔いでピッチャーさせられた時は、監督が鬼だと思った
1年目は仕事だけじゃなく、夜でも勉強が多かった 秩父は産業が乏しいが、夜の店だけはしっかりしてた ダム屋さんは転勤族だから、行く先々でやることは飲むことしかない その流れに流された 週に2,3回は確実に飲み 飲み会シーズンや歓迎、送別会シーズンは何連戦という状態だった しかし、秩父は水資源の飲みで潤っており、女の子がいる店ではどんだけ飲んでも3000円だった 3000円で飲みまくり、歌いまくり、閉店時間のAM2時を迎えたら追い出される いつものことだった カラオケに行くと、先輩から脱ぎ剥ぎにあった 拒否ることはできず、やられるままはぎ取られた 事務の女の子が居ようと居まいが関係なかった 「片玉無料サービス」だ ある意味、そういう乗りじゃなければやっていけなかったが楽しかった
車も買った 夏休み、ボーナスももらい、大学からの貯金もあったので買える資金はできた 買う車は『赤のスポーツカー』と以前から決めてた さすがにフェラーリはありえなかったので、国産のスポーツタイプの車を探した そこにマツダ”アテンザ”が目に入った デザイン、機能、内装と全てが完ぺきだった 中古だったが200万円した 茨城まで買いに行って、晴れて納車 夏休みは、家族に見せたいがあまり、11時間をかけ、鳥取に帰省した 普段はランニング通勤で車は乗ることがなく、職員間ではレアな車であったが、まさにレアのまま終わってしまった
ここからは未公表は話 年末年始の休暇の時も車で帰ることに 父さんが出張で京都にいたから京都で合流することに 仕事納めの日、クマタカの仕事をぎりぎりで片付け、いざ京都へ向け、秩父を出発 秩父と山梨をつなぐ雁坂峠は凍っている 気をつけてクリア 甲府から中央道に入り、ひたすら西へ 長野、岐阜、愛知、滋賀を突き抜けていくこと5,6時間 疲れも出てくる 道中、父さんと進行具合を連絡 気分は急ぎ気味に 滋賀県の東名道を走行中 またも その時である 『キキィィィー  ガーーーン』 車は普通に流れていたが、脇見運転が原因で、前の大型トラックにぶつかってしまった 赤のアテンザはヨロヨロと側道へ 前のトラックはそのまま突っ走っていく 『あぁぁ』と思いながら、別の車が前のトラックを止めてくれた 側道へ動かす際は動いていた愛車のエンジンはもう駆からなかった トラックは当たったことすら気付かなかったようだ 結局、警察に事情徴収を受け、車はレッカーされ、俺と共に京都のICへ 父さんがそこまで迎えに来てくれた 俺の愛車を見て、「よく、怪我も何もなかったなぁ」と父さん 確かに無傷だったが、愛車は重症だった 後日、修理工場で修理費を出してもらったら140万円 そう、エンジン回りがいかれてた 愛車を捨てることに 結局、その晩は父さんと京都に戻り反省会 『初の事故がこれで生きてることがラッキーだと思わないと』 人生は何が起きるか分からない 大事に生きよう ※ちなみに今の愛車も赤のアテンザ 翌年買いました

