しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

お寺に「神棚」がある不思議

2010年06月26日 | 廃仏毀釈・神仏分離

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。

子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。



そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とする説と二つの説があるようだ。

まず明治時代以降の説は、明治時代の宗教政策から神棚が生まれたと考える説である。

明治初期の太政官布告にこのようなものがある。(明治4年7月4日第322) 
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし…。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

要するに日本国民は、神官からいただいた守り札を紛失することなく保管しなければならず、もし紛失したならば、戸長(自治会長)から尋問を受けて、何故なくしたかの確認を得なければならなくなった。
守り札を紛失すると面倒なので、守り札を安置させるために各家庭で自然に神棚を置くようになったのが神棚の起源と考える説だ。

江戸時代初期に神棚が生まれたという説は、神棚は江戸時代の初期に流行した「伊勢参り」の御札を納めるのに生まれたという考え方である。


伊勢参り」は「お蔭参り」ともいうが、確かに江戸時代に大変流行した。Wikipediaによると、数百万人規模のものが60年間に3度起こったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A



宝永2年(1705)には、日本の人口が2769万人程度だった時代に330-370万人が伊勢神宮に参詣したと推定されているが、日本人口の12~13%が伊勢に行ったという数字はすごい話であるし、その時期に家でも「お伊勢さん」に参詣できるようにと神棚が流行したという説もそれなりに説得力がある。



上の錦絵は慶応三年(1867)の「豊穣御蔭参之図」で伊勢神宮の神札等が降下する状況が描かれている。
しかしそんなに古い歴史があるなら、江戸時代に創業した神棚製造の企業があってもおかしくないのだが、仏壇のメーカーはあっても神棚については明治以降の会社ばかりである。

よく武道の道場などにある神棚は江戸時代には存在せず、武道の神様とされた「鹿島大明神」「香取大明神」の二柱の神名と幕末期には尊王攘夷思想の高まりとともに、「天照大御神」を加えた三柱の神名を書いた掛け軸を床にかける「神床」だったらしく、江戸時代に神棚が生まれたとしても、本格的に普及したのはやはり明治時代ではないのだろうか。伊勢参りがいくら大流行したとしても、神棚の設置に強制力があるわけではなく、江戸時代に全国津々浦々に普及したと説明するのには無理がありそうだ。
神棚を自宅に設置する目的で作られたのが江戸時代からだとしても、全国的に普及したのは先程の太政官布告の出た明治4年以降ではないのか。

しかし、この太政官布告には相当抵抗があったらしく、この布告は明治6年に中止されたようなのである。ではどういう勢力からの抵抗があったのか。

今年の一月にこのブログで東本願寺のことを書いたが、浄土真宗は廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。
西本願寺は江戸時代を通じで朝廷に忠誠を誓い、明治に入っても政府に巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出せなかったと言われる。
一方東本願寺は、幕末までは一貫して江戸幕府を支援し、戊辰戦争以降に急遽勤王方に着くのだが、明治政府の重鎮には東本願寺を廃絶させる意見が強いなかを、かなり苦労をして危機から脱出している。詳しくは、この記事を参考にしていただきたい。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

「神々の明治維新」(安丸良夫著:岩浪新書)という本によると、(196p) 
「…神仏分離政策以下の排仏的な気運の中でも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存することが大きかった…。…地域で廃仏毀釈がすすめられても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、…廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。」



「…佐渡、松本藩、富山藩などで廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性と強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった」

と書いてある。真宗が明治政府を資金面で支援しつつ、真宗寺院の廃寺廃仏に相当抵抗したということだ。

もともと真宗門徒は他の宗派とは異なる宗教生活の独自性がある。大きな仏壇を家ごとに備え、在家での説教や夜間の法談を行い、神祇不拝が指導されている。
神棚に関しては今も設置すべきでないとの考えが徹底しているようだ。例えば、真宗大谷派大阪教区のHPでは、信者に対して「神棚は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。」と書いている。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_032.htm 

現代人にはやや過激にも見えるこのような真宗の抵抗がなければ、廃仏毀釈による文化破壊がどこまで進んだかわからない。
梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈がなければ、現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるが、真宗の廃寺・廃仏に対する抵抗がなかったら、我が国はもっと多くの文化財を失っていたのではないだろうか。
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鳥居は神社のものなのか

2010年06月07日 | 廃仏毀釈・神仏分離

鳥居は神社の入り口にあるもので、お寺に鳥居などはあるはずがないものだと子供の頃から思ってきたのだが、その考え方が正しくないことが分かってきたのはつい昨年のことだ。 

