今日は5月7日の十王経のあらましの続編です。
(1) 秦広王(しんこうおう)
初七日に現れる王で、本地は不動明王。 殺生について取り調べる。
泰広王庁 初七日のお裁きは、
「お前は子供の頃、塩辛トンボの尻尾をち切って、麦の穂を差込んだろ・・」
「申訳ありません。子供だったものでつい・・」
「然し、大人になっても魚釣をやったであろ・・」
「すみません。ゴルフをやる金が無かったので、安上りの魚釣を趣味としました。」
「それぢゃ、地獄行きだ」
「それだけは勘弁して下さい。外にいろいろ良い事もやりました。その方で棒引きして下さい」
「まあ、そう言うなら、七日間猶予してやろう」
無益な殺生は罪が重いですぞ。
十王教 其の一(前回のあらまし)
あの世と、この世の間を、仏教では中陰、もしくは中有と言います。人間は、死後49日の間、あの世と、この世の間すなわち中有(中陰)をさまようこととなります。尚、極善と極悪の人間に中有(中陰)はありません。
なぜなら極善の人は死後ただちに成仏し、極悪の人はただちに奈落の底に堕ちるからです。この世で仏と成る程の行いもなく迷いの生死を重ねた人は 死後、中有(中陰)というあの世とこの世の境目を通らねばなりません。
中有(中陰)の道中には、言葉にすることさえ恐ろしい怒りの姿を顕した、十名の王がおります。この王を名付けて十王と申しますが、本来の姿は仏様です。仏は、しばらくの間その優しいお姿をお隠しになり、何度も何度も
迷いの生死を繰り返す愚かな人々を哀れみ悲しんで、薄暗い中有(中陰)の道中で死者を導くため仮の恐ろしい怒りの姿をもってあらわるのです。そして、死者が生前に行った善悪や罪の報いの重さをはかり次の生まれる場所を
お定めになります。仏の救いは様々でなにが勝れているとか劣っているとかはありませんが この十王の教えは
ことに神妙です。死後、これほどまでに自分の罪が問い正され明らかにされこれほどまでに容赦なく責め立てられるのであればどんな人でもおのれの悪い罪業を恐れ、因果の恐ろしさを知ることでしょう。そして、このような恐れ敬う気持ちがあればこそ はじめて、流転生死からの解脱の方法が見えてくるのです。人は死を迎えその命が尽きようとするとき肉体からあらゆる病が生じて、激しい苦痛と断末魔の苦しみに身を切り裂かれます。目の前は暗くなり見たいものは見えず、話したくても舌がすくんで言いたいことも言えません。魂が去るときは真っ暗闇で
深い岸に堕ちていくようにして終わります。先に進もうにも何処に行けばいいのかあてもありません。とどまろうにも身の置き所もありません。あたりは薄暗く、何もありません。心細くて、家族や友人に会いたくても道はなく、行くも戻るもならず、ちゅうぶらりんで休むことさえもできません。ただあるのはーどうしようもない孤独と悲しみの涙ばかりです。この行き場のないこの世とあの世の境目を中陰といいます。死後、49日の間この中陰の旅がはじまります。
十王教 其の二
死後の最初の一週間の事
(死出の山にたどり着くまで)
死後、最初の一週間(いわゆる初七日)にあらわれる王の名を、秦広王と申します。 これは、この王の御前に
たどり着くまでの物語。人は命が尽きた後、たった独りで果てのない、闇の荒野をさまようことになります。
これを、中陰の旅と申します。何処に行けばいいのかあてもなく、身の置き所もなく。あたりは薄暗く、もありません。心細くても帰る道はなく、遠くなっていくばかりで、行くも戻ることもできず、休むことさえできません。
ただあるのは、どうしようもない孤独と 悲しみの涙ばかりです。このようにして、さまよう内に、あるいは途中で鬼が迎えに来る人もあり、あるいは王の御前で、初めて鬼と出会う人もいます。これは、その人の生前の行いによるものかと思われます。これより語られるのは、仏の教えを成就する程の行いもなく、迷いの生死の中に暮らした普通の人々の有様です。さて、死者はこのような中陰をさまよう内に、どこからともなく、苦痛に身悶える、
