社会人1年目 水資源開発公団に入った
最後に未公表の事実もあるから見てね
就職試験を受けた本社は東京赤坂のTBSビルのオフィスはさいたま新都心へ移っていた さらにこの年の秋には水資源機構と組織も変わった 仕事の中身は後ほどに
同期は15名いた 3月31日から1週間の研修だ 研修は社会人としての意識や挨拶・電話応対などもした が、同期と飲んで遊んだことが1番有意義だった この場で同期会長になった
さいたま市での研修を終え、それぞれの赴任先へ飛び立つ 関東から九州まで同期が散らばっていく 俺は埼玉県秩父市へ 同期は俺を含め4人も一緒だった(それだけ人が必要だったようだ) 赴任当日、皆でTVのニュースを見ていたら「本日は寒気が流れ込み、秩父では雪が…」なんて言ってる 『なに、4月だぞ』 4人でローカル線に揺られながら、夕方秩父へ到着 雪が降っていた どんな所なんだ、秩父は
仕事場は、ダムの建設現場であった 水資源機構とは、国土交通省の命を受け、水の開発、施設の管理をしており、ダムや水路の現場が北は群馬から南は大分までの大河川沿いにある 当時は秩父の滝沢ダム建設が水資源機構のメイン現場だった 職場は職員が60人位、派遣職員がうん十名、建設作業員は何人いるか分からないくらいいた 滝沢ダムは高さが140m位あり日本のダムの中では大きな方だ 行った時点では半分の高さくらいだった
いきなり歓迎会があった 花見を兼ねた歓迎会だった 覚えていることは春先の秩父の夜は極上に寒かったことだ 新人4人は一発芸をやらされた 乗りのいい職場なのですぐ溶け込んだ(可愛がりを受けた)
所属する課は調査設計課 建設事務所には他に総務、経理、用地、工務、ダム課、道路課など様々だ 調査設計課はダム・道路などのハード面の設計と、環境・地元整備などのソフト面の設計があり、俺は環境の担当だった たった1人しか環境食として採用されなかったから、この滝沢ダムは環境にはうってつけだったようだ ダム現場の緑化対策や、環境調査などをした その中でも1番重要だったのが、猛禽(もうきん)類、そうタカの調査だった ダム現場は山の奥にあるからタカもウロウロしてた オオタカやクマタカは重要種だったから、ダムや道路工事をする際にも慎重にならなければならなかった 環境団体からの圧力がすごいし、新聞報道されれば世間の敵だった クマタカ様が繁殖行動を起こすと、道路工事は止まった 道路課に休止の指示をするのは俺の仕事 後期内にダム事業を完成しなければならないのに、工事を休止する まさに板挟み クマタカ様恐ろし 入って早々、タカのビデオ調査で手を抜いたら、課長に「仕事をなめてんじゃねぇ」と怒られた かなり厳しい上司だったが、大切な教えを貰ったと、今でも心に残ってる
さて仕事の話はこれからも嫌ほど出てくるから、秩父の話を 秩父は社会の教科書に秩父事件とかで出てくる地名で、名前だけは知っているはずだ ただ秩父宮ラグビー場は東京の明治神宮にあり、秩父は関係ない 秩父セメントが有名で、石灰石の産地だ 武甲山という山がすぐあるが、前面は石灰の採取のため、きれいさっぱり削られていた なかなかまれな山の形をしている 東京に流れる荒川の源流があり、滝沢ダムも荒川の源流域に造られている 盆地であり、気候は夏暑く、冬寒い 日本でも色々な所がこう称されるが、秩父は強烈だ 夏はどこも暑いが、冬は市内でも-5~-10℃に平気になる 痛いとは、こういうことだと分かった
東京からは池袋から西武線で1時間30分で来れる 埼玉県だらか東京とのアクセスはまあまあだった 池袋でPM10時前までは飲めた 名物はそば 土壌が肥えてない所はそばしか作れないから、ここも例外ではない うどん好きだったが、そばが好きになったのも秩父のおかげ