たとえば、聖徳太子の創建である大阪の四天王寺に行くとこのように西の入口に石の鳥居が建っている。



この鳥居は永仁2年(1294)に再建された、日本最古の石造りの大鳥居とされ、国の重要文化財に指定されている。



扁額には「釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心」と書かれているが、この意味は「お釈迦さまが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である」という意味である。
この扁額は見るからに新しく制作されたものであるが、ここに書かれている文字は昔から同じもののようだ。「法然上人行状画図」という本の第十六に四天王寺の鳥居が書かれており、扁額には、今と全く同じ文字が書かれているらしい。

以前このブログにも書いたが、吉野の蔵王権現堂の近くに鳥居が建っている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html



上の画像が有名な「銅(かね)の鳥居」で、日本最古の銅製の鳥居でこれも国の重要文化財に指定されている。高さが7.6m、柱の径が1mで、東大寺の大仏さんを造る時に余った銅を用いたという言い伝えもある。また鳥居の柱は、仏の台座である蓮華座の上に立っているそうだ。
この鳥居の扁額には「発心門(ほっしんもん)」と書かれているが、この字は弘法大師の筆によるものと伝えられている。



この鳥居は聖地への入り口であり、俗界と聖地との境界を象徴する。
大峯山に入る修験者は、この門に手をかけて廻りながら、
吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」
との讃仏歌を三度唱えて修行の心を新たにして出発するそうだ。



日本の三大鳥居は安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木造)と大阪四天王寺・石の鳥居、吉野・銅の鳥居であることを最近知ったのだが、3つのうち2つがお寺に関わるものなのである。

地図記号で使われる鳥居は神社を意味するのだが、そもそも鳥居とは何なのか。

鳥居の起源についてネットで調べるとWikipediaにかなり詳しく書かれているが、結論としては「諸説あるが、確かなことはわかっていない」のだが、延暦23年(804)に書かれた「皇太神宮儀式帳」という文献によると鳥居は「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」として、「奈良時代から神社建築の門の一種としている」ようで、「8世紀頃に現在の形が確立している」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85 
では鳥居の起源について「諸説」としてどんな説があるのかというと、

インドの仏教やヒンドゥー経寺院に見られる門である「トラナ」が狛犬などと同じく仏教に付随して伝来したという説。

Wikipediaには「トラナ」の写真が出ていたが、これは確か鳥居に似ていると言えば似ている。



この画像は紀元前2世紀から紀元前1世紀頃に建設されたサンチのトラナだが、獅子像などが彫り込まれている。

また、中国で宮殿や陵墓へ続く参道の入り口に入口両側に置かれる「華表」が鳥居の起源であるという説もある。




上の写真はWikipediaの「天安門前の華表」の写真である。

中国には「牌坊(はいぼう)」という伝統的建築様式の門がある。神戸や横浜の中華街に、このような建物が確かにあった。




上の画像は、香港西貢区の「海鮮街」にある「牌坊」である。

他には日本古来のものだという説もあり、天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)にちなみ、神前に鶏の止まり木を置いたという説や、現在の雲南省とビルマとの国境地帯にすむアカ族の「精霊の門」には、上に木彫りらしき鳥が置かれたりしていることから、これが日本の鳥居の起源であるという説まである。



子供の頃に山で良く友人と遊んで仲間同士で陣地のようなものを作って入口に門らしきものを構えたのだが、陣地の中に入るメンバーを絞る目的で門らしきものを作る発想はどこの部族でもするのではないかと考えてしまう。

このような諸説がまじめに議論されているのなら、インディアンのトーテムポールが鳥居の起源だという説が出てきてもおかしくないではないか。
「皇太神宮儀式帳」の原文は誰でも次のURLで読む事が出来るが、7/76面の5行目に出てくる「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」のところは、その大きさが書かれているだけのことである。
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0007.html

この資料では、四天王寺吉野蔵王権現堂に鳥居があることを納得させるものではない。いずれも神仏習合以前に作られた寺院はであるが、なぜお寺に鳥居を建てたのだろうか。この2寺院にかぎらず、ほかにも鳥居のある寺院はいくつも存在するのだ。

つまるところ、鳥居とは「於不葺御門」、つまり屋根のない門と考えれば良いだけのことではないか。そう理解すれば、お寺に鳥居があっても何の不思議もない。

そういえば「門」という字は鳥居に似ているような気がする。

鳥居のことをいろいろ調べていると、青い鳥居のある神社が存在するようだ。ネットで画像を検索するといろんな神社が出てくる。この画像は、知多半島にある恋の水神社の鳥居だが、ちょっとチープな印象を受けるのは私だけだろうか。



やはり鳥居は朱色が良く似合うと思う。
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BLOGariコメント

I’m pleased I found this weblog, I couldnt discover any info on this subject matter earlier to. I also operate a site and if you want to ever severe in a little bit of guest writing for me if possible really feel free to let me know, i am usually look for people to check out my site.
 
