神原ワールド稽古場日誌

神原ワールドが繰りひろげる劇の世界・公演のお知らせ・稽古場の模様を皆様にお届けします♡

妖怪、再び

2015-08-28 16:42:03 | 日記
 役者も妖怪みたいなものなのかね。まだ、とてもそんな領域にまで達してはいないですが・・・。

 今回の福井旅公演「鈴涼と森涼(りりすともりす)」でも、次回のウイングフィールド公演作品でも、妖・もののけが関わっちゃっているようです。

 自分たちの暮らしはどこから来ているのか。自分たちが「生かされている」という意識すらない今の我々にそれを考える余裕はあるのかしら。「怖いけれどばけものは見てみたい」という衝動は、「今の自分を見つめるのは怖いけどやっぱり気になる」というのに似ていませんか?私には「ばけもの」=「自分の姿」に思えてならないのです。だから、それを見たいという衝動は至極自然で普通のことだと思うのです。でも皆さん「あんなもんよう見るわ(ホラーとかのこと)」と相手にしてくれません。
 私は、緊張感(テンション)を高めたくて怖いものを見ることもありますが、どこか懐かしいもの恋しさに見ることもあるのです。これはあまり理解してもらえないかもしれませんが、私にとっての「ばけもの」とはそういった身近なものなのです。

 神様とは人の言うことを聞き届けてくれるものとは限りません。益を為せば神、祟れば化け物。人間が勝手なのです。「それ」を勝手に神にしたり、化け物にしたり。それはもしかしたら、変化(へんげ)した自分か、自分の人生そのものかも知れないのに。ふとそんなことを思いながら、涼風に吹かれる秋の夕暮れ時です。

 今度の日曜日は終日稽古。吹田の浜屋敷です。

☆9月13日(日)18:00~福井自由舞台アトリエ(福井市)  
 神社探偵清神シリーズ第11話「鈴涼と森涼」                      

☆11月7日(土)・8日(日)心斎橋ウィングフィールド 「妖怪通りのうりこ姫」                  

                        
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らしい、ということ

2015-08-17 16:51:46 | 日記
 「私らしい人生」「自分らしく生きる」などと使う「らしい」という接尾語。私も使いますが、「自分」に対しては使いません。というより使えないのです。自分について「らしく」っておこがましくないですかね?自分の特質は他者が決めることで、自分ではわからないことの方が多いと感じます。その自分が、さも自分を知っているかのように言うこの「らしく」は、私は気持ちが悪くてなりません(><)
 「自分らしくある」という言い方は、もっと具体的な言葉で表現できることを、少しぼかしてはいませんか?「君らしい」「彼らしい」は他者同士が確認することなのでよいのですが、「自分らしい」「私らしく」と言われると、それは本当に自覚して言ってるのかなと思ってしまいます。そんなに君は自分がわかるのか?

 我々は自分を知るために日々苦労をしています。他者なくして自分はうかがい知れないのではないかと思うのですが・・・如何でしょうか?「私らしく」「自分らしく」という表現に、独りよがりな感覚、他者との希薄な関係を連想するのは私の勝手な思い込みなのでしょうか。日々、自分がわからず苦しんでいる者のひねくれたものの見方なのでしょうか。私は自分がわからない。だから困っている。だけどだから面白い。もし自分で自分がわかったなら(理解できたなら)、その時、私は芝居をやめるでしょうね。わかっているものを探究して掘り下げても面白くないもんね。・・・私は私がわからない。だから一生かけて観察するのです。「らしく」なんて、それこそ・・・らしくない。

な~んてね
   

                             
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妖怪

2015-08-10 16:34:42 | 日記
 妖かし。ばけもの。変化(へんげ)。人間でもかなりクセのある者を「妖怪」なんて言ったりします。昔は、妙なことはすべてばけもののせいにしていました。私は「妖怪ウォッチ」を知りません。でも妖怪にこれだけ関心が集まったのは、「ゲゲゲの鬼太郎」以来かも知れません。不思議なことは妖怪のせいにする。余裕のある時代ですね。追求して白黒ハッキリさせなくても、「ひょっとしたら、妖かしの類かも」で終わっていた時代。曖昧さ、不思議さが生活の中にあってもよい世界。そういったものを許容できる世の中って素敵ですね。私は好きです。

 今回の劇団 浮狼舎旅公演「鈴涼(リリス)と森涼(モリス)」(作・神原くみ子 福井県福井自由舞台アトリエにて9月13日(日)18:00~)もばけものが闊歩します。この旅公演は毎回、妖怪がらみの事件に巻き込まれた人たちが、神社の神主の助けを得て、ばけものの謎を解いたり、戦ったりといったお話をシリーズ化しております。妖怪なんていて当然の世界。事件は困りますが、いいじゃないですか妖怪。「うしおととら」で東の長が言うてましたよね、「ばけものの住めない世界には人間も住めない」って。いるんだよなぁ、そこここに。そう考えると楽しいですね。今、稽古場には妖怪がいます。面白いですよ(^^)

 映画「ばけものの子」行こうかな・・・。

                       
                    
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怪談

2015-08-04 16:44:06 | 日記
 あれはもう30年ほど前になりますか。京都にある母校の大学で演劇部の新作(自作)の秋公演の準備をしていた時のことでした。大道具の階段を作製するため、一晩だけ大学の学生会館に泊まり込んでおりました。夏の、ちょうど今頃でした。三階建ての細長い会館には学生の姿も少なく、二階に映研の部員が僅かにいるだけで、ほとんど無人の状態でした。狭い階段を三階まで上りつめ、廊下のどん突きの左側に我らが演劇部の部室がありました(一階は小ホール、二階と三階に各九部屋ずつ部室が入っていました)。廊下の突きあたりには小窓がひとつ。部室は西日の入る角部屋でした。

 作業は夕方から始めて、あっという間に夜になりました。深夜ラジオを聞きながらなぐりを振っていると、真夜中を過ぎた頃でしたか、誰かが廊下を歩いてきます。階段からこちらに向かって。誰だろう?スリッパか何か、摺るような足音です。映研の人かな?と思って気にしていると、足音は演劇部のドアの前でぴたっと止まりました。「なんだよ、入って来いよ。」仕方なくドアを開けてみますと・・・。そこには、誰もおりません。向かいの部屋に入ったのかな?と見てみましたが、他の部屋はみんな外から鍵がかかっておりました。廊下はどん詰まりです。袋小路。 私はゾッとして、慌てて二階の映研の部室へ走って行きました。「どうしたん?」1年先輩の彼は眠そうに聞きます。「で、出た。」「あぁ、やっぱりなぁ。軽音のKさんなんか着物の子供に『あそぼ』て言われたらしいで。」「ゲロゲロ!」 京都は町中でもこの手の話はよくありまして、いちいち気にしてはおれんのです。ひとしきり喋った私は仕方なく部室に戻り、朝まで階段を作り続けました。言うまでもなく、ラジオは大音量で鳴りっぱなしでした。
 
 ・・・あれは草履だったのかな? ずいぶん昔のお話です。
                                          
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