私生活だが、建設現場だったので、忙しかった 昼は現場に出たりし、夕方からはデスクワークというのが多かった 大学4年ころからダイエットのため、早朝ランニングをしていて、社会人でも継続 通勤ランにチャレンジ 職場までの2km強をジャージでリックを抱えて通った 職員の評判になった「変な奴だ」 帰りも走った 仕事が深夜になっても走った 市民の評判にまでにはならなかったが、近所の評判にはなった まだまだ24歳は元気であった
野球は職場でもあったが、定期的ではないので、地元のチームに売り込んだ スポーツ用品店のチームに入ったが、秩父の野球リーグは早朝野球だったので、水曜、土曜の朝はキツかった 二日酔いでピッチャーさせられた時は、監督が鬼だと思った
1年目は仕事だけじゃなく、夜でも勉強が多かった 秩父は産業が乏しいが、夜の店だけはしっかりしてた ダム屋さんは転勤族だから、行く先々でやることは飲むことしかない その流れに流された 週に2,3回は確実に飲み 飲み会シーズンや歓迎、送別会シーズンは何連戦という状態だった しかし、秩父は水資源の飲みで潤っており、女の子がいる店ではどんだけ飲んでも3000円だった 3000円で飲みまくり、歌いまくり、閉店時間のAM2時を迎えたら追い出される いつものことだった カラオケに行くと、先輩から脱ぎ剥ぎにあった 拒否ることはできず、やられるままはぎ取られた 事務の女の子が居ようと居まいが関係なかった 「片玉無料サービス」だ ある意味、そういう乗りじゃなければやっていけなかったが楽しかった
車も買った 夏休み、ボーナスももらい、大学からの貯金もあったので買える資金はできた 買う車は『赤のスポーツカー』と以前から決めてた さすがにフェラーリはありえなかったので、国産のスポーツタイプの車を探した そこにマツダ”アテンザ”が目に入った デザイン、機能、内装と全てが完ぺきだった 中古だったが200万円した 茨城まで買いに行って、晴れて納車 夏休みは、家族に見せたいがあまり、11時間をかけ、鳥取に帰省した 普段はランニング通勤で車は乗ることがなく、職員間ではレアな車であったが、まさにレアのまま終わってしまった
ここからは未公表は話 年末年始の休暇の時も車で帰ることに 父さんが出張で京都にいたから京都で合流することに 仕事納めの日、クマタカの仕事をぎりぎりで片付け、いざ京都へ向け、秩父を出発 秩父と山梨をつなぐ雁坂峠は凍っている 気をつけてクリア 甲府から中央道に入り、ひたすら西へ 長野、岐阜、愛知、滋賀を突き抜けていくこと5,6時間 疲れも出てくる 道中、父さんと進行具合を連絡 気分は急ぎ気味に 滋賀県の東名道を走行中 またも その時である 『キキィィィー ガーーーン』 車は普通に流れていたが、脇見運転が原因で、前の大型トラックにぶつかってしまった 赤のアテンザはヨロヨロと側道へ 前のトラックはそのまま突っ走っていく 『あぁぁ』と思いながら、別の車が前のトラックを止めてくれた 側道へ動かす際は動いていた愛車のエンジンはもう駆からなかった トラックは当たったことすら気付かなかったようだ 結局、警察に事情徴収を受け、車はレッカーされ、俺と共に京都のICへ 父さんがそこまで迎えに来てくれた 俺の愛車を見て、「よく、怪我も何もなかったなぁ」と父さん 確かに無傷だったが、愛車は重症だった 後日、修理工場で修理費を出してもらったら140万円 そう、エンジン回りがいかれてた 愛車を捨てることに 結局、その晩は父さんと京都に戻り反省会 『初の事故がこれで生きてることがラッキーだと思わないと』 人生は何が起きるか分からない 大事に生きよう ※ちなみに今の愛車も赤のアテンザ 翌年買いました