 
Coach Outletさん、はじめまして。

振り返れば大学時代が私の英語力のピークでしたが、その時ですら読むほうも書く方もダメでした。それから社会人になって、英語を使う仕事はほとんど経験しなかったので、英語の力は落ちる一方です。
せっかく書き込んで頂いたのですが、前半の意味はわかっても後半の文章の意味はあまりよくわかりません。

こんな短い文章ですらまともに読めない私に、英語のサイトはとても読む力がありませんので、とてもCoarch Outletさんのご期待に添えそうもありません。
どんなカタコトでもいいですから、日本語でコメントしていただければなるべくわかりやすく、コメントをお返しさせていただきますので、よろしくお願いいたします。 



数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像

2010年04月12日 | 廃仏毀釈・神仏分離

先月の徳島県祖谷(いや)地方から「こんぴらさん」を巡る旅行の下調べをしていた時に、「こんぴらさん」の2体の仏像が海を渡って、「裸祭り」で名高い岡山県の西大寺観音院に安置されていることを次のサイトで知り興味を持った。
http://www.saidaiji.jp/guidance-of-prayer/prayer/



どういう事情で、「こんぴらさん」の仏像が西大寺観音院に行ったのだろうか。

西大寺観音院の公式ホームページには
「…明治維新のころ神国日本は古来の神をこそ祀るべきで、渡来した神仏を祀る必要は無く、よって仏像・寺院は破壊するべきだ”という廃仏毀釈の運動が起こり、仏教は迫害された。」
「 讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎(すなみすけごろう)宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。」
「その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、当山住職の長田光阿上人が明治15年3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。(引用終わり)」と記されている。

角南助五郎の故郷である「津田村君津」とは現岡山市の南東郊外であり、宥明はこの二体の仏像を船で持ち出したことになる。今でこそ車や電車で瀬戸内海を簡単に渡れるようにはなったが、今の瀬戸内自動車道で坂出ICから早島ICから37.3kmもある。仏像が保管されていた「旭社」(前松尾寺金堂)から、629段の階段を気づかれずに運んで下りるのも大変な苦労があったろう。



上の仏像が、「こんぴらさん」から持ち出された不動明王像。



この仏像が、「こんぴらさん」から持ち出された毘沙門天像である。

前回の記事に書いたが、当時松尾寺は金光院を中心とし、その支配下に真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があったが、そのうちの尊勝院、普門院がその当時神社化に強く反対したという。万福院は神社化に賛成した側であった。その万福院の住職宥明師が「こんぴらさん」の仏像2体を救ったのである。賛成した側であったからこそ、疑われずに持ち出すことが可能だったのかも知れない。

前回紹介した「六大新報」の記事では、いつ頃金刀比羅宮による仏像等の破壊があったかがはっきりしなかったが、元岡山藩主の池田章政公は明治二年の版籍奉還で岡山藩知事となり、明治4年11月の廃藩置県で免官となっているので、明治4年の秋までに仏像破壊等があり、その直前に万福院の住職宥明師が二体の仏像を持ち出したか、破壊活動中に暴風が吹いて神埼勝海総督が気絶したとされるタイミングを狙って持ち出したか良く分からないが、いずれにせよ暗夜に運び出して、大変な苦労をして角南助五郎宅に持ち込んだことと思われる。そして池田章政知事の指示で知事の祈願寺の円務院に移された時は関係者の誰もが、「これで大丈夫だ」と安心したことであろう。

ところが、先程記したとおり廃藩置県で旧藩主は知事を解任されて東京に移り、旧藩主が持ち込みを指示した円務院も、廃仏毀釈の影響で明治5年に上石井にあった興国山長延寺に合併して同所に移り、長延寺の寺号を廃して常住寺と称した後、和気郡藤野村南光院に合併移転し、ついで大正8年2月22日現在の岡山市門田の地に移り現在は金剛山常住寺円務院と呼ぶなど大変ややこしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-okayama-kadota-zyouzyuuzi.htm 
とにかく、二体の仏像は何度も場所を変えながら数奇な運命を経て明治15年3月に西大寺住職の長田光阿(ながたこうあ)によって、西大寺観音院牛玉所殿に迎えられたのである。

