脳腫瘍の家族の交流の場 生命のメロディ 

そよかぜと申します。脳腫瘍を患ってみえるご本人を支え介護する家族のみなさんの交流が広がればと思っております。

家族としてできることは 何ができるのか  サポーターのブログから学ぶ

2008-10-21 21:45:21 | 看護・介護
 これが一番だという確信を持って取り組みをされることもあろうが試行錯誤
の取り組みをされることも多いと思う。
「二人三脚 脳腫瘍の夫とともに闘った日々 わかばさん」から「脳腫瘍に負け
ないぞ 真実一路さん」までがご本人を支えるご家族のブログ(サイト)です。
旦那氏をサポートされる奥様のそれが多いが、奥様を支える旦那氏のそれもある。
脳腫瘍を患うご本人の不安、苦悩は言うまでもありませんが、ご本人を支え、看
護・介護する家族のそれもまた違う意味で不安や苦悩は深いと思います。このブ
ログの出発点もここにあります。キーパーソンになられた方はどうしても自分だ
けで抱え込んだりしてしまいがちです。家族としていったい何ができるのか、
示唆に富んだ内容が多い。病が死に繋がる病だけに家族としての悩み・悲しみ
は深い。ご本人を前にして気丈に振舞おうとして、かえって言葉に詰まったり、
どうした言葉かけが良いのか?自然が一番だと思うのですが、でもこの普段ど
おり、自然な振る舞いやコミュニケーションというのがこれまた一番難しい。
脳腫瘍のご本人をドクターは医師の観点から診られ、看護師さんもその立場か
ら看られる。でもご本人との関わりからいっても、ご本人の一番の理解者はな
んと言っても家族である。時として決断を迫られる事もある。オペのことや治
療法の選択、病状について今後のこと、ドクターとどう関わっていったらよい
のか、看護や介護をどうしていったらよいのか、一つ一つのハードルを一つ一
つクリアーされていく様子、壁にぶち当たっても、すこしでも進んでいかなく
てはならない現実。どうかお一人で抱え込まずに、お気持ちを吐露できる方に
はお話をされ、焦らず、慌てず、ゆっくりとご本人を見守ってあげてください。
同じ悩みや不安を持たれている方はたくさんおみえです。一歩一歩進んでまい
りましょう。サポートされる方々が疲れてしまっては大変です。さぁ、深呼吸
をして、明日の一歩を踏み出しましょう。

