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社会不安障害:SAD、ボランティアとセカンドライフ

SADで会社を休職したが、一年で復帰し、無事定年を務めて、その後の生活とボランティアについて気ままに掲載中

グローバル化について思うこと(当家で受けたホームスティ)

2007-11-04 01:49:32 | 日記

当社では、連結で国内と海外の打ち上げ比率が50:50になっており、既に海外の方が拡大する見込みを立てているようである。また国内の拠点営業を除くと、殆どの部署で、海外に行かざるを得ない状況である。
一昔前であれば、一般的に海外営業部門だけが、海外に行くとか、製造部門だけがとかあった気がするが、どこからでも、海外へ行かざるを得ない状況になっていると思う。これは当社だけの状況ではなく、一般の日本の企業に言えることではないかと思います。

さて、このような状況下、1995年(東京から大阪に転勤直後1年?定かでないが)のAPECの年を皮切りに、以下のように、色々な国の人をホームスティで当家として引き受けた。その背景には、うちの奥様の英語能力(帰国子女)が根底にあり、割と気楽に受けてくれたからである。但し、以下のリストを見れば分かるように、かなり偏っている。理由は一目瞭然であり、男としては女性の受け入れをしたいが、奥様は全く逆の考えであり、奥様の優先順位は、1)大人の男性(大半は引率のVIP、先生を意味する)、2)男子大学生、高校生、中学生、3)大人の女性(左記1)と同じ)、4)女生徒となる。

あえて言っておくが、受け入れた、下記の子供達には、何の問題もないが、内以外での評判や、女性同士での気遣い等があるようである。
ホームスティを受け入れる為に、家の大掃除をやらなければならず、これはこれで、よかったかなとも、今となっては考えている。

ちなみに、当家でホームスティを受けた後で、その後交流したのは上海の中国の子供達だけである。
たまたま仕事で行った時に、電話したりすると、わざわざホテルに家族で来てくれたりした。来てくれと言われて、訪れた家庭もある。
今後どうなるかは分からないし、もう既に時間が経過しており、内に泊まった子供達は皆大きく(つまり大人になり、社会人に)なっていることから、その地(国)に言っても、もう合えるわけではないと私は思っている。

ホームスティの中で私が一番、感激したのは実は、だれでもいいが、いつか家で一緒に酒を飲める事を夢にしていた事だが、それをかなえてくれたのは、カナダからの最初の留学生(マイク)だった。
夜中に私が、焼酎をお湯割で飲んでいると、来て「お前ものむか?日本の焼酎だが?」と英語で言うと、彼は、にこやかに、「オブコース」といってくれ、一緒に飲みながら、話をした。これが、最高の夢の実現であった。それぞれその後のかれらがどうなっているか心配はあるが、皆それぞれの人生を歩んでいると信じたい。そう思っています。
※それぞれの市が市内の高校と一年毎に交換短期留学をしている(授業は、受けた生徒の教室でそのまま日本語:日本では、通学は、当家は自転車:大丈夫だったか心配だったが、息子と一緒に言っていた)

一方で、当初でも、下記アメリカアラバマとの交流はアメリカに工場を設立した以降ずっと続いており、最初のうちは受け入れ担当者がかなり苦労していた。理由は、条件がかなりきびしくて、受け入れてくれる人がいないのであった。条件とは、通勤1時間以内、できれば同世代がいる事、できれば一部屋提供できる事等が主だったと思う。これぐらいだったら何とかなりそうな人がたくさんいそうな気がするが、実際は、10数人の受け入れ先を探すのがかなり困難であったことも事実です。

実は、同じような事が当市でもあり、市から、同じように海外からの留学生受け入れの話があるが、問題の一番は、おそらく「英語」なんだと予測しています。
日本の英語教育がまちがった事で(性格には間違ってはいないと思うが、英会話は教えていない。正しい発音やヒアリングも教えていない。カタカナ英語が邪魔をするなど色々問題はあるが、日本では英語を使う必要性が全くない中で(日本語だけで生活できる)、英語を話す外国人を受け入れるのは、かなりの勇気がいるのだろうと考える。東京へ単身赴任5年し、その後半年ほど会社を休養しているが、この状況が変わっていればよいがと思いながら、実際は余り変わってはいないと思っています。