恐ろしい叫び声と、怒鳴り責め立てる鬼の声を聞きます。先ほどまで孤独に怯えていたのに、恐ろしい叫び声に胸は騒ぎ、不安と恐怖に立ちすくみ、隠れようにも、身を隠す場所もありません。一体どうすればいいのだろうと、
おろおろ考えていると、まもなく大きな鬼と出会います。今まで話で、地獄の鬼の話をきいてはいましたが、目の当たりにして、その恐ろしさは伝えようもありません。鬼は、そんな死者を、息つくまもなく容赦なく責め立て、
金棒を振り回し追い駆け立てます。芯から震え上がるような恐怖におののき逃げまどううちに、やがて死出の山へとたどり着きます。この山は怖ろしいほど高く険しくそびえ立ちとても越えていけそうにはありません。しかし鬼に「登れ!!」言われて、泣く泣く登りにかかります。ところが岩の角は剣のように鋭く、進めたものではありません。どうしようもなく、もたもたしていると鬼に鉄棒で打ち砕かれます。死者は、たまらず息絶え倒れますが、
しばらくすると先程と変わらぬ様子で再びよみがえります。この山が死出の山と言われるのはこのためです。
鋭い岩場に足の踏み場もなく、険しい坂に杖もなく、道の岩に足が裂けて、履き物がほしくても、履かせてくれる人はもういません。山はまるで壁のようで、峯から吹き下ろす風は、肌を凍らせ骨を刺します。この死出の山を越えて、ようやく秦広王の御前に参ることが出来ます。ついてみれば、いままで一人しかいないとおもっていたのに
とてつもない数の死者達が群れのようになり、王のいましめを様々に受けています。そのとき、大王は死者を御覧になって申します。お前はまた戻って来たのか。何回ここに来れば気が済むのだ。忘れたのか、お前は地獄で罪をつぐない、その報いを終えて、ようやく生まれ変わるとき、地獄の鬼達が 「人間に生まれ変われば速やかに仏道修行をして成仏せよ。もうこのような所には決してくるな。」と懇ろに言っておったのに、修行をした様子もない。
ただ欲しいままに罪をつくり、しばらくしてまた帰ってきた。なんとも情けない。しかもお前が生まれた人間の世界は、仏の教えが伝わっている国であったはずだ。どうしてその教えを受けることもなく、いたずらに時を過ごして、また戻って来たのだ。そのとき、死者は大王に申します。仰せのとうりではございますが、しかしこの身はもともと愚かでありまして、修行して仏に成るなどとは、夢にも考えませんでした。ただ今は、くだらない因果のために、このような報いを受け、うらめしく思うばかりです。私に罪はないと思います。そのとき大王は、大いに怒り死者を怒鳴りつけます。馬鹿ものが!通らぬ理屈を申すな!自分は愚かだというが、仏と成るのに何の智慧や才覚がいるというのだ。お前は好き勝手に暮らし、するべきこともなさずまたここに戻って来ただけではないか。
何度、同じ事を繰り返せば気が済むのだ。もし他に言うことがあるのなら言うてみよ!と、死者をにらみつけます。
死者はもはや何も言えず、畏れ入るばかりです。大王は申します。お前はさっきまで遠慮無く理屈を言っていたのに、今度は返事ないのか。死者は泣きながら、千回百回と自分を恨み悔やみますが、もうどうすることもできません。後悔先に立たずと申します。よくよく考えて、後に災いが起こらぬよう心がけねばなりません。欲望のまま怠惰に時を過ごし、ましてや罪を犯して、自分から災難や苦しみを招いて、死してなお苦しみを受けても、誰のせいでもありません。すべて自分の報いです。深くこのことを悟り、自らの良心と仏の教えに従って、自ら仏に成ることを願うばかりです。さて、この王のもとにて善悪の報いが定まらないようであれば、死者は次の王のもとに
送られます。
三途の川の話につづく
此の辺りが観光ツアー最大の名所、三途の川です。お役人が、
「それ、あそこに見える立派な欄干、善根功徳を積んだお方が渡る橋、向ふの浅瀬は罪の浅い者の渡る処、悪い事のやり放題、川しもの毒蛇悪龍おる処、それ行け」
(1) 秦広王(しんこうおう)