20 コメント

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いつもありがとうございます (たけちゃん)
2008-10-26 00:05:37
ネットの力を感じます。家族にとって、いろんなことは、初めておきたり、いろいろです。また、言いたくても言えないこともあります。そうしたとき、ネットでのつながりで情報を得たり、励ましたり、はげまされたりすることがあります。そよ風さんのコメントにいつも助けられています。
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私の独り言 (boo)
2008-10-26 01:10:59
娘もいつ時間が止まるか分からない状態にようです。でも一緒にいるとそんな感じが無く今年の2月の再発の時にサイバーを3/2回した後、意識が無くなり輸血をして9月のMRIで2倍になっているのが確認して以来治療は何もしていません。ただ毎日をたんたんと過ごしています。覚悟は出来ているつもりですがいざその時がきたら、自分がどうなってしまうのか想像がつきません。
発病当初から、腫瘍で下垂体が無くなり視床下部や視神経の所まで腫瘍があります。腫瘍で命が亡くなるというより体のストレス《風邪や(感染症)下痢、熱体温調節が出来ない、また薬を使わないと尿がたくさん出るので(電解質異常)食事のバランス(満腹中枢が壊れている為吐くまで食べ続けてしまう)などなど》気をつけないと危ないらしい。そして骨密度も60歳近いので転倒に気をつける事。
これらを気をつけて腫瘍も奇跡的に成長が止まってくれれば余命宣告をされていてももう少し一緒にいられるんじぁないかと感じています。
返信する
娘の事、私のこれから (忘れな草)
2008-10-26 03:08:34
御無沙汰をしています。
もうすぐ、娘が脳腫瘍と診察をうけた11月2日がきます。去年の今頃は、頭痛がする中保育士の仕事に就いていたころです。次第に激しくなる頭痛と闘いながら、昼間はそれを他の人に見せずに仕事をしていたといいます。
この1年、激動の1年でした。いえ、1年もありませんでした。手術が終わり放射線を始める前、その担当の医師からこの病気(膠芽腫)は術後1年で亡くなる方がほとんどです・・・・と言われ、ああそうなんだ、としか思えなかったこと。それ以上の事は考えられなかったことを思い出します。
ネットでどんなに調べても、予後の明るさは全くないこと。テモダールを同時投与するにも、ほんの少し余命が伸びること。そんなことしか目に入らなかったことを思い出します。
主治医ははっきりとした余命は言わなくとも、私がネットで見たその余命を訊ねた言葉にうなづくだけだったこと。放射線もテモダールも完治のための治療ではないこと。主治医も看護師さんたちも娘には、私たちも頑張りますから一緒にがんばりましょうね、としか言わなかったこと。
本当のところ私も決して長い戦いが続くとは思っていませんでした。どんなに娘が頑張っても、いつか、その日が来ることを覚悟せざるを得ませんでした。
だから、毎日を明るく楽しく愉快に過ごそうと思ったのです。娘も術後に少し左に麻痺が残ったけれど、リハビリでそれもよくなったり、放射線で抜けてしまった髪の毛も私の前では泣き言は一言も言いませんでした。初めて痙攣発作が起きて恐ろしい気持ちから、泣いたこともありましたが、その後の幾度かの痙攣発作には自分で対処できるようになっていました。
ことしの3月の中旬過ぎに、主治医から「もうあまり長く頑張れないかもしれないから、このまま病院にいるよりも、少しでも家族と一緒に家で過ごしたほうがいいと思います。」と言われました。私は、あのネットで見た余命をもう一度確認したのですが、とても優しかった主治医は「それよりももっと早いかもしれない。ゴールデンウィークかもしれないし、夏は越えられないかもしれない、誕生日は迎えられないかもしれない」と悲しい目でおっしゃいました。
ああ、そんなに早いのかと思ったのですが、不思議に涙が出ません。現実感がどうしても私の中にはなかったのです。
退院をし、一人暮らしをいていた小倉から大分へ連れて帰り、7年ぶりに一緒に暮らすようになったのですが、娘はわがまま一つ言わずいつも笑顔で毎日を過ごしていました。娘はどんな思いを持ってこの時期を過ごしていたのか、今となっては、娘が残したブログを読むことしかできません。ブログの中の娘は、やはり明るく前向きに病気と闘っています。
しかし、7年間付き合っていた彼氏とのメールのやり取りの中では、やはり娘らしい弱気な部分が垣間見えます。「自分でも頑張っているつもりなのになぁ…・」「太ってしまって、体も動きづらいし、のろまになってしまった」「今日は電話では話すのがきついからメールにして」「髪の毛がなくなって禿げてしまった・・・・ぜんぜん髪の毛が生えてこない」「いろんな事をすぐに忘れる」それでも、娘は気丈に彼氏の事を心配、仕事の仲間だった友人の相談に乗り、友人には明るく病気の報告をしていました。
地元の大学病院に変わってからも、娘はどれだけ強い子だったのだろうと思います。こんなに頑張って強い子なのに、病気はどんどんその進む手を止めませんでした。月1回のMRIで、その病巣が少しづつはっきり白く大きくなって行くのが私にもわかりました。新しく主治医になった先生も、もちろん娘には「あまり大きさには変化がないから、これからもテモダールを頑張りましょう」としか言えません。右脳の半分に広がって、いつ左に浸潤するか、いつ髄液に流れ出すか時間の問題でした。せめて、娘の誕生日まではそれが起こさずにいて欲しい。としか思えなかったのです。
インターフェロンとテモダールを同時投与しても、テモダールの副作用は月を追うごとに大きくなり、娘の辛さは増えていきました。毎日毎日、体の機能が少しずつ衰えていくことを娘はどう感じていたんだろう。
めまいがだんだんひどくなり、寝がえりも寝起きも、歩くことすらだんだん難しくなって、体重の増加は止まらず、病気前に来ていた服はすべて着ることができなくなり、大きなサイズの服を買わなければならなくなったこと。若い娘にとってどんな思いがしたのだろう。高いヒールが好きでたくさん持っていたのに、履けなくなってしまったこと。運動靴でしか歩けなくなったこと。口癖のように、「もう一度痩せて、ヒールの靴を履いて出かけるんだ」と言っていました。