最後に未公表の事実もあるから見てね
就職試験を受けた本社は東京赤坂のTBSビルのオフィスはさいたま新都心へ移っていた さらにこの年の秋には水資源機構と組織も変わった 仕事の中身は後ほどに
同期は15名いた 3月31日から1週間の研修だ 研修は社会人としての意識や挨拶・電話応対などもした が、同期と飲んで遊んだことが1番有意義だった この場で同期会長になった
さいたま市での研修を終え、それぞれの赴任先へ飛び立つ 関東から九州まで同期が散らばっていく 俺は埼玉県秩父市へ 同期は俺を含め4人も一緒だった(それだけ人が必要だったようだ) 赴任当日、皆でTVのニュースを見ていたら「本日は寒気が流れ込み、秩父では雪が…」なんて言ってる 『なに、4月だぞ』 4人でローカル線に揺られながら、夕方秩父へ到着 雪が降っていた どんな所なんだ、秩父は
仕事場は、ダムの建設現場であった 水資源機構とは、国土交通省の命を受け、水の開発、施設の管理をしており、ダムや水路の現場が北は群馬から南は大分までの大河川沿いにある 当時は秩父の滝沢ダム建設が水資源機構のメイン現場だった 職場は職員が60人位、派遣職員がうん十名、建設作業員は何人いるか分からないくらいいた 滝沢ダムは高さが140m位あり日本のダムの中では大きな方だ 行った時点では半分の高さくらいだった
いきなり歓迎会があった 花見を兼ねた歓迎会だった 覚えていることは春先の秩父の夜は極上に寒かったことだ 新人4人は一発芸をやらされた 乗りのいい職場なのですぐ溶け込んだ(可愛がりを受けた)
所属する課は調査設計課 建設事務所には他に総務、経理、用地、工務、ダム課、道路課など様々だ 調査設計課はダム・道路などのハード面の設計と、環境・地元整備などのソフト面の設計があり、俺は環境の担当だった たった1人しか環境食として採用されなかったから、この滝沢ダムは環境にはうってつけだったようだ ダム現場の緑化対策や、環境調査などをした その中でも1番重要だったのが、猛禽(もうきん)類、そうタカの調査だった ダム現場は山の奥にあるからタカもウロウロしてた オオタカやクマタカは重要種だったから、ダムや道路工事をする際にも慎重にならなければならなかった 環境団体からの圧力がすごいし、新聞報道されれば世間の敵だった クマタカ様が繁殖行動を起こすと、道路工事は止まった 道路課に休止の指示をするのは俺の仕事 後期内にダム事業を完成しなければならないのに、工事を休止する まさに板挟み クマタカ様恐ろし 入って早々、タカのビデオ調査で手を抜いたら、課長に「仕事をなめてんじゃねぇ」と怒られた かなり厳しい上司だったが、大切な教えを貰ったと、今でも心に残ってる
さて仕事の話はこれからも嫌ほど出てくるから、秩父の話を 秩父は社会の教科書に秩父事件とかで出てくる地名で、名前だけは知っているはずだ ただ秩父宮ラグビー場は東京の明治神宮にあり、秩父は関係ない 秩父セメントが有名で、石灰石の産地だ 武甲山という山がすぐあるが、前面は石灰の採取のため、きれいさっぱり削られていた なかなかまれな山の形をしている 東京に流れる荒川の源流があり、滝沢ダムも荒川の源流域に造られている 盆地であり、気候は夏暑く、冬寒い 日本でも色々な所がこう称されるが、秩父は強烈だ 夏はどこも暑いが、冬は市内でも-5~-10℃に平気になる 痛いとは、こういうことだと分かった
東京からは池袋から西武線で1時間30分で来れる 埼玉県だらか東京とのアクセスはまあまあだった 池袋でPM10時前までは飲めた 名物はそば 土壌が肥えてない所はそばしか作れないから、ここも例外ではない うどん好きだったが、そばが好きになったのも秩父のおかげ
