Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

居場所

2006年08月20日 23時53分41秒 | キリスト教
今日の教会学校のテキストは、ルカ福音書14章15節以下の「大宴会の
たとえ」でした。

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で
食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは
言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴
会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意が
できましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。
最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼
させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったの
で、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と
言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は
怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて
来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしました
が、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て
行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者
は一人もいない。』」 (新共同訳)


この箇所は通常、自分の都合を優先して神の招きに応えない者への
警告として読まれるのではないでしょうか。神の愛は無条件ですが、
受け取らなければそれまで。恵みは他の人に与えられてしまいます。
しかし今日の学びでは、最後に招き入れられた「通りや小道」の人々
に焦点が当てられました。
これまで私は、「道行く人」のことだと思い込んで読み流していました
が、実はここで言われているのは、「広場や路地」にいる「貧しい人、
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」よりももっと
下層にいる、住居も持たずに垣根の辺りにたむろして物乞いする人々
や、町に住むことを許されず城壁の外に寝泊りする人々のことなのだ
そうです。社会から排除され、居場所のない人たちだったのです。
そのような人たちを神様は、強引に招き入れる、と聖書は語るのです。

「衣食足りて礼節を知る」と言います。今日では、豊か過ぎることで
却って心が貧しくなることのほうが問題とされますが、生きることに
精一杯で余裕がない人に信仰が持てるか、伝道して意味があるのか、
という疑問は常にあります。
しかしそれが、彼らを退ける理由にはならないのです。むしろ居場所
の無い人々に新しい居場所を、神の家族という関係性を与えるのが
神様の願い=「御心」です。

彼らは初めから招かれていたわけではありません。彼らは「相応しく
なかった」のでしょうか? そうではありません。
よく「選民思想」と言いますが、イスラエルのそれは元々は「全世界
の祝福の基」としての選びです。イスラエルを通して、世界中の人々
が祝福される。イスラエルは、自分たちだけが恵まれるのではなく、
人々に恵みを分かつために用いられる存在であったのです。
このたとえ話で初めに招かれていた人たちにも、それが期待されて
いたはずです。ところが彼らは、その役目を拒否します。神様からの
恵みを自分たちの所有物と勘違いし、神様への感謝も、互いに分ち
合うことも忘れたがために、彼らは大いなる祝福を失うのです。

選別と排除の論理で成り立つ閉ざされた関係性は、神の御心とは
正反対のものです。排除された人たちだけでなく、排除した人たち、
閉ざされた関係の中にいる人たちもまた、本来あるべき関係を喪失
した、本当の意味での居場所を持たない人たちかも知れませんね。
だから福音は、全ての人に宣べ伝えられなければなりません。
信仰の足りない私は、ため息をつきそうになりますが・・・。
いや、それ以前に、まずわが身を振り返って、神様と隣人との関係
を築き直さなければ。

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