四国旅行の帰りにこの仏像が見たくて西大寺観音院に立ち寄ったのだが、残念ながら秘仏のために一般公開はしていなかった。



寺の僧侶によると、この二体の秘仏が安置されている牛玉所殿は現在改築中で、今年の11月3日に落慶法要が営まれるとのことである。その時の主役は牛玉大権現ではあるが、「こんぴらさん」の秘仏もこの時には見ることができるそうである。
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BLOGariコメント

こんばんは。
訪問ありがとうございました。

日々文化や宗教、歴史などを良く勉強されておられますね、とても私なんかには真似はできませんが、色々勉強になります。

またお暇な折に、お越しください。 




「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂

2010年04月08日 | 廃仏毀釈・神仏分離

「こんぴらさん」の長い石段を785段登ったところに、金刀比羅宮の御本宮があり、三穂津姫社があり、その隣に絵馬堂がある。



「絵馬堂」には大手や中小の船会社が航海の安全を祈念したり、大漁を祈願する絵馬が所狭しと吊るされている。これは「こんぴらさん」が海の神様だと信じられているからである。




船だけでなく飛行機や日本人で最初の宇宙飛行士となった秋山豊寛氏の絵馬まで並べられている。海の神様が、空まで面倒を見てくれると考えられているのが面白い。

しかし、肝心の航海の神様である「こんぴらさん」こと金毘羅大権現は、明治の廃仏毀釈以降は金刀比羅宮には存在していないのだ。

金刀比羅宮の公式ホームページには「金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。大物主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。」と書かれている。

この文章は変な文章だ。少なくとも廃仏毀釈までは「漁業航海…神徳を持つ神様として、…厚い信仰を集め」たのは金毘羅大権現の「こんぴら信仰」があったからなのだが、この文章は明治以降のことだけを語っているのか。

金毘羅大権現が廃仏して御祭神が変わってしまったことが遍く知れわたっては、参拝者が激減してしまう。そこで多くの観光客が、御祭神が変わったことを気づかずに参拝できるよう「金刀比羅宮」と、「金毘羅」とよく似た名前を考案したことは容易に想像がつく。



御祭神が「金毘羅大権現」だと思っている参拝者は今も多いと思うのだが、神社参拝の場合は御祭神を見ないで帰るので何も気づかずに参拝して帰ることになってしまう。

前回このブログで、廃仏毀釈の時に神社化に反対した僧侶がいたことを記した。
当時松尾寺には金光院があり、その支配下に真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があったが、そのうちの尊勝院、普門院がその当時神社化に強く反対したらしい。
その普門院が金毘羅大権現、釈迦如来等を引き継いで松尾寺と名を変えて法灯を継いだのだが、その松尾寺が明治42年に金刀比羅宮を相手取り「現金刀比羅宮の建物・宝物は元来金刀比羅宮のものではなく、松尾寺のものである。」とする訴訟を起こしていることを見つけて興味を覚えた。
いろいろネットで調べると、次のサイトに「六大新報」という宗教新聞に訴訟に至るまでの両者交渉経緯についての面白い記事(明治41年12月20日付)が転載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_kotohira.htm
簡単に記事を紹介すると、
明治元年9月:松尾寺金光院の宥常は復飾改名し宮司となり、僧侶二十数名のうち2,3の還俗者を除いては一時金を得て四散したが、普門院宥暁のみは強硬に理を持って、寺院維持を主張した。そこでついに松尾寺一山の堂塔を旧照明寺(寺跡あり)に移し、松尾寺の 法灯を継承することを条件に、松尾寺の私有財産を売却し、家来に分配した。
仏像仏具経巻その他什器は宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に格納し、一切の山規寺法などの書類を普門院宥暁に渡した。

明治4年に普門院を金光院の別邸の地に放逐し、宥常は金堂に格納した仏像・仏具を宥暁に引き渡そうとしたが、普門院宥暁は盛大なる引渡し儀式を計画したため、社務所側では再び維新以前の状態に戻ること(金毘羅大権現は寺院であり)を恐れ、前約束は反故にし、一切の仏像などを焼却することに決定した。
一切の物件は元神護院還俗・神埼勝海が総督になり、浦の谷に持ち行き、仁王尊をはじめ仏像仏具経巻などの大過を焼却した。 その折、宥盛法印の木造を火中すると暴風が起き総督は気絶したという。焼却されなかった物もこの騒動で皆紛失した。