そんな娘が、7月に入ってテモダール後に激しいおう吐を繰り返し再入院。点滴で嘔吐はおさまったものの、激しい目まいはますますひどくなり、あの手術をしてくれた先生がおっしゃったように、腫瘍が広がりとうとう髄液に流れ出し、脳全体に広がり、脊髄にも流れ出て、癌性髄膜腫となったのは7月の終わり。
あっという間の事でした。多分、そうなったのは2週間もかかってないと思うのです。救急で行った脳外科病院の先生も言っていました。
すでに、テモダールを投与してもその効果はないこともわかりました。すぐに痛みを緩和するための治療のため、大学病院に入院、腕からの点滴が入らないためIVHを右肩甲骨下に埋め込む手術を受け、緩和ケアチームか担当してくれるようになりました。そして、自宅にもう一度帰って過ごせるようにといろいろと話をする矢先でした。娘が「おかあさん、右の歯の奥がカクカクする」と言ったきり、激しい痙攣発作が起き意識がなくなってしまいました。それでも、その夜中、不思議なことに意識を取り戻し話ができるようになった娘は、トイレに行くとベッドから降りようとするのです。体にはまったく力は入りません。しかし、それでも私の力をかり歩いてトイレに行こうとするのです。当然私一人ではどうにもできず、看護師さんを呼びました。おむつをしているのですが、看護師さんも娘の意思を尊重しトイレに一緒になって連れて行ってくれたのです。そして、安心したようにまた、ベッドに帰って眠ったのでした。それが、娘が動いた最後でした。そして、夜中、タンを出すことができず、チューブを使ってタンを吸い出してもらうことになりました。意識はあるものの、咳をしてタンを出すことができないのです。長い夜が明け、目が覚めた娘に「おはよう、目が覚めたの」と声をかけると「おはよう」といいうなづきました。それが最期の言葉でした。
それっきり、深い眠りに入り、呼吸はだんだん浅くなっていきました。お盆が終わった8月17日の事でした。先生からは、「もう、これ以上の事は何もできません。連れて帰るのなら今しかないのですが、でも今夜が越えられることは難しいです。延命措置はどうしますか」と。それでも私は不思議と冷静でした。涙はどうしようもなく流れるのですが、この10ヶ月ほとんど毎日一緒に過ごしていた娘を見ていて、どれほど頑張ってきていたかを知っている私は、延命措置をしたからと言って、意識が戻るわけでもなく、最後まで自分の力で頑張っていた娘は自然に神様にお任せすることを選びました。
それでも娘は頑張り続け、小学校から大学までの友人が30人近く見舞いに集まってくれました。脳のすべてに腫瘍が散らばっている娘は意識がないはずなのに、友達の呼びかけに目を向け涙を流していました。握っている指が時々動いて握りかえそうとしました。
長い夜が始まり、娘は次第に眠りが深く浅い呼吸を繰り返し、心臓の動きと血液の流れが合わないためか顔も手も煮えたぎりうように熱くなってきていました。
友達にも帰ってもらい、彼氏と私たち家族だけになって、日が変わった0時48分。娘の呼吸はしずかに止まりました。眠るようにとはこのことだと思いました。苦しい顔をしていませんでした。いつのも寝顔のままの娘でした。
正確には膠芽腫と診断されて9か月と16日。291日目でした。
一番最初に、髄液に流れ出たら後はもうどうしようもない・・・・と言われた通りでした。
もうすぐ娘の26回目の誕生日です。
去年は痛みと苦しみの中で迎えた25歳の退場美でした。今年は仲のよかった友達が誕生日を祝いに来てくれます。娘の友達が来てくれるとホントにうれしいです。若い娘さんの声は私を元気にしてくれます。
喪中のはがきは、決まり切ったものではなく、娘らしくかわいらしいものにしました。まだ、中には知らない人もたくさんいるようなのでお知らせもしなければなりません。
葬儀の時眠っている娘は、それは綺麗でかわいらしく、やさしい笑顔でした。保育士だった娘は本当に子供が好きで、病気がよくなったら、もう一度保育に関する仕事がしたいと言っていました。だから、保育に関する本がまだたくさん残っています。保育園で使っていたエプロンもたくさんあります。娘が作った絵本もあります。資料をもたくさんあります。ホントに好きだったんだなぁと、思います。
娘がいなくなって2ケ月が過ぎます。たった一人になると、どうしても娘といた日々を思い出します。山井の中で引っ越したので、片づけも思い通りできていなかった娘のモノを過ごしづつ片付けています。
娘はきっとそれを望んでいるだろうし、娘を知っている誰かがんでくれるなら使ってもらえればいいなぁと思っています。私にはちょっと若すぎるので・・・(笑)
それでもまだまだたくさんあって、思い出が多すぎるので時間がかかりそうです。
ただ、ひとつ心配なのは彼氏の事。7年間も付き合っていて、将来は一緒になるつもりだったようです。
お互いを信頼し合い愛しあっていたのに、こんな別れになって、亡くなった時や葬儀の時の彼の涙はどうしようもなく胸に痛く刺さりました。葬儀では私たち家族の一員として参列してもらいました。しかし、どうか、幸せになってほしいと願わずにはいられません。新しい道を進んでほしいと思うのです。
自分の病気と前向きに明るく笑顔で闘ってきた娘のためにも、彼が幸せになってくれることが娘の願いでもあり、私の希望でもあるのです。
ホントにやさしい彼です。悲しみの淵から立ち直れたかどうかが心配で葬儀の後ずっと声をかけることができませんでした。その彼が、明日久しぶりに訪ねてきてお参りをしてくれます。息子のようにやさしい子でした。きっと、いつかは新しい幸せをつかんでくれると思います。
話を聞いた人が、ドラマや映画のようだといいます。しかし、これは現実に起きた、娘の短い一生です。でも、笑顔で明るく、仕事に頑張り、恋をして、遊んで、楽しんで、最期は治ることのない辛い病気になったけれど素敵な毎日を過ごして、25年と9か月の時間を過ごした娘の真実の話です。
私は、親として大したことは何もできていません。しかし、家族として今現在辛い立場にある方や、頑張っている皆さんの何かのお役に立てるのならと願わずにはいられません。何をどうすればいいのか分からない私です。もし、何かお手伝いできることがあれば、いつでもさせていただきたいと思っています。
どうかよろしくお願いいたします。
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Unknown (忘れな草)
2008-10-26 03:14:18
訂正があります。