初七日に現れる王で、本地は不動明王。 殺生について取り調べる。
泰広王庁 初七日のお裁きは、
「お前は子供の頃、塩辛トンボの尻尾をち切って、麦の穂を差込んだろ・・」
「申訳ありません。子供だったものでつい・・」
「然し、大人になっても魚釣をやったであろ・・」
「すみません。ゴルフをやる金が無かったので、安上りの魚釣を趣味としました。」
「それぢゃ、地獄行きだ」
「それだけは勘弁して下さい。外にいろいろ良い事もやりました。その方で棒引きして下さい」
「まあ、そう言うなら、七日間猶予してやろう」
無益な殺生は罪が重いですぞ。
十王教 其の一(前回のあらまし)
あの世と、この世の間を、仏教では中陰、もしくは中有と言います。人間は、死後49日の間、あの世と、この世の間すなわち中有(中陰)をさまようこととなります。尚、極善と極悪の人間に中有(中陰)はありません。
なぜなら極善の人は死後ただちに成仏し、極悪の人はただちに奈落の底に堕ちるからです。この世で仏と成る程の行いもなく迷いの生死を重ねた人は 死後、中有(中陰)というあの世とこの世の境目を通らねばなりません。
中有(中陰)の道中には、言葉にすることさえ恐ろしい怒りの姿を顕した、十名の王がおります。この王を名付けて十王と申しますが、本来の姿は仏様です。仏は、しばらくの間その優しいお姿をお隠しになり、何度も何度も
迷いの生死を繰り返す愚かな人々を哀れみ悲しんで、薄暗い中有(中陰)の道中で死者を導くため仮の恐ろしい怒りの姿をもってあらわるのです。そして、死者が生前に行った善悪や罪の報いの重さをはかり次の生まれる場所を
お定めになります。仏の救いは様々でなにが勝れているとか劣っているとかはありませんが この十王の教えは
ことに神妙です。死後、これほどまでに自分の罪が問い正され明らかにされこれほどまでに容赦なく責め立てられるのであればどんな人でもおのれの悪い罪業を恐れ、因果の恐ろしさを知ることでしょう。そして、このような恐れ敬う気持ちがあればこそ はじめて、流転生死からの解脱の方法が見えてくるのです。人は死を迎えその命が尽きようとするとき肉体からあらゆる病が生じて、激しい苦痛と断末魔の苦しみに身を切り裂かれます。目の前は暗くなり見たいものは見えず、話したくても舌がすくんで言いたいことも言えません。魂が去るときは真っ暗闇で
深い岸に堕ちていくようにして終わります。先に進もうにも何処に行けばいいのかあてもありません。とどまろうにも身の置き所もありません。あたりは薄暗く、何もありません。心細くて、家族や友人に会いたくても道はなく、行くも戻るもならず、ちゅうぶらりんで休むことさえもできません。ただあるのはーどうしようもない孤独と悲しみの涙ばかりです。この行き場のないこの世とあの世の境目を中陰といいます。死後、49日の間この中陰の旅がはじまります。
十王教 其の二
死後の最初の一週間の事
(死出の山にたどり着くまで)
死後、最初の一週間(いわゆる初七日)にあらわれる王の名を、秦広王と申します。 これは、この王の御前に
たどり着くまでの物語。人は命が尽きた後、たった独りで果てのない、闇の荒野をさまようことになります。
これを、中陰の旅と申します。何処に行けばいいのかあてもなく、身の置き所もなく。あたりは薄暗く、もありません。心細くても帰る道はなく、遠くなっていくばかりで、行くも戻ることもできず、休むことさえできません。
ただあるのは、どうしようもない孤独と 悲しみの涙ばかりです。このようにして、さまよう内に、あるいは途中で鬼が迎えに来る人もあり、あるいは王の御前で、初めて鬼と出会う人もいます。これは、その人の生前の行いによるものかと思われます。これより語られるのは、仏の教えを成就する程の行いもなく、迷いの生死の中に暮らした普通の人々の有様です。さて、死者はこのような中陰をさまよう内に、どこからともなく、苦痛に身悶える、