23歳/30歳

2009-08-28 23:42:54 | Weblog
大学4年 就職活動まっしぐら 友人の多くは大学院への進学を選んだが、早く社会に出たかったから、迷うことなく就活
この時、バイトも忙しかった 3年の途中からコンビニバイト 九州にしか出店していない”デブリワン”ではなく”エブリワン”というデイリー系列のコンビニ レジがメインだったが、手作りパンや手作り弁当・総菜を売っており、パンを袋に詰めたりするのは新鮮だった 食パンを切ったりもした ソフトクリームは必要以上に巻いては店長に怒られた 夕方5時~夜9時という短いシフトで女子高生と一緒にレジをしたが、夜9時以降もバイトが足りず、おっさんと深夜1時まで、果ては朝の5時まで働くことも 店長ともかなりやりあったが、4年の途中まで頑張った 安時給の割に月10万円を稼ぐこともあった ”エブリワン”の焼きたてパンは美味しいよ
野球サークル”ナイナーズ”も最終年 4年になったらキャプテン&ピッチャーに ピッチャー経験は小学校の頃、少しあっただけだが、コントロールはそこそこ良かった 相方のキャッチャーには同級生の”ミスター中俣” ミスターは鹿児島のれいめい高校出身の”よかにせ”(鹿児島弁でいい男) ミスターとはミスターダイエーの略(生粋のダイエー好きだ) ミスターは肩を痛め、キャッチャーでは致命傷の弱肩ではあったが、ハートが強く思いっきり投げれた U哉がレフトに村がセンターに付き、2つ下の元気のいい後輩たちが従うナイナーズは最高に楽しかった 守備でランナー2塁の時、センターの村がコソコソと2塁ベースに牽制に入ってくることも あまりにも常識外れの行動に牽制暴投を投げたもんだ 決して強くなかったが、他のチームと比べ雰囲気は1番だった(今やナイナーズも廃部というのは先輩たちも悲しんでるだら)
さて、就活の話 志望のジャンルは「環境系」 小さい頃から地球環境問題が1番気になっていた 自らエコ生活をしていたのもこのため この時代、世間は平成大不況だった 就職の内定率は過去最低など言われてた時代 就活も思わしくなかった リクナビで色んな会社に登録しては説明会から1次試験を受けた 何社か進んだが、途中で落選 そんなことが続いた ジャンルを広げた 鳥取に帰ったら業種が少なくトヨタのディーラーにも出かけた さらに大好きな”山パン”の山崎パンにもエントリーした パンへの熱意は無視された 5月になり2社最終選考までこぎつけた 1社は東広島市にあるハウスクリーニングのような会社 もう1社は東京にある建設コンサルタント 東広島には5回以上通った が、最終で落選 そして建設コンサルタントは…
2002年6月 日本でビッグイベントが そう日韓Wカップサッカー 大学4年で研究室に入ったが、時間の使い方は割と自由だった もうサッカー一色 皆でTV観戦をしては酒を飲んだ 1日3試合ブッツケで見た日はさすがに疲れた
日本代表の試合はとにかく燃えた 1998年フランスWカップは3戦全敗だったし、地元開催で予選敗退なんて許されない 皆でユニフォームを買い、燃えた 初戦ベルギー戦 俺の中では1番印象的な試合だった気がする ベルギーに先制され、やばいムードに ここでFW鈴木(アントラーズ→ゲンク)がルーズボールに思いっきり足を伸ばしボールはキーパーの脇をコロコロと転がりゴールへ 抱き合って喜ぶ そしてMF稲本(ガンバ)が勝ち越し弾 結局2-2の引き分けだったが、大興奮の試合だった 2試合目はロシアに1-0で、3試合目はチュニジアに2-0で勝ち、見事決勝トーナメントへ
さて、こんなWカップ一色の俺らだったが、俺だけ就活もあった ↑先の東京のコンサルの試験で東京へ 俺は狙った 何をって? 会社じゃない、Wカップ観戦である さいたま市が試合会場となっていた Wカップチケットは即売り切れで、チケットはない だが、試合の雰囲気を感じたく、就職試験が終わり、スーツのまま急いで埼玉スタジアム2002へ向かった 会場周辺は外国人も多く、Wカップ一色 この日はカメルーンvsサウジアラビアだった 会場に着くも、チケットがないので外で試合前の雰囲気を感じてた そこへオジサンが声をかけてきた 「チケット買う?」 なぬぅ~こんな奇跡が オジサンは同僚と来る予定が、相方が都合が悪くなり1人で来た 「ネットで3万円で買ったから、3万円でどうだ」とオッサンは言う チケットの定価は1万円 学生には高い 「2万円」と俺 『ハンマープライス』 2万円を渡し、スタジアムへ駈け込む キックオフから数分経過していたが問題ない そのオッサンと一緒に観戦 結局、最弱のサウジが余計に頑張り1-0のカメルーンの辛勝 この大会で数本に入るボン戦であったが貴重な体験をした そしてオッサンと上野で一緒に飲んで別れた 「ありがと、おっさん」 寺で野宿した
さて日本は決勝トーナメントに ここで運命を分けることに 試合当日は就活の日であった 受ける会社は水資源開発公団(現:水資源機構) この日はまだ1次試験であった 先の東京のコンサルは最終面接まで行っており、手ごたえもあり結果待ち サッカー観戦が大事 俺は水資源を捨て、日本代表を取ろうとしてた だが、U哉とかが「受けに行けよ」と言う 日本代表の方が大事だったが、渋々、試験を受けに久留米へ 試験は大学生には簡単だった(気持は代表) 試験が終わり、ダッシュで電気店へ 後半40分、日本はトルコに0-1で負けていた 『あ、あ』雨の中、日本代表は散った 大会はフランスの敗退や韓国のベスト4、ベッカムのソフトモヒカン(箱が真似てた)、ロナウドの大五郎カットなどあり、ブラジルの優勝だった
いよいよ就活も大詰め 結局、東京のコンサルは落選 あわや辞退していた水資源には九大OBの権力もあったか? 何十分の1の確率で環境職として水資源に合格した コンビニのバイト中に連絡あったが、嬉しかった これで晴れて社会人になれる
夏から秋にかけ地惑の男女問わず遊んでた まさに青春 山笠やプールに行ったり島に行ったり あっという間に過ぎていった 秋も深まり、サッカー合宿やマラソン合宿という若手が興ざめするようなこともしてた 友人の松本君と箱崎君がここで登場 彼らはワンダーフォーゲル部(山登り)であり、大学の初めの方はあまり縁がなかったが、泥臭い所が引き付け合ったようだ いつしか野球、サッカー、飲み 仲良しこよしになった 合宿は北九州にある松の旧実家でやった 夜は食べて飲んだ そして昼は動いた よくやったもんだ 松は色々気が効く奴で、観察力がある サッカー大会とかに出るたびに地惑スポーツと題した記事を書いては楽しませてくれた 選手のプロフィールや夢など 俺は『ヤンパパ』と書いたが、夢実現できず そんな松だが恋愛も よく彼・彼女の双方の話を聞いたもんだ 俺は板挟み状態 (シークレットにしよう)
マラソン合宿とは後で書くが、みんなでマラソンに出るために開いた 他の友人は現地集合だったが、俺は九大のある福岡市東区から北九州市近くの遠賀川の河川敷まで給水なしに30km以上、40km走った 4年になってから早朝ランニング5kmを続けてて、この合宿で自信がついた
この自信が付く前には、箱を誘い、修行へ出かけた 11月の下旬、箱根へ行った 目的は言うまでもないが、箱根駅伝のコースを走ってみようと 箱根の選手でもないが、衝動に駆られた 箱も人がよく、こんな俺に付いてきた、折りたたみチャリを抱え
初日 箱根駅伝の花の2区である川崎市鶴見中継所~横浜市戸塚中継所の23kmを走った コース案内などないが、すべてインプットしており、国道15号や権太坂を気持ち良く走った 箱は特に感動しなかったらしい そりゃ、ただの国道だから仕方ない 夜は厚木市の箱のおばちゃんちに泊まった お世話になりまくりだ
2日目 小田原に向かった 山の5区である 小田原中継所~箱根芦ノ湖の21km これはキツカッタ これは駅伝のコースではない 上り坂は足が止まるほどだった 走ってこんなのだから、チャリなんて、どうしようもない 箱は俺の荷物と自分の荷物を抱え、這うように上がってきた 箱根登山鉄道の踏切や大平台のヘアピンカーブ、小涌園前、国道1号の最高点、箱根神社を通り、見事ゴール 素晴らしい感動だった 初日は無感動だった箱も感動してくれた
年が明け、卒業論文に追われた 仕事に役立つと思い、生物の研究室に入った 訳の分からない、細菌を育てては成分を取り出し、化学式を書いた とりあえず、最低限のことはして、卒業に向かった
ここからは卒業旅行 【ちょっと、書くのに疲れてきた 4年は思い出も多いから もうひと踏ん張り】
2月後半、北海道へ 村とクライフェルト メンツは強力だ 目的は北海道1周+α まずはニセコでスキーをした クライフェルトがこけてはスキーの板と大格闘していたのは死ぬほど笑えた その後、特急フリー切符を使い、最北端の稚内へ 極寒の2月、トランクスいっちょで宗谷岬でポーズ また電車で東方へ旭川を経由し、網走へ 網走刑務所で警察を襲うシーンでポーズ 流氷にも乗った 凍てつく北海道の大地 ゲームとして道中滑ってこけたやつが次の飯を奢ることに 村とクライフェルトのコントは見ていられなかった 屈斜路湖では1周を試みるが、鈍足のクライフェルトが足を引っ張りまくった 奴の荷物を担いでやったが、みるみる後退 何とかバスに乗り込み、電車へ もう弾丸だ 釧路によって海鮮を食い、十勝では豚丼を 札幌を通り過ぎ、函館へ 関門海峡をくぐった そう、次の狙いは北東北1周だ 本当、都合よく特急切符があり、青森、秋田と バスケの強豪、能代高校にも意味もなく潜入 八郎潟も見て、秋田新幹線に乗り込んだ 東北の新幹線はヘボく、特急程度だ 田沢湖も見た 盛岡に付き、ジャジャ麺か何かを食った 色んなところに行くだけ行って札幌に戻った 全6日 みなタフだ 最終日、何と飛行機乗り放題のチケットをゲットしていた また無意味に新潟へ寄った 滞在3時間 そして福岡へ サイコーの旅だった
帰ってきて1週間もたたないうちに、卒業旅行第2弾 沖縄へマラソン旅行へ マラソンサイトでヨロンマラソンを知った マラソンは42.195km いつか走りたいと思っていたのでいい機会 さらに、駅伝の部門があった 5人で42.195kmを走る そこで地惑仲間を誘い、出場 博多から沖縄空港へ そして船で与論島 与論島は沖縄ではなく、鹿児島の最南端だ 季節風が吹き荒れ、船は揺れに揺れた 調子の良かった村は船に酔いすぎて、血を吐いた 船酔いで死ぬかぁ 与論島についた 静かな島だった 民宿に行くとおばあちゃんが出てきた 黒糖がおいしかった 前夜祭もあった控えた
レースを迎えた マラソンと駅伝は同時スタート 同級生に負けるわけにいかなかった 強風が吹き山のアップダウンが多いコースだったが、1区の松に先行し、仲間にリードされることなく、走りきった 3時間20分で17位?だった そして俺から10分遅れで仲間の駅伝チームがゴール 何と駅伝の部で3位 『こんなのあり』俺を押しのけ、表彰台へ みんなの嬉しそうな顔が忘れない 誘ってよかったと思った さて俺は未だに7,8年前の初マラソンのこの記録を破れていない こんなハードなコースの記録が破れないのは 年のせいではないし、練習不足でもない、前夜に飲みすぎることか あの頃はペアリングをしていたからモチベーションが上がり、力も沸いた この力は嘘をつかない、と思う日々だ マラソンの後は沖縄で観光や食べ歩きで楽しんだ 2回も卒業旅行に付き合ってくれて感謝
卒業式 3月下旬のほんとギリで行うもんだ あまり記憶がないが、就職するのでみんなと別れた
家族も最後の九州だと思い、福岡や湯布院に行った
村と暴食対決を繰り返した 第1弾 モスバーガー対決(マックではない) 7-6で俺のTKO勝ち 第2弾 ミスド 村にハンデ×1.5 12-7で俺のKO勝ち 食べることでは負けない自信があった 哀れな村
3月30日 翌日は入社式 東京へ発つ日 朝、すずと会う これが最後と思うと寂しかった すずは仕事もあったが来てくれた ファミレスでご飯を食べて別れた
昼、地惑の仲間が俺の出発に駆けつけてくれた 松、箱、U、村、クライ、ノディ 皆で最後にサッカーをした(細おっさんはいなかった) そして空港に 何とナイナーズの後輩たちが駆けつけてくれた 何と先輩思いのやつらだ 胴上げをしてくれた 派手すぎる 俺は一般人だぞ でも涙が出そうだった
幸せな大学4年が過ぎていった 大学の仲間は1番の仲間である