その後3代にわたり、松尾寺は社務所と交渉するも回復策に尽力したのだが、社務所側の抵抗が強く事態は好転しなかったので、終に訴訟に及んだとの経緯である。

この訴訟は明治43年7月に裁判所で判決が出て、原告の請求を棄却している。
棄却理由は、明治維新の改革で金光院は還俗し、金刀比羅宮に一切を譲った。この時点で松尾寺金光院は消滅している。現松尾寺はその所有権を主張する正統性はない、というような内容だったそうだ。

松尾寺は、今も金刀比羅宮の参道を外れて海の科学館の近くにあるようである。明治のあの時期に普門院宥暁が黙って宥常から仏像仏具を受け取っていれば、多くの文化財が残されたことだろう。

これだけ由緒のある名所旧跡でありながら、金刀比羅宮には重要文化財はあっても国宝が1件も存在しないのは以上記した経緯によるものである。 
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BLOGariコメント

おはようございます。

流石、詳しく書いておられるのには脱帽です。

私は、昨年の4月26日~27日にかけて、家内と丸亀から金毘羅さんへ旅行しましたが、石段のほんの取っ掛かりから引き返して本宮へはお参りしませんでした。

事前にいろいろ知識を蓄えて行けば、また、より深く参詣出来ますね。
 
 
いつも訪問していただきありがとうございます。

数年前なら、名所旧跡を巡る旅行は行って帰るだけだったのですが、こんなブログを去年の秋から始めてから、ネタ探しでいろいろ調べることが多くなり、そのおかげでいろんなことに気付いたりして、今まで以上に旅行やドライブが楽しくなりました。

事前に調べたことが7割、事後で調べてわかったことが3割くらいでいろいろ考えて書いていますが、熱心に読んでいただいている人が沢山おられると大変励みになります。

じいさんのお孫さん、とてもかわいいですね。お孫さんの表情で、じいさんが愛されていることがわかります。

これからも、ちょくちょくじいさんのサイトを訪問させていただきます。



明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」

2010年04月05日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回は先週行った徳島・香川方面旅行の1日目のことを書いた。その日は祖谷のホテルで一泊し、2日目は「こんぴらさん」に向かう旅程だ。

「こんぴらさん」へは今まで一度も行ったことがなかったのだが、急にここに行きたくなったのは昨年来廃仏毀釈に興味を覚えて調べているうちに、廃仏毀釈が起こるまではここは象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院であったことを知ったからである。



上の絵図は江戸時代の「金毘羅参詣名所図会」の象頭山金光院松尾寺の図だが、左に多宝塔が描かれているのがわかる。

松尾寺の開基は805年とかなり古く、金比羅大権現が守護神だったのだが、「金毘羅」とは梵後(インドの古代語)のKumbhiraの音訳で、「雑阿含経」や「金光明経」、「大宝積経」、「薬師如来本願経」に出てくる印度仏教の神であり仏教守護の神である。

ところが明治に入って、「凡そ神と名のつくものはすべて日本神道のもの」という狂信により、仏教施設が徹底的に破壊してしまった。そして、誰もが今も「こんぴらさん」と呼んでいる施設名を、仏教色のない「金刀比羅宮」とし、町の名前もご丁寧に明治六年に「金毘羅町」から「琴平町」に改称している。

佐伯恵達氏の著書「廃仏毀釈100年」には「明治元年の令達によって、別当職の僧宥常は還俗して琴陵宥常と改名し、金毘羅を改めて金刀比羅宮となし、その宮司となったのです。千古以来の建築物は、仏像仏具類を廃棄して神社にしてしまいました。すなわち、阿弥陀堂が若比売社、観音堂が大年社、薬師堂が旭社、不動明王が津嶋神社、摩利支天堂・毘沙門堂が常盤神社、日子神社、孔雀堂が天満宮、多宝塔は明治三年六月に打ちこわし、経蔵や文庫・鐘楼も打ちこわし、大門は左右金剛力士像を撤去し、二天門も左右の多聞天、持国天の二像を撤去し、万灯堂は火産霊社に、大行事堂は産須毘社に、行者堂は明治五年にうちこわし、山神社は大山祇社と、ことごとく名前を変えて神社として使用することになりました。…こうして、金毘羅大権現も、祭神としての大物主神や崇徳天皇へとすり替えられてしまいました。(引用終わり)」と、書かれている。
ということは、今の「こんぴらさん」には金毘羅大権現はなく、根強いこんぴら信仰に基づく参拝が途絶えないように、良く似た名前の神社名に変えたということだ。
参考までに元禄期の地図と、平成の地図を用意したので、見較べていただきたい。