恐ろしい叫び声と、怒鳴り責め立てる鬼の声を聞きます。先ほどまで孤独に怯えていたのに、恐ろしい叫び声に胸は騒ぎ、不安と恐怖に立ちすくみ、隠れようにも、身を隠す場所もありません。一体どうすればいいのだろうと、
おろおろ考えていると、まもなく大きな鬼と出会います。今まで話で、地獄の鬼の話をきいてはいましたが、目の当たりにして、その恐ろしさは伝えようもありません。鬼は、そんな死者を、息つくまもなく容赦なく責め立て、
金棒を振り回し追い駆け立てます。芯から震え上がるような恐怖におののき逃げまどううちに、やがて死出の山へとたどり着きます。この山は怖ろしいほど高く険しくそびえ立ちとても越えていけそうにはありません。しかし鬼に「登れ!!」言われて、泣く泣く登りにかかります。ところが岩の角は剣のように鋭く、進めたものではありません。どうしようもなく、もたもたしていると鬼に鉄棒で打ち砕かれます。死者は、たまらず息絶え倒れますが、
しばらくすると先程と変わらぬ様子で再びよみがえります。この山が死出の山と言われるのはこのためです。
鋭い岩場に足の踏み場もなく、険しい坂に杖もなく、道の岩に足が裂けて、履き物がほしくても、履かせてくれる人はもういません。山はまるで壁のようで、峯から吹き下ろす風は、肌を凍らせ骨を刺します。この死出の山を越えて、ようやく秦広王の御前に参ることが出来ます。ついてみれば、いままで一人しかいないとおもっていたのに
とてつもない数の死者達が群れのようになり、王のいましめを様々に受けています。そのとき、大王は死者を御覧になって申します。お前はまた戻って来たのか。何回ここに来れば気が済むのだ。忘れたのか、お前は地獄で罪をつぐない、その報いを終えて、ようやく生まれ変わるとき、地獄の鬼達が 「人間に生まれ変われば速やかに仏道修行をして成仏せよ。もうこのような所には決してくるな。」と懇ろに言っておったのに、修行をした様子もない。
ただ欲しいままに罪をつくり、しばらくしてまた帰ってきた。なんとも情けない。しかもお前が生まれた人間の世界は、仏の教えが伝わっている国であったはずだ。どうしてその教えを受けることもなく、いたずらに時を過ごして、また戻って来たのだ。そのとき、死者は大王に申します。仰せのとうりではございますが、しかしこの身はもともと愚かでありまして、修行して仏に成るなどとは、夢にも考えませんでした。ただ今は、くだらない因果のために、このような報いを受け、うらめしく思うばかりです。私に罪はないと思います。そのとき大王は、大いに怒り死者を怒鳴りつけます。馬鹿ものが!通らぬ理屈を申すな!自分は愚かだというが、仏と成るのに何の智慧や才覚がいるというのだ。お前は好き勝手に暮らし、するべきこともなさずまたここに戻って来ただけではないか。
何度、同じ事を繰り返せば気が済むのだ。もし他に言うことがあるのなら言うてみよ!と、死者をにらみつけます。
死者はもはや何も言えず、畏れ入るばかりです。大王は申します。お前はさっきまで遠慮無く理屈を言っていたのに、今度は返事ないのか。死者は泣きながら、千回百回と自分を恨み悔やみますが、もうどうすることもできません。後悔先に立たずと申します。よくよく考えて、後に災いが起こらぬよう心がけねばなりません。欲望のまま怠惰に時を過ごし、ましてや罪を犯して、自分から災難や苦しみを招いて、死してなお苦しみを受けても、誰のせいでもありません。すべて自分の報いです。深くこのことを悟り、自らの良心と仏の教えに従って、自ら仏に成ることを願うばかりです。さて、この王のもとにて善悪の報いが定まらないようであれば、死者は次の王のもとに
送られます。
三途の川の話につづく
此の辺りが観光ツアー最大の名所、三途の川です。お役人が、
「それ、あそこに見える立派な欄干、善根功徳を積んだお方が渡る橋、向ふの浅瀬は罪の浅い者の渡る処、悪い事のやり放題、川しもの毒蛇悪龍おる処、それ行け」
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