22歳/30歳

2009-08-28 00:58:45 | Weblog
30歳の誕生日に間に合わなかったけど、続きをどうぞ
大学3年 1番楽しい時であった
野球サークル”ナイナーズ”では先輩と後輩に恵まれて、野球だけでなくサークルコンパでも楽しく過ごした 福岡は物価が安く3000円で飲み食い放題だった カラオケでは脱ぐことを覚えた 窓ガラスが曇るほどだった 地惑の同級生のU哉と村がナイナーズに入部した 野球をしたくなったようで、U哉はまだしも、村の野球をおちょくったようなプレーはブーイングの嵐だった 人生で最後になるかもしれないホームランも打てた ホームランは打つ時の感触が違う、て感じた 俺は左打ち、右手で引っ張ることも大事だが、左手で押し込む もうこんな感触はないかも
地惑の鈍獣である”おっさん”を紹介 細石おっさんはその名の通り、おっさんであって2浪の苦労人だ でも苦労とは程遠い生活で、のんびり気ままな奴だ 同級生の中では数少ない車の所有者で、深夜、おっさんのパジェロミニでドライブに出かけた そんなに行きたい所があったわけではないが、夜みんなで話していることが楽しかった この年だったか?しし座流星群ブームだった 篠栗の山の方に行っては盛り上がった 呼子にイカ食べ行ったり、とにかくおっさんを都合よく使った まあ、おっさんも楽しそうだったから良しとしよう
バイトが充実 今までは派遣とかの肉体労働が多かった が、頭を使うことに 家庭教師のトライを始めた 超変わった教え子がいた チャリで10kmくらい離れた南区まで通った 普通、家庭教師を頼む家はそこそこ裕福なはずだ だが違った 初めて行った日、家もボロッてしてた 出迎えは良かったが、食事を出された 貧乏学生には賄いは嬉しい が、出てきたカレーは冷たかった 「冷たいカレーを出すか?」食べきったが、次からは「食べてきた」などと嘘を言って、カレーを引きつけないようにした 生徒は高校1年生で大柄だがおとなしい子だった さらにいじめられっ子で、自律神経失調症で気分にムラがあった でも人間は良い奴だし、勉強も聞いてくれた 行く日によっては、いじめられて帰ってきたようで、勉強は手につかず、話をするだけの日もあった 俺が大学4年になって忙しくなったから家庭教師は辞めたが、温かい家庭であった カレーが冷たかっただけ 元気にしてるかな
接客のバイトもやった アサヒビール園のホール係をした ジンギスカンとビールの食べ飲み放題の店で、繁盛してた ここでビールジョッキ片手7本持ちとか覚えた 酔っ払った客を相手にすることも楽しかった 食事もバイト仲間で客が残した料理を食ったりした さすがにビールは飲まなかった 女の子のバイトも多くて、気になった子がいた 何と、中国人だった 中国美人である 思い切って食事に誘った ゲッツ それからデートをし始めた ここではチャイと呼ぼう チャイは留学生だったから日本語がうまかった 俺は大学で中国語を勉強したが中国語を使う必要はなかった デートをして日本との違いを 事実かは分からないが、中国では男がオゴルようである ファミレスに行くことが多かったが、だいたい払った気がする チャイは俺を気に入ったらしく、「中国に行こう」とか言い始めた 『おい、俺を婿にする気か』 さすがにには乗らなかった
ここからはブーイングしてほしくないが、違う子が好きになった 俺はよっぽどじゃないと好きな人ができないが、好きな子ができた 同じビアガーデンの店員の子である ”すず”と呼ぼう(知る人ぞ知る) 同い年でさっぱりした性格が好きだった チャイとは自然と別れてしまった チャイも元気にしているだろうか すずとはよく飲みに行った お互いお好み焼きが好きで大半はお好み焼きを食べに行った お互いマウンテンバイクで市内を動きまくった そんな関係であったが、ビール園の経営が悪くなり、バイトが切られることになった ビール園への通勤も遠いし、勉強も忙しくなってきたので、自ら手を挙げてビール園をやめた これですずとの縁が切れるわけでなかったので気にしなかった
同級生とはよく旅行をした 旅行というよりかは旅が多かった 1番多いのはU哉と村とクライフェルトか U哉と村については前回とかに書いたから、クライフェルトを紹介 クライフェルトは外国人でなく、普通の日本人である(フツーかどうかは怪しいが) 名前が倉光だからオランダサッカー選手のクライフェルトを名付けた サッカーは超インサイドキックしかできない運動音痴だったが、俺らとの付き合いで旨くなった 性格がよく、みんなのマスコット的な存在だ 初めて外国に行ったのもクライフェルトとのプサン旅行だった
3年の春休みではU哉とクライフェルトと3人で四国一周電車の旅をした 青春18切符の普通電車旅行 俺らの旅は行き当たりばったりだ
1日目 福岡から岡山を経由して徳島の鳴門まで行けた 3月と言っても朝晩は寒い 宿がなく鳴門駅の駅舎で寝ることに クライフェルトは賢く新聞紙を大量に持ってきており、クルクル巻きにして寝てた 俺とU哉はあまりの寒さに寝れず、朝までコンビニで立ち呼んだ
2日目 鳴門の渦潮や徳島の大歩危小歩危の絶景を見て、高知駅に着いた 桂浜を見て、カツオを食べた 1日目寝れなかったので、高知駅近くのホテルに 最初で最後の暖かい眠りだった
3日目 高知を経ち四万十川を車窓から見て進んだ 四国一周はJRで回れるはずだったが1駅区間だけ”くろしお電鉄”という第3セクターが営業してた ホームで料金を請求されたが、「ここで乗ってきた」としらを切った 窪川という駅で一休み 地元のお店に行ったら、賞味期限切れのお菓子とかが半額で売られてた ありえなかった 夕方、松山に着いた U哉が旅行誌で調べていた10円寿司のお店に行った 指サイズの寿司だが10円という値段が魅力 俺は旨かったが、U哉はゴキブリがいたことに引いたらしい そんなこと気にするな
クライフェルトの伝説が起きた 道中、電車の乗り継ぎに階段を使わず、ホームに飛び降り、近道をすることがあった ある駅でまた決行 その時、クライフェルトが消えた ジャンプもせず、踏み外したのか、線路に落ちた 俺たちはビビったが、クライフェルトは平気だった ただ眼鏡が折れたのが奴の魔力だ
夜は今治のしまなみ海道の自転車ターミナルに行った 目的は明日、しまなみ海道を自転車で渡ることだ ただ、ターミナルに着くのが遅く、チェックインできず、この旅2度目の野宿 鳴門とは違い、コンビニもなく、ひたすら寒さに耐えた クライフェルトも新聞紙は無力だったようだ
4日目 かなりの疲労感があったが、自転車で横断することに 四国側の景色はサイコーだった ただ島が多く、海を渡るたびに通行料を請求された 無人のところはスルーした 伯方の塩ソフトとか名物もあり楽しく進んだ やっと広島に入った 広島に進むにつて、景色が乏しくなり疲れもありテンションが下がった が尾道で尾道ラーメンが食べれる、と思い頑張った 尾道でチャリを乗り捨てた しまなみ海道を渡る人は尾道→今治をお勧め 景色が良い方がいいもん 尾道ラーメンは普通だったが、替え玉が自由だったのでOKとした 博多への帰りの電車は暖かく、ひたすら寝ただら おバカな3人だ
帰った週末にマラソンデビューを飾った 久留米で開かれた久留米菜の花マラソンに出場 ひょんな所から出場しようと思ったが、ハーフマラソンでもめちゃくちゃキツかった
こんな大学3年だっただら