性別/人数 関係 内容 
1995年 アメリカ
アラバマ
女子高校生
1名
会社(第2回目だった
らしいが。。。)
当家として、多分始めて外国人がホームスティした子です。休日に奈良に連れて行ったり
帰ってきてから、奥様バレーに連れて行ったりで、非常に印象が強いです。
たした、一学年スキップ(飛び越して)、大学へ進学し、その後福祉関係の仕事についてい
るらいし。
1995年 アメリカ
ペンシルバニア
男子中高生
10数名
プライベート
(娘の合唱団の関係)
たまたま、この年がスタートであり、且つホームスティが重なった年です。
もう、殆どパニック状態の男の子供達を止めるのが精一杯の状況でした。
1995年 ロシア
ウラジオストック
女子中学生
2名
プライベート
(娘の合唱団の関係)
朝日TVで、取材が入り、当家での歓迎も1分?ぐらい放送される。
※実際の取材は1時間をはるかに越えていたが。。。 
奈良の遊園地につれていったり、結構気を使った。二人ともとても中学生とは思えなかった
1996年 アメリカ
ペンシルバニア
男子中高生
10数名
プライベート
(娘の合唱団の関係)
 上記と同じ
1996年 アメリカ
アラバマ
引率女性先生1名 会社
1997年 中国上海

当家:女子中学生5名
奥様の実家:引率VIP3名

プライベート
(娘の合唱団の関係)
1997年 アメリカ
アラバマ

引率男性先生1名

会社 

確か、若いアスリートだったと思う。
1999年 中国上海 男子中学生2名 プライベート
(娘の合唱団の関係)

一人は、バイオリンを弾きかなり裕福、もう一人も貧しいほうでは内のだろう。
後日、上海に行ったときに、どちらの両親にも彼らの家でお会いした。

1997年 アメリカ
アラバマ
男子高校生1名 会社 韓国系アメリカ人。奥様よりは僕の方がかなりフォローしたと思うが。。。
 ? トルコ 先生+男子大学生2名 市からの要望 引率の先生がイギリス英語、内の奥様が完全なアメリカ英語で、お互いに
言い争っていた。でも大学生の一人日本に来て一ヶ月しかない中でかなり
日本語をしゃべっていた。驚異的!
 ? オーストラリア 女子高校生1名 市からの要望 高校で日本語を学んでいるという事で、いずれにしてお楽な受け入れ。
でも、日本語がかなり話せるため、どうしてもわたしが笑顔(笑う)と、彼女には
気になったらしく、しつこく私の日本語はへんですか、なにか?おかしいのですか
と質問されたことを思い出します。この時初めてオーストラリアでは、かなり高度
な日本語教育がなされており、成果が上がっていると感じました。
1997年 カナダ 男子高校生1名 子供の高校から
(長男が受ける形)
長男が、高1の時に受けた、高校生。一番記憶に残る太っちょのマイク。
高校生だが、カナダでは週一回は親の許可アリでアルコールを飲めたとの事。
IT技術を既に取得しており、まあ大丈夫かなと思った。
毎日、長男と自転車で高校に行っていました。
1999年 アメリカ
アラバマ
引率男性先生1名 会社 定年退職後で会社のプログラムで、日本に来た先生です。その後数年電子メールで
交流ありましたが・・・
2000年 カナダ 男子高校生1名 子供の高校から
(長男が受ける形)
かなりカッコいい高校生で痩せ型だった。 長男が高3の時の短期留学生でした。
前回のマイク同様、自転車で高校に通うていました(勿論長男と一緒に)
2006年 カナダ 引率女性の先生 子供の高校から
(子供は既に二人
とも卒業しているが
奥様がPTA副会長だったこ
とからも担当の先生から依頼)
ちょうど単身赴任中でもあり、迎えに枚方の方に奥様と一緒に言った記憶がありますが、
かなりな高速イングリッシュで、会話に苦労した記憶が残っています。


※あと一人、会社か、子供の高校の関係でお一人先生を迎えた気がしますが、いつだったか忘れました。最も、上記リストの年だけは、チョットいい加減です。正確には、整理できていません。
 今みたいに、デジカメで写真を撮っておけば、日付がすぐ、HDDで確認できるのですが、、、


※途中ですが、掲載しておきます。追加修正しておきます

※海外からのホームスティの回数を重ねる毎に、なんとなくなれてしまうのか、手を抜いてしますのか、その時は緊張して対応をするばかりでしたが、振り返ってみると、もっと真剣に対応すべきだったかなと思っております。

※これらホームスティの受け入れの一番の目的は、自分の慣れと子供達への教育を考えたのですが、結果は余り、実っていないような気がします。昔と違って、日本にいても外国人と話す機会がいくらでもあるということを教え、英語に少しでも親しんでもらいたかったのですが、子供達への効果はと言うと、何とも言えません。。。
親の身勝手な考えに過ぎないのかも知れないと思いながら、近い将来の為に少しでもなればとは思っているのですが、応えは社会に出て、海外にでて初めて分かる事かもしれません。

 


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