私生活だが、建設現場だったので、忙しかった 昼は現場に出たりし、夕方からはデスクワークというのが多かった 大学4年ころからダイエットのため、早朝ランニングをしていて、社会人でも継続 通勤ランにチャレンジ 職場までの2km強をジャージでリックを抱えて通った 職員の評判になった「変な奴だ」 帰りも走った 仕事が深夜になっても走った 市民の評判にまでにはならなかったが、近所の評判にはなった まだまだ24歳は元気であった
野球は職場でもあったが、定期的ではないので、地元のチームに売り込んだ スポーツ用品店のチームに入ったが、秩父の野球リーグは早朝野球だったので、水曜、土曜の朝はキツかった 二日酔いでピッチャーさせられた時は、監督が鬼だと思った
1年目は仕事だけじゃなく、夜でも勉強が多かった 秩父は産業が乏しいが、夜の店だけはしっかりしてた ダム屋さんは転勤族だから、行く先々でやることは飲むことしかない その流れに流された 週に2,3回は確実に飲み 飲み会シーズンや歓迎、送別会シーズンは何連戦という状態だった しかし、秩父は水資源の飲みで潤っており、女の子がいる店ではどんだけ飲んでも3000円だった 3000円で飲みまくり、歌いまくり、閉店時間のAM2時を迎えたら追い出される いつものことだった カラオケに行くと、先輩から脱ぎ剥ぎにあった 拒否ることはできず、やられるままはぎ取られた 事務の女の子が居ようと居まいが関係なかった 「片玉無料サービス」だ ある意味、そういう乗りじゃなければやっていけなかったが楽しかった
車も買った 夏休み、ボーナスももらい、大学からの貯金もあったので買える資金はできた 買う車は『赤のスポーツカー』と以前から決めてた さすがにフェラーリはありえなかったので、国産のスポーツタイプの車を探した そこにマツダ”アテンザ”が目に入った デザイン、機能、内装と全てが完ぺきだった 中古だったが200万円した 茨城まで買いに行って、晴れて納車 夏休みは、家族に見せたいがあまり、11時間をかけ、鳥取に帰省した 普段はランニング通勤で車は乗ることがなく、職員間ではレアな車であったが、まさにレアのまま終わってしまった
ここからは未公表は話 年末年始の休暇の時も車で帰ることに 父さんが出張で京都にいたから京都で合流することに 仕事納めの日、クマタカの仕事をぎりぎりで片付け、いざ京都へ向け、秩父を出発 秩父と山梨をつなぐ雁坂峠は凍っている 気をつけてクリア 甲府から中央道に入り、ひたすら西へ 長野、岐阜、愛知、滋賀を突き抜けていくこと5,6時間 疲れも出てくる 道中、父さんと進行具合を連絡 気分は急ぎ気味に 滋賀県の東名道を走行中 またも その時である 『キキィィィー ガーーーン』 車は普通に流れていたが、脇見運転が原因で、前の大型トラックにぶつかってしまった 赤のアテンザはヨロヨロと側道へ 前のトラックはそのまま突っ走っていく 『あぁぁ』と思いながら、別の車が前のトラックを止めてくれた 側道へ動かす際は動いていた愛車のエンジンはもう駆からなかった トラックは当たったことすら気付かなかったようだ 結局、警察に事情徴収を受け、車はレッカーされ、俺と共に京都のICへ 父さんがそこまで迎えに来てくれた 俺の愛車を見て、「よく、怪我も何もなかったなぁ」と父さん 確かに無傷だったが、愛車は重症だった 後日、修理工場で修理費を出してもらったら140万円 そう、エンジン回りがいかれてた 愛車を捨てることに 結局、その晩は父さんと京都に戻り反省会 『初の事故がこれで生きてることがラッキーだと思わないと』 人生は何が起きるか分からない 大事に生きよう ※ちなみに今の愛車も赤のアテンザ 翌年買いました