30歳

2009-08-28 00:50:49 | Weblog
になりました あっという間です 0歳~29歳のブログを更新中だけど、有意義な人生を歩んでいるつもりです 何より健康で体が丈夫なことに感謝 親に感謝 出会った友人に感謝
30歳って、ただ生まれてから30年経った、というだけだ 10歳サバ読んで、20歳になったつもりでヤングに生きたい これからも人生を楽しんでいきたい 楽しむために頑張りたい
みんなヨロシクだら

21歳/30歳

2009-08-27 02:31:04 | Weblog
大学2年 九大のキャンパスは主に2つあった 1年から2年の前期にかけては一般教養が中央区六本松キャンパスにて、2年後期から3年は専門教養が東区箱崎キャンパスであった 六本松と箱崎は7,8kmは離れており、天神や中州を横切っていくことになる 2年の春には箱崎に引っ越しした
箱崎はうるさかった 何がって、飛行機 福岡空港は全国的に珍しいほど、空港と市内が近かった 地下鉄で2駅だ アパートの真上を数分おきに飛行機が離発着していった ハッキリ言ってTVは聞こえない
野球もしていたが、サッカーも負けずにした 同期の村上君とサッカーサークルに殴りこんだ 村はサッカー部出身だから、俺たちの同期では1番うまい 村とは良く練習したもんだ また食材の買い物にも良く出かけてはお互いの腕を磨いた 村の味噌汁というか豚汁は旨かった 九大の食堂で募集されたオリジナル料理の投稿企画で、村のオムレッツゴーが採用された 俺も料理というか健康思考だったから、自炊をしては煮物、煮魚、焼き魚、いろいろ作った 勉強になったのは、ひじきの煮物 ひじきって海草だが、よく食べるひじきの料理は当然、煮なければならない しかし、作ったことがなかった俺はスーパーで生のひじきを買ってきた 見た目は煮るも生も一緒に見えた 煮ることなく食べた 何も味がなかった とりあえず、醤油をかけた 結局、まずくて食べれなかった 母さんに聞いて納得 もう、こんな愚かなことはしないだら
この頃は、誰かのうちに集まっては、タコ焼きパーティーをしたり、ウイニングイレブンをしたりして夜を過ごした 深夜、歌い放題飲み放題で1000円のカラオケ屋にもしょっちゅう行ってた 経済的に賢い遊びをしていた
生活にも慣れてきたので、バイトを本格的に始めた 1年の時のダイエーのグッズ販売は不定期だったので、派遣バイトに登録した 最初に行ったのは明太子屋の製造工場 「稚加栄」←(ちかえい)という福岡の老舗 商品の配送の準備だった
その後はアイス工場で荷詰め 甘木市まで行ってた ひたすらカルピスソーダのアイスを詰めていた 長期休みの時は引っ越しや集荷場での荷降ろしをした 引っ越しは移動時間があって熊本まで行ったりした時は楽だったが、集荷場での荷降ろしは深夜まで及び、人生の中でもトップクラスのきつい体験だった

勉強もサークルもバイトも充実した生活であったが、寂しい出来事が 友人の大野君が亡くなった 1年の時から公私とも仲良かったのだが、海の事故で亡くなった 行方不明になる前日まで会っていたのだが、あっという間だった 京都からお母さんが来られた 色々話した 話せば話すほど悲しくなった お母さんはそれ以上だった 社会人になってから京都の実家を訪れた 長男を亡くした寂しさは消えることはないだろうが、俺と会ったら、少しは嬉しそうにしてくれた