25歳の退場美×→○25歳の誕生日
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Unknown (忘れな草)
2008-10-26 03:20:02
訂正追加
山井の中で×→○病の中で

娘が知っている誰かがんで×→○娘が知っている誰かが使って


何度も済みません。
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交流の場なので (boo)
2008-10-26 13:48:08
はじめまして。
忘れな草さん。
とても、辛かった事と思います。
私も、つらい現実を目の前にしているわりには不思議と冷静でいられています。でも、夜、布団の中に入るとふっととても耐えられなくておかしくなりそうになってしまいます。
今月に入って娘にはっきりと告知しました。娘もなんとなく感じてたので、「ふぅ~ん」と一言。どんな風に感じたのか私にはわかりません。がその後苦しいだけの延命はして欲しくない。もし死んだら私の体を臓器移植に使って欲しい。(高1の時にから言っていた事なので)又は同じ病気の人達の為に研究に使われる事になってもいいから。その時が来た時私ははたして出来るかどうかわかりません。が、その場では約束をしました。こんな事を書いておきながら一緒に生活をしているとまだまだ先の事になるのではと思っています。知的障害があって体重が2.5倍に増えてしまい糖尿病を発症しててもがんばってこのまま生き続けるような気がします。太ると洋服だけじゃなくて靴も無くて困るんですよね。浮腫んでいるから特に。足のサイズ今27・5センチです。和田さんなみです。