これは徹底した文化破壊であり腹立たしいのだが、なぜこのような歴史的事実が正しく伝えられないのだろうか。

金毘羅大権現の別当職の僧宥常は、明治元年3月に神仏分離令が出て翌4月には大権現は日本古来の神ではない旨の上申書を提出したが、翌5月には豹変し大国主命と同体であると認める嘆願書を提出している。6月には松尾寺の堂宇を改廃する旨申告し、琴平神社と改名までしている。

この時に神社化に反対した僧侶も少なからずいたようだが、別当職の僧宥常に信者を守り歴史ある文化財を何とか守ろうとした姿が見えてこない。見えてくるのは、自分自身の保身ばかりではないか。

この時期に松尾寺の僧侶がどういう行動をとったかは次回に記すことにして、話を先週の旅行に戻そう。
祖谷のホテルを出て1時間半くらいで目的地近辺に到着し、民間の駐車場に車を預けた。
商店が並ぶ筋を抜けていよいよ階段を上り始める。



最初の施設は365段目にある「大門」。
この大門には左右に金剛力士像があったはずなのだが、今は人形のような随身像が置かれている。



途中で「宝物館」に立ち寄る。1階には三十六歌仙の絵と歌がかかれた絵などが展示されているが、2階に上がると、奥の方にこんな阿弥陀如来像が展示されていた。


この仏像は廃仏毀釈によって川にでも投げ込まれたのであろうか、顔などの輪郭が殆どわからなくなってしまっている。このような破損仏が3体ほど、何の解説文もなく並べられていたが、何故、仏像としては価値を失ったものを「宝物館」に展示するのだろうと考え込んでしまった。

次に「書院」に入る。ここは松尾寺の本坊・金光院のあったところで、円山応挙の障壁画などが残されている。



これが629段目の「旭社」。


以前は松尾寺の金堂であり須弥檀があって仏像が並んでいたのだろうが、今では中はこんな状態になっている。



ここが785段目の金刀比羅宮の御本宮。



この日は快晴で、展望台から眺める讃岐平野の眺めは良かった。 


奥の院までは1368段。夫婦とも杖なしで完走して帰路に着いた。

昼食は、いろいろ讃岐うどんのおいしい店をネットで調べていたところに車で行くつもりだったのだが、おなかがすいたので参道の商店街にある「こんぴらうどん」に入る。職人が足踏みし手打ちして包丁切りしたばかりの麺でいただいた「生しょうゆうどん」は、歯ごたえがよく旨かったので、お土産のうどんは全部ここで買って帰ることにした。

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明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち

2010年03月05日 | 廃仏毀釈・神仏分離


私が京都のお寺に生まれたことは何度かこのブログに書いたが、子供のころに何の理由もなく「くそ坊主」とか「洟垂れ小僧」などと罵られていやな思いをするようなことが何度かあった。
このようなことは私に限らずお寺で生まれた人は少なからず経験したとは思うのだが、私が時々このブログで紹介する「廃仏毀釈百年」という本の著者である佐伯恵達氏も宮崎県のお寺の息子で、著書の中で「毎日のようにののしられ…、学校に行っても、一人の先生を除いて他の先生はすべて寺院を軽蔑し、…学校へ行くのがつらく、中学時代は、自分が寺などにどうして生まれたのだろうと、自分の出生をのろったものです。」と子供の頃を振り返っておられる。



この著書の中で佐伯氏は、このように僧侶を馬鹿にするような風潮は廃仏毀釈以降の事だと記されており目からウロコが落ちた。

少し長いがしばらく引用させて頂く。(同書p23-24) 
「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者からの布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職と言う名の乞食でした。生活の保障はなかったのです。しかも明治22年6月以来被選挙権は奪われ、同27年2月には選挙運動を禁止され、同34年11月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。」
「一夜にして神職は国家官吏となり、住職は(収入源を)剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧と言わずして何と言えるでしょう。」
「寺院から菊の紋章を取り外し(明治2年)、寺領を没収し(同4年)、僧侶に肉食妻帯させて(同5年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同5年)、傍らでは神職に給料制度をしき(同6年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同6年)、学校から神道以外の宗教教育を締め出し(同39年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。しかし、これはもう誰も知りません。教育とは恐ろしいものです。…」(引用終わり) 