1年に引き続き、帰省ネタ 正月休み 猿岩石ブームは高校の頃だったが、密かにヒッチハイクというのに憧れをもっていた そして決行 『福岡~鳥取をヒッチハイクで帰れるか』何かTOKIOの企画のようだ
1日目 福岡市内の国道3号線で開始 最初は指を立てるのが恥ずかしかった しかし車が止まらないから、本気になった 30分後、出勤途中のコンビに拾ってもらった 1度通り過ぎたがバックして戻ってきてくれた 初のヒッチハイク成功 テンション 北九州市の八幡区まで送ってくれた 次はおばちゃんカー 関門トンネルの入り口まで送ってくれた しかし、関門トンネルを通る車がなかなか通らない 寒い中は萎えるが、やっとトラックに乗せてもらった 山口県の下松市くらいまで乗せてもらった もう昼の3時位 「鳥取まで1日で帰るには高速しかない」 紙に”鳥取”と書く 国道2号線で車が捕まる 何とアメリカ人の旦那と日本人の奥さんが乗っていた 両方、日本語をしゃべるから楽しい時間が過ぎた アメリカ人らしくパイをくれた だが、一向に高速に乗る雰囲気はなく、のんびりと広島を目指すらしかった 俺はここで今日中の帰省は諦めた 夜に広島に着いた 1番長く乗せてもらった夫婦に感謝 夜はお好み焼き村に行き、ファミレスで1晩過ごした
2日目 体が痛くて、早く外に出た 市内から1時間位歩き、山陽道のIC近くに着いた ここでビジネスマンの車に乗せてもらう 鳥取に行くことはないが福山まで乗せてもらう サービスエリアで準備 倉吉に行けたら最高だが、そんな車はないだろうと思い、岡山北部の”高梁”と”鳥取”と書く ヤン車が止まった 「高梁は知らんけど、鳥取なら行くよ」 超ラッキー 車内で兄ちゃんと話すと、何と倉吉出身で福岡から倉吉に帰る途中だった 日本人も捨てたもんではなく、こんな風にやさしく乗せてくれる人がいる もう会うこともない人たちだが、一生忘れることがない、思い出だった またいつものことだが、家族や友人には笑われただら

20歳/30歳

2009-08-26 01:49:27 | Weblog
九州大学に入学 1年遅れのデビュー ブログの中で同級生のことも紹介していこう
入学前の春休み、両親と車で福岡に行った 初の一人暮らしでありアパートを探した フツーの1Kタイプで3万円ちょっと 家財道具を買ったりした 両親と博多ラーメンを食べに 本場はどんなトンコツかとワクワクしながら 店に入る前からトンコツ臭かった 初めての臭いだ 母さんはその時点でダメだった 3人で注文するが、スープが臭くて飲めない かろうじて麺だけ食べた(父さんも) 結局、母さんは一口も食べずに店を出た これぞ博多ラーメン 衝撃だった
九州大学の理学部地球惑星科学科(通称:地惑)に入学 なぜ? 「高校時代から環境問題に関心があって、環境を守ることがしたかったから」 理学部は数学化や物理学科などあるが、地球惑星科学は全国的にも珍しい 名前の通り、地球の中や惑星のことを勉強する(天気や地質、地震、生物などなど) と言っても、それは大学後半であって、1年の頃は数学や物理、外国語、体育もあった 同級生は40人くらいいたかな 理学部にしては女の子が多くて3:2位で男が少し多いって感じ
初めて同級生と会い、誰が印象的だったとかは覚えていないが、女の子は可愛い子が多くて、男はおしゃれな奴やマニアックな奴がいるな、とりあえず鳥取にはない雰囲気でキャンパスライフに心を弾ませた
1年生の頃は、留年しないよう授業は出て、単位は取るようにした 親に世話になるのは遠慮したかったので、バイトも考えたが、まずは勉強を優先することに
野球サークルに入った 小学4年~高校3年まで9年間野球三昧だったが、野球部ではなく、気軽な野球サークルに入った 校内に色んなサークルの案内や勧誘もあったが、「ナイナーズ」のスカウトマンが俺に目をつけ勧誘してくれた 感じの良さそうな先輩であったので入ることにした 同じ1年生は5人位いた 入って間もない頃、球場で紅白戦をした まだユニフォームもなくジャージだった そこでエースピッチャーからホームランを打ってしまった 福岡には軟式野球専用のグラウンドが多く、また狭い 両翼は80m位か それでも人生初のスタンドインだった まさに衝撃のデビュー 俺は大した新人ではなかったが先輩たちはビックリしてた それでも上級生が多かったからベンチで試合を見ることが多かった
大学と言えば、合コンである 九州大学は福岡市内にあり、その六本松キャンパスの近くには西南大学というのがあった そこは栄養や看護などの課があり、要は女の子が多かった 地惑の仲間にやり手がいて、すぐ合コンを企画してくれた 初の合コンは緊張した 飲むのも普通だったし、場を盛り上げたりすることも未経験だった 仲間が上手くしてくれ楽しめた でも2次会のカラオケでは太刀打ちできず、眠ったフリをして過ごした 『しょーもないやっちゃのぉ』心の叫び 好印象を与えるわけでもなかったが、可愛い子がいたので友達づてで告白したが、敢え無く撃沈 滑り出し好調だ
最初に仲が良くなったのは大野君 彼も俺と同じ浪人で入学した 京都の東山高校出身でイケメンのナイスガイだ ↑の合コンも彼の誘いだった 裕福な家庭で彼は歯医者を目指していたが地惑にきた 同じくアパート暮らしだが、買い物がリッチだった スーパーに行っても値引き商品は買わずに旨そうな物を買ってた 彼と一緒に食べる時は旨いものが食えた 野球好きだったからキャッチボールをしたり一緒にバッティングセンターにも行った 入ったサークルは運悪く違ってた
同じく浪人だったU哉(藤山君)とも気が知れた アパートが近かったので遊びに行ってはゲームをしたり酒を飲んだ 1年の後半くらいには福岡ドームのグッズ販売のバイトを一緒にした お互いなかなかのおサボりさんだった 1年の時かは忘れたが、ジュディマリのファイナルコンサートが福岡ドームであった時は、本当にサボって裏で聞いてた
夏になって、鳥取に帰省した 目的は自動車免許でもあった 福岡~鳥取の移動は金がかかった 夜行バスが1番安かったが、それでも9000円/片道 学生にとっては痛い出費だ ここで思い付いた チャリで帰ったら安いのでは 決行した マイチャリもあったが、考えた 『絶対、きついはず 鳥取に帰ることはできるだろうけど、福岡に帰る気は起きないだろう』 そこでダイエーに行き、地下の駐輪所へ 「あった、あった」別に盗難に行ったわけではない パンクしてて乗り捨てられてたチャリをゲット 1000円でパンクを修理してもらう
いざ出発 真夏の暑い日だった 3段変速の普通のチャリだが飛ばした 国道3号線は福岡市内を過ぎたら、歩道も狭くアップダウンもあった 臆せず飛ばす 北九州市内を過ぎたのは昼3時頃だった 門司へ進むがアップダウンがきつくなる 関門トンネルはチャリ10円だった(取るかよ) 下関につき、夕方になる 日本海側を北上しようとするが、道を間違えロスタイム 軌道に乗るが夜で真っ暗 日本海側の国道9号線を行くが、何もない 夜9時、ガス欠になりヒッチハイクでチャリごと乗せてもらい、長門市駅まで連れてってもらう アポなしで駅前のベンチで野宿 夏だから問題ない
2日目 早朝よりこぎはじめる 日本海の景色は良かった ただ思った以上にアップダウンが多かった 当時の日記には色々書いたが、1日こぎまくって島根県大田市へ ここでもバス停に野宿 高速バスで9000円かかるのに対し、どれだけ安く帰れるか、ってこともあり食パンやカップラーメンで過ごした そうそう野宿していたら、警察官に起こされたし、朝起きたらチャリのかごに乾パンが入っていたりした
3日目 この日のうちに実家に帰ることを決意 飛ばすがバテル 島根県東部に来ると平野が多くなった 松江で食べたチョコレートパフェがご褒美 鳥取県に入る 夕方5時位 実家まで20kmを切った位で、気持ちが切れた 母さんに電話し、迎えに来てもらった 結局、チャリはそこの駅で乗り捨てた 総額7000円位だっただろうか、体への代償はあったが、高速バスより安く帰れた 家族や高校の仲間はあきれていた 久々帰ったうちでは、飯が旨かった 3日間で400km以上チャリで漕いでて、体重も58kg位まで激減してた かぼちゃの煮つけが旨くて食いまくった 結局、教習所に行ってた3,4週間は運動不足に陥り、太ることに 高速道路のなかった鳥取県ではシミュレーションの高速教習がなかったが、無事、免許をゲッツ
8月には20日になり、1月には無事、成人式を迎えた 酒も意外と飲め、楽しいキャンパスライフのスタートとなった