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辛い現実なのですね (姉さん)
2008-10-26 18:36:18
 3つ違いの弟が脳腫瘍と診断されたのは、今年の1月でした。すぐに1度目の手術を行い、病理検査の結果、神経膠腫のグレードⅢと診断されました。放射線治療とテモダールの服用を3か月続け、その後職場に復帰しました。仕事を続けながら1カ月に1回の化学療法を行っていたのですが、外出先で何度かの痙攣発作を起こし、9月に再入院して2度目の手術を受けました。その時の病理検査の結果は、かなり進行が早くグレードⅣ…。今月に入って、また激しい痙攣発作のために入院しています。主治医の話では再再手術をするしかないようです。左半身は麻痺し、ベッドで体を支える事もできないのに、食欲中枢に支障をきたしているのか、甘いものを欲しがり食べ続けています。このまま手術をしても再発を繰り返すのでしょうか。年を越せるかわからないと言った主治医の言葉が重くのしかかってきます。
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booさんへ (忘れな草)
2008-10-26 23:25:59
お辛い毎日だと思います。
娘はその期間が短かったので、ステロイドの影響でムーンフェイスになり体重が増え手足が浮腫んだり、痛み止めや吐き気止めなどの薬の副作用で便秘がひどくなって便秘薬を何種類も服用したり、夜がなかなか眠られず眠剤を使用したりと、その他にも抗ガン剤以外の薬がたくさんありました。ただ、地元に帰ってから最期の発作が起きるまでは、一度も発作を起こすこともなく、麻痺も起きなかったことは奇跡に近いことだと言われました。
MRI画像を見る限り、主治医は奇跡だとしか思えないといつも言っていました。いったい何がそんな奇跡を起こさせたのかはわかりません。
いつ、どんな障害が起きてもおかしくない状況の中で毎日を過ごしていました。右の脳にできた腫瘍の大きさを考えても、何か障害が出てもおかしくないのにそれが出ることはありませんでした。
それでも、私は娘に本当の事・・・余命のあることだけは告げることが最後までできませんでした。それがよかったのか、悪かったのか、今でもわかりません。時々、告げていれば、娘の事だからもっと違う生き方をしたのではないかと思うことがあります。
元気になったら、あれをしたいこれをしたいと自分に制限をして我慢ばかりをしていました。かわいそうなことをしたと思うことがあります。
旅行に行きたい、映画を見に行きたい、そんな事を言いながら、もう少し体調がよくなったらお母さん一緒に行こうね、といつも言っていました。
告げていれば、旅行にも映画にも一緒に行けたかもしれない。我慢をさせずにいたかもしれないと今でも思います。脳腫瘍と分かった時には、すでにGⅣの末期状態。手術をしても放射線をしても抗がん剤を使っても、余命は1年。そんな事実を知らせることができなかった私は、これでよかったのだと思うしかない時があります。そうしなければ、一生懸命に頑張って闘ってきた娘に申し訳がないのです。
告知をされた時のお気持ちがどんなにお辛かったか考えるだけで心が痛くなってきます。
自分より先に子供が逝くことがどうしてこの世にあるのか、どうしてこんなことを神様はされるのか、一時は部屋にこもり何をしても何を見ても涙しかありませんでした。
しかし、娘は最期まで笑顔とありがとうを忘れない子でした。そんな娘が、いつまでも泣いている私を怒っているような気がします。
きっと、向うの世界でも保育士をしていて、小さくして逝った子供たちと一緒に楽しい時間を過ごしていると思うようになりました。
それは、ブログを続けていていろんな方からの励ましのメッセージが私を助け出してくれたのだと思っています。たくさんの人が、娘が入院してから亡くなるまで心から心配し、励まし応援してくれました。中にはお守りを送ってくださったり、行く先々の神社で祈ってくれた方もいました。そんな方々の温かいお気持ちにもこたえるためにも、元気にならなければと思っています。
娘の友達がお参りに来てくれて、娘との思い出を楽しく話してくれると本当に幸せな気持ちになります。


どうか、ご自身のお体とお心を大事にされてください。そして、お嬢様との毎日を心穏やかに長く過ごせることを祈っています。


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交流の場ですから (そよかぜ)
2008-10-27 00:55:02
booさん、忘れな草さん、どうかご存分にご活用くださいね!交流の輪が広がり、深まることがこのブログの願いですから!
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そよかぜさん、忘れな草さんへ (boo)
2008-10-27 12:39:20
そよかぜさん。
ありがとうございます。
お言葉に甘えさせてもらいます。

忘れな草さん
多分娘さんはあえて告知しなくても分かっていたと思います。どんなに小さい子でも自分の体の事はわかるようです。小児科病棟で亡くなった子供達を何人か見送りました。どのお母さんも子供は私の為に精一杯頑張ってくれた。と言ってました。子供はお母さんの悲しんでいる姿は見たくないから頑張るんだよね。と言っていたお母さんもいました。だから、娘さんも忘れな草さんが悲しんでいる姿より明るく頑張っている姿を見ていたと思います。

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