紹介した部分は、同書のサワリの部分で、本文にはもっと詳しく書かれている。

たとえば、
「明治27年(1894)日清戦争開始の年。
<僧侶の参政権剥奪>
○二月、(神官)僧侶の議員選挙に関するを禁ず。(内務省訓令)」
※…神官は国家的に保証された官吏ですので、この訓令も実質的には僧侶のみに発せられたものです。婦人参政権の事もありますが、僧侶は婦人なみに取り扱われたのです。僧侶は選挙運動もできなかったのです。…以来昭和20年まで約50年間それは続きました。(同書p311)」

佐伯氏のこの本には「明治政府がこんなことまでしたのか」と驚くようなことがいっぱい書かれており、しかも政府の通達の番号などの根拠まで明示されている。しっかりと事実を踏まえた寺院の立場からの歴史記述に、私の明治の歴史の見方を一変させてくれた。収入源を大きく断たれ、大変厳しい生活を余儀なくされ、社会的地位や基本的な権利も剥奪された僧侶が大変な思いをして、信者の力も得て、今の多くの寺院は守られてきたのである。 

普通の歴史の書物には明治政府は廃仏毀釈とは関係がないような書き方がされており、私もこの本を読むまではそう理解していた。しかしよくよく考えると、いつの時代においても、いかなる国においても為政者にとって都合の悪いことは正史から消される可能性が高いのである。何故ならば、時の為政者を批判する歴史が正史であれば、国政が常に批判されて政治が安定するはずがないからである。(但し今の日本昭和史は例外)

しかし、今の時代に明治政府にとって都合の悪い事実を隠す理由がどこにあるのだろうか。太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまっている。
幕末から明治にかけての歴史を、いい面も悪い面もバランス良く書けないものであろうか。今のようなキレイゴトだけの正史で明治時代を理解することが続けば、いずれ文化財を博物館でしか守れない時代が来るような気がする。
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コメント
こんにちは。

とっても、内容の濃いブログですね。
なので、時間を見つけてゆっくりと拝見させていただきます。
写真もお上手のようですし。

どうぞよろしくお願いいたします♪
【すぎ】
 
 
【すぎ】さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

当初は軽いものを書くつもりで日記風のブログ名をつけてしまいましたが、歴史の話題を書きだすといろいろ調べたくなってきて、「硬い」内容のものが多くなってしまいました。

【すぎ】さんのブログも覗かせていただきましたが、確かに日本語は難しいですね。私も、普段から間違った使い方をしていることも多いのだと思いますが、【すぎ】さんのブログで勉強させていただきます。
 
 
おはようございます!!
初めまして!!

歴史プログランキングで、いつも前後におられるので、読みにまいりました。
同じプログでも、「中身の濃さと有益さ」が違いますね。
脱帽です!!
私の家にも「廃仏毀釈」の難を逃れたのであろう大切な仏像があったんですが。(寺から預かったであろう)
残念なことに、太平洋戦争で焼失してしまいました。
ですから、本当にこの政策には「怒り」を覚えます。

明治新政府は、寺社奉行のもと「江戸幕府の権威」がお寺を通して民衆に浸透していたのを切り離したかったのだと思います。
それまでは「神仏習合」で、日本は、良い文化をうんでいたのに。私の地域には、珍しい「神仏習合」のお寺&神社がありますよ。
このような愚行・文化破壊・信仰心の破壊を行ったことが、「戦争への道」「軍国主義」につながったのだと思います。

昔の歴史事典には、載っていたんですが。
地蔵さんの首を切ったり、山頂のお堂を破壊したり。

大変に勉強になりました。ありがとうございました。
では、お元気で!!
 
 
ろくまつせんじょうさん、コメントありがとうございます。

ご自宅に難を逃れた仏像があったというのはすごいですね。
戦争で焼けてしまったのは残念ですが…。

梅原猛さんが、もし日本に廃仏毀釈がなければ今の国宝は3倍くらいは残っているという趣旨の発言をされたそうですが、確かにこの施策により、多くの文化財を失ってしまったたことは非常に残念なことです。

しかし、当時の日本を取り巻く環境を考えると、ロシアなどの諸外国から侵略される可能性が少なからずありました。日本文化を守ることよりも富国強兵で国の力を高める明治政府の施策は基本的には正しかったと思いますが、少し文化の犠牲、特に仏教界の犠牲が大きかったように思います。
とは言いながら、もし日本が外国から侵略されていたら、この程度の文化財破壊や流出では済まなかったはずですね。