19歳/30歳

2009-08-25 01:32:51 | Weblog
浪人です 予備校にはいかなかった 何と倉吉東高には専攻科という浪人生を受け入れるクラスがあった 校舎は現役生と一緒で先生も一緒に制服も学生服 要は高校4年生を多くの同級生と過ごした 野球しかしなかった3年だったから新鮮な1年だった もちろん受験勉強にも励まないといけないがそれ以上にサッカーに励んだ 浪人の仲間と昼や夕方、サッカーをしまくった さすがに先生もキレたけど、野球にはない楽しさにますますハマった
1998年はスポーツイヤーだった 長野オリンピックでは原田雅彦に感動した 俺は現役の受験に失敗したのは、勉強せずにオリンピックを見まくったからだ、と親に言われる始末だった 清水宏保、里谷多英、全て見まくった 『ふ、ふ、船木ぃ』
夏は松坂大輔 横浜高校とPL学園の準々決勝はすごかった て言っても、テストで見てなかったが、昼過ぎに家に帰ったのだが、まだ第2試合が始まったばっかりで、第1試合の横浜vsPL学園で何があったんだ、て感じだった
さらにフランスW杯 日本が初出場 アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3連敗 だが前年のアジア最終予選から出場を決めたジョホールバルの歓喜まで一喜一憂した 韓国との試合は正座して祈って見たもんだ でも1番印象なのは、俺の神であるキング・カズ、三浦知良が直前で代表から外れたこと あまりのショックで涙が出た
秋になり、浪人生でサッカーの大会に出た ますますサッカーは上手くなった 町の大会だったが、勝ち進み、準決勝で現役を引退したばかりの高校サッカーチームと当たった 喧嘩腰だったが勝ってしまった 俺たちもサッカー部OBがいたが、とにかくサッカーバカだった
そんな浪人生活だったけど、いよいよ受験を迎えた 現役時代は2次試験が全くダメだったから、2次試験重視で行った まずセンター試験 何と前年の600点を下回る580点台 出だしから大きく躓いた 九州大学か名古屋大学を志望していたが、担任と相談し挽回が効く九州大学を受けることに 滑り止めで立命館に受かった 後期は広島大?だったかな、忘れちまった
特急で米子から岡山に出て、新幹線で博多へ 500系のぞみに乗れることがうれしかった 初の九州に上陸ったい 博多駅のホテルに宿泊してテストへ 何も記憶に残ってないが、そこそこ手ごたえはあった
そして合格発表を迎えた 現地で確認するわけにはいかず、郵送による通知を待った 昼の2時すぎ そろそろと思ってたところに浪人の友人で一緒に九大を受けた友達から電話が 『合格、おめでとー』 何と自分で確認する前に、知らされてしまった 去年は投げつけた郵便を大事に開封 受験番号が書かれていた
ということで、浪人生活を遊びほうけたが無事、卒業

お待たせしました、次回から九州大学編だら

18歳/30歳

2009-08-23 15:12:24 | Weblog
3年生 高校野球の集大成を迎える 体はでかくなった 168cm,65kg(←2年165cm,60kg←1年161cm,53kg)※ちなみに今は171cm,63kg 冬のトレーニングで飛躍的に打球の飛距離が上がった でも短距離ヒッター
レギュラー争いはセカンドだけだった 俺とレギュラー同級生の一騎打ち 春は中部地区のリーグ戦から始まる 中部では倉吉北にも負けず、中部一だった
春の県大会(甲子園には関係ないが、夏の大会のシードをかける) 初戦はまた八頭高 これは因縁の対決だ 控えだったが出番を待つ 接戦をものにし、去年の先輩のリベンジを果たす 2回戦は米子高専、格下だ ここで初のスタメンが回ってきた 2番セカンド 3打数2安打1打点1失策 5,6回の守備機会をそこそこ裁いた 見事コールド勝ち 準々決勝は米子東高、伝統校 延長戦で敗れた 夏のシード権は獲得できず
打撃は絶好調 4月~6月初旬にかけては、出ればヒット1本は必ず打ってた チームの中で打率は1番 監督から「送球さえよければレギュラーだな」 送球難だった
鳥取県には鳥取城北高に能見というスーパーピッチャーがいた 能見とは、そう今阪神のエースである 当時は全国の三羽ガラスとして平安の川口(全国準優勝)、水戸商の井川(現メジャー)、そして鳥取城北の能見 140km/hの速球 当時は140km/hのピッチャーなんて数人しかいなかったはずだが、まさか鳥取に 練習試合で能見と対決 超ドン詰まりのピッチャーゴロ レベルが違う いい思い出だ うちの4番は腕にデッドボールをくらい、骨折した 恐ろし
5月、遠征に行った 兵庫の村野工高校(甲子園にも出場経験がある) ただ試合をするだけではなかった ホームステイをした 試合の後、選手の家にお泊り みんな市内の家だったが、俺ともう1人が一緒に向かった先は、何と淡路島 その選手だけ淡路島出身で、小型船で行った 飯は新鮮なイカをごちそうになった チームTシャツを交換した
6月、最後の遠征に出かけた 今度は香川の高松北 1試合目はレギュラーで接戦 2試合目はメンバーが入れ替わり、俺も出場 乱戦になった 監督にもブチ切れられ、集合写真を見ると、みんなブスっとしてた この頃から打撃不振になった レギュラーが遠のく
夏の大会前になり、練習後はいつも校歌を歌った 鳥取大会は毎試合、校歌を歌える(他県とは違う) 恒例だが2年生が1日1人ずつ歌を歌う 先輩へのメッセージである 俺も2年の時歌った 良い習慣だ
夏の大会を控え、地元紙に登録選手が掲載される レギュラーではなかったが、新聞ではレギュラーとして掲載された(まだメンバー発表はされていないが) 親とか中学校の野球仲間は喜んでくれた でも俺は知っていた ライバルがレギュラーになるだろうと 役割は9番セカンド 7月のの練習試合でライバルはしっかり進塁打を打った 打撃不振の俺は、進塁打すら打てなくなった ここで決着した やはりメンバー発表では控えで背番号11だった 急な出番に向け、1球1打に集中し、1塁コーチャーの仕事を全うする
抽選会があり、たまたま2回戦からの出番 相手は1回戦に勝った由良育英高(現:鳥取中央育英高) 同じ中部で、中学時代の仲間のほとんどが由良育英に行った 試合は相手のエラーもあり、圧勝した
大会は東部の鳥取市だった この年は雨が多く、試合が2日ぐらい順延となった 練習で調整もしたが、泊まりがけで行っていて時間があったので鳥取砂丘に行った この時が初めてだった そしていよいよ準々決勝 相手はまたまた八頭高 春の大会では勝ったが、夏こそ勝って本当に去年のリベンジを果たさなければならない
後日の大会回顧で1番の名勝負だと言われた試合だった 2年前の優勝校の倉吉東と、前年の優勝校の八頭高の延長10回の死闘だった
八 頭0002000032 7
倉吉東0001000400 5
地元の八頭高を応援する観衆の中、あと一歩で負けた 八頭高の監督は「相手の気迫に負けた ただうちの控え選手の一打に救われた」と語った 気迫では勝ったが 運に見放された 俺は出番がなく、最後のバッターが目の前でヘッドスライディングをし、涙を流すそいつの方を抱えて、試合後のあいさつをした 八頭高の効果は今でも耳に残っている 涙は流れなかった これが最後の試合だった、という感覚は全くなかった 結局、能見のいる鳥取城北高もあっさり負け、八頭高が2年連続の甲子園に出場 試合後、最後のミーティングをした 何も耳に入らなかった そして3年生が監督と握手 この時、涙が流れた 泣くのは小学6年の最後の大会に負けて以来だった うちの足場監督は本当に甲子園に行ける年だった、と言ってた 本当に良いメンバーに恵まれた エースとは1番仲良かった 今でも盆と正月には皆が集まる こんなに仲の良い世代は珍しい 球友だ
夏休みは海に行った 何年ぶりの何もない夏休みのことか 球友の家に泊まりに行ったし、夜は夜通し世界陸上を見てた 織田雄二も暑かった このテレビ観戦で目が悪くなりだした

秋になり、進学校だったのでほぼ皆が大学受験に向け、猛勉強 夏休み、野球部以外は大山に勉強合宿に行くくらいの力の入れよう 俺も勉強 一応、学年では10~20位にはいた とりあえずセンター試験の勉強をひたすらした そしてセンター試験 この年は平均点がここ数年で一番低かった そんな中、600点を取った かなりの高得点だった しかし、2次試験の勉強は一切しておらず、センター試験後に始めた 志望校は前期:広島大、後期:静岡大 見事に粉砕 滑り止めの私立大は受験しておらず、浪人決定 それでも無事、高校卒業 野球部も卒業 卒業おめでとー

17歳/30歳

2009-08-20 01:42:10 | Weblog
高校2年生 冬のトレーニングの効果もあって165cm,60kgと1年(161cm,53kg)から成長 1年で7kgも太った よく食べた 毎日チャリで5km以上登りを帰った後、飯は残り物を含め全て平らげ、ご飯は2,3杯 その後、菓子パン 最後に素振り 筋トレ+タンパク質 デカくなるわけだ
2年になっても3年生の層は厚かった なんせ甲子園レギュラーメンバーが5人も残り、3年生だけで19人もいるから、2年生がベンチに入ることすら難しかった 甲子園に出場すると、練習試合の相手も変わった 兵庫の育英高校と練習試合をした 春の県大会も準優勝し、夏のシード権を獲得 2年連続の甲子園も現実味を帯びてきた 夏の大会前には最後の仕上げということで県外遠征に行く ここでの試合が大会へのステップとなる この遠征も相手に恵まれた 奈良の郡山高校 甲子園の常連である 1勝1敗で内容もよし ムードも最高だ
さあ、夏の大会 鳥取大会は1球場で行い、鳥取市、米子市、倉吉市を3年間でローテーション この年は地元倉吉市営球場だった シードだったので、2回戦からの登場 相手は2年前の甲子園出場校の八頭高 難敵であったが問題視していなかった スタンドから応援、観衆も倉吉東の応援   しかし、試合は… 相手の2年生エース、2年生4番にコテンパンにやられ、まさかまさかの0-10の7回コールド負け こんなのってあり 選手も応援団も訳の分からないまま、あっという間の夏が終わってしまった 結局、勢いに乗った八頭高が優勝
去年はノーマークだったのに優勝し今年は優勝候補筆頭だったのに初戦負け 高校野球はドラマ、と言われるわけだ
長い夏の練習が始まった 去年は甲子園だったから、練習期間が短くて楽だったが、この夏は長い 連日の個人ノックにダッシュ もう来年は夏の練習なんてないから思い残すことなくやった
秋の県大会 背番号は12でセカンドの控え兼1塁コーチャー 春のセンバツにつながる大事な大会 チームの力はある だが初戦の鳥取東との乱打戦で敗れ、あっけなく夢は夢に 長い冬の練習が始まった 1年の時には引っ張れなかったタイヤも引ける レギュラーになるにはこの冬に伸びるしかない 自称、1番練習した
倉吉東校野球部は野球の技術も大事だが、心を大事にする 監督が『和の心』とよく言った 上級生が日替わりで野球部日誌を書くわけだが、そこでも『和の心』を学んだ

16歳/30歳

2009-08-17 21:23:07 | Weblog
高校入学=野球部入部 ハッキリ言ってこれからの3年は野球の記憶しかない だって野球以外何もやってないんだもん
倉吉東高野球部は数年後100周年を迎える伝統高である 鳥取県の野球は古豪の鳥取西高、米子東高が有名 この他、昭和50年代に良い意味にも悪い意味にも甲子園で”山陰の暴れん坊”と言われた倉吉北高 八頭高、米子商高(現米子松陰)、境高そして初出場で快進撃を起こした倉吉東 これ位が野球の強豪校であった
通学は自転車5km、汽車(鳥取では電車とは言わない)30分、また自転車3kmの片道1時間 毎日チャリだった
野球部に入った 161cm,53kgひ弱な体格だった 1年生は13人(別に2人退部)にマネージャー4人 2,3年生を加えたら50人を超える県内では大所帯 マネージャーは1学年1名しか取らないのがルールらしいが、4人とも熱意があって皆入部 かわいいマネージャーが4人もいて先輩もウハウハであった 監督は足羽監督 昭和63年のミラクルを起こした時の青年監督である 当時30代でバリバリであった
しかし、1年生への風当たりは強い 野球部はもちろん坊主 さらに野球部だけ学帽をかぶる 坊主を隠すためではないだろうが シューズ、ソックスは白 まるで東伯中の時と一緒だ こっからが強烈 野球部の後輩は校内で先輩や監督、部長を見つけたら大きな声で挨拶をしなければならない 「見つけたら」との表現には意味がある 「出会ったら」ではない 要は遥か遠くに先輩が見えたら、先輩が気付いていなくても挨拶をする という訳で校内には野球部の『おはようございます』、『こんにちは』というのが1日中するわけだ 入部して1ヵ月は早朝に通学してグラウンドの隣の河川敷で声出し 2年生の先輩が鬼軍曹となる(ちなみにすべての話、暴力は一切ない) 昼休みになると、呼び出され”指導”という文字通りの説教が始まる ”指導”は夕方の練習が終わった後も行われた ビビった同僚は泣いていた この”指導”は伝統なのだろう 野球部員としての在り方を受け継ぐために行われていた ということで2年になったら鬼軍曹となるわけだが(嘘)
文武両道の学校であったから、全体練習は6時か7時には終わっていた 特に守備を重視するチームであり、攻撃はつなぎを重視するためバント練習が多かった 部のモットーは”素直に謙虚に常に挑戦者たれ”素晴らしい
1年生は基礎トレーニングやキャッチボールがメインだったが、やがてバッティング練習時の守備にも付けるようになった サードを希望していたのでサードに付いた バッティング練習の打球が強烈だった 2箇所バッティングマシンをセットするが、マウンドから1塁寄りにストレート、3塁寄りにカーブをセットするのが大体 そうすると緩いカーブを皆がホームランを狙い引っ張りまくる つまりサードに火を噴く打球が常に飛んでくる 何回涙が出ただろうか イレギュラーして目や股間に当てること数回 硬式球は石と一緒 これは死んでしまう 目が悪くなった一因である気がする ともあれガッツだけはあったし、サードはガッツなので1年時はひたすら気合いでいった
6月になると合宿がある 校内の宿泊施設に1週間泊まり込み、朝練や夜練を繰り返した 最後の追い込みである しかし1年にとってキツイのは練習だけではなかった 飯だ 食事はもちろんボリューム満点 先輩も食べる 後輩も食べる しかし残る それを全て食べるのが1年生の仕事 ハッキリ言って合宿では太った
これも伝統なのか?この時期をもってジュース禁止令が出る 夏の大会まで、飲み物は水、お茶、牛乳 これしか飲んではダメという 飲むヨーグルトもダメだった これは連帯感 意識の問題である 結局3年間、この夏場のジュース禁止令は守った この時期は学園祭があるが、野球部はカヤの外 みんなが楽しそうにダンスを踊っている横目にバットを握っていた
いよいよ夏の大会を迎える 鳥取大会は参加校が25,6高の全国最小の最弱小県 だが甲子園に出場するには4,5回勝たなければならない 当時の3年生は、東伯中で3年時に全中に行った世代である しかし、選手は分散してしまい、倉吉東高はノーシードのノーマークであった 俺はもちろんスタンドからの応援 ヘボい応援団と普通の吹奏楽部は無視して頑張って応援した この年は波乱の年だった シード校が次々に負け、優勝は全く読めなくなった エースは170cm80kg位の巨漢 ついでにキャッチャーも巨漢 迫力は満点だった エースは130km/hは出るが、チーム優先で120km/hで打たせて取るピッチングに専念 とられても1イニング1点という投球を続けた 打線も長打はないがつなぐ打線でしぶとく得点 大勝はなく接戦をものにして決勝までいった 相手は根雨高 お互い初出場をかけての決勝戦 終止試合を優位に進め、5-1で見事、夏の甲子園初出場を決めた 倉吉野球部の悲願が達成された 偉大な先輩たちである
甲子園出場が決まると、取材やら寄付金やら色々あった ベンチメンバーでない俺らにもネーム刺しゅう入りのバッグやスパイク入れ、カロリーメート等々くれた メンバーはマイバットを手にしていた 甲子園に出るというのはすごいことである
鳥取から甲子園は片道4時間程度 応援はバスで当日もしくは前夜行く まずは開会式を見に行く 試合は大会3日目だった 甲子園は中学校3年の時に見に行ったが野球部として行くのは、別世界 開幕戦を観戦し、また鳥取へ メンバーはずっと現地に泊まり込み
そして試合を迎える 第1試合 朝の試合だ 前夜、3000人の応援団と鳥取を出発 1塁アルプス 正面から朝日を浴びる 暑い 相手は秋田県代表の金足(かなあし)農高 相手は強かった
金足農 0 1 2 1 3 2 0 0 2 11
倉吉東 0 1 0 1 0 2 0 0 0 4
取りつ取られつの展開だったが、相手が力強かった 金足農高は結局ベスト8に進出 帰り際、相手の保護者が『秋田の決勝より楽だった』 そりゃ、そーですよ
当時のメンバーは3年生がピッチャー、キャッチャー、サード、レフトのみで残る5ポディションは皆2年生 若いチームだったので次の年が期待できた
新チームになった 甲子園に出たので、夏の練習期間は短かった 2年の先輩達は夏の練習期間が短くて”楽だ楽だ”と言っていた 確かに、夏の練習はキツカッタ 脱水症状で倒れる奴もいた
春のセンバツにつながる秋の大会に負けた 1年生だけの新人大会というのがあり、ここで初めて公式戦に出場 いい記憶である
冬の練習 これが1番キツカッタ 夏は暑さに耐えればどうにかなった しかし冬は違った 走り込みから筋トレまでひ弱な俺にはキツカッタ 鳥取は冬になると雪とかでグラウンドでボールを使う練習はない タイヤ引き これはトラックタイヤを引いて走るのだが、走れない 這うようにしてこなしていった 股関節やらこんな所まで筋肉痛になるのか、と思うようなトレーニングばっかし お陰で冬明けにはパワーが付いたのだが
というわけで高校野球1年目はあっという間に過ぎていっただら