地味なブログですが、これからも時々覗いてみてください。
ろくまつせんじょうさんのブログも、これからちょくちょく覗かせていただきます。
 
 
初めてコメントさせて頂きます(^人^)
廃仏毀釈について、調べていると、先生のブログに出会いました!
早速、佐伯先生の「廃仏毀釈百年」を入手し、読みました。

第四章 (二)神社の開基はみんな僧侶である
      (四)結婚式は仏式が元祖である

等を読み、Wikiで調べてみましたが、全く出てきません。
色々な文献に当たられた先生に、是非お伺いしたいのは、

これは、(二)一部の神社の開基は、僧侶であった
     (四)ある一部の地方では、披露宴は仏式だった

ということだったのでしょうか?
それとも、佐伯先生の説が、正しいのでしょうか?

アドバイス!どうぞ、宜しくお願い致しますm(_ _)m 合掌
 
 
7676amidaさん、コメントありがとうございます。

仏教の伝来についてはいろいろ説がありますが、6世紀には蘇我氏と物部氏との間に仏教を受容するかどうかについて論争がありました。確実に言えることは、それ以前は仏教はわが国には存在しなかったということになります。

おそらく神道はもっと古くから存在していたので、佐伯氏の言葉をそのまま受け取ることは出来ないでしょう。仏教伝来以前に、結婚式がなかったということも考えにくいところです。

但し、仏教が入ってから神道の行事や建物が、仏教の影響をかなり受けたことは間違いがないと思います。
 
 
どうも有難うございます。

先生の研究成果を参考にさせて頂いて、
「仏教と神道」の歴史的な関りを、
Youtube動画でUPさせて頂きたいと存じます。

本当に、よい出会いを賜りました。心から、感謝致します!
これからも、勢力的なご研鑽!期待しています!(^人^)namo!
 
 
7676amidaさん、コメントありがとうございます。気に入っていただき嬉しいです。動画が出来ましたら案内してください。

廃仏毀釈は私が歴史に興味を覚えたきっかけになったテーマです。
このブロガリでは容量がいっぱいになったので、昨年初にFC2ブログに移転しましたが、FC2でもこのテーマでいろいろ書いていますので、良かったら覗いてみてください。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/
 
 
>動画が出来ましたら案内してください。
先生に、ご覧頂けるなんて、光栄です(^人^)。

前作は、「マンガで綴る! 日本の仏教」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=_h7Tl1Rcojg

> FC2でもこのテーマでいろいろ書いていますので
有難うございます。早速、読ませて頂きます。

また、アドバイス、どうぞヨロシクお願い致します。
 
 
以前、お話ししておりました、「日本の神さま仏さま」動画の第1話の試作品が完成しました。
お忙しいとは存じますが、先生の忌憚のない、ご意見、ご指摘を頂けましたら、無上の光栄でございます(^人^)

https://youtu.be/4tbS8RZ0Z_w
 
 
7676amidaさん、わかりやすくてよく出来た動画ですね。史実を押さえて、なかなか説得力があります。感心しました。
拙ブログが少しでも役に立ったようで、うれしいです。

廃仏毀釈はまだまだ一般的には知られていないので、講演に来られた方がどのような反応をされたか知りたいところです。続編も楽しみにしています。


ご返信ありがとうございます。

動画「日本の神さま仏さま」 公開バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=R8Uur3in538

先生のお蔭で、神道と仏教の関係が立体的に分かるようになりました。
現在編集中の「廃仏毀釈 編」も、皆さん、ビックリしながら、
お聞きくださいました。

より多くの方に、知って頂くために、先生のブログのアドレス・映像等を
載せさせて頂いてよろしいでしょうか?
どうぞ!ご一考下さい(^人^)
 
 
7676amidaさん、コメントありがとうございます。

専門家から見れば誤ったことを書いている部分があるかもしれませんが、こういう見方もあるということで紹介していただければ嬉しいです。

私のブログの名前やURL、画像などは使って頂いて結構です。
ただこのブログは、2年前にFC2に古い記事も大半を移転させましたので、できれば現在利用中のブログURL(下記)で紹介いただくとありがたいです。
「しばやんの日々」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/
 
 
ご快諾!心から感謝いたします(^人^)。

了解いたしました。 先生のご厚情!心から、心から感謝いたします(T人T)namo…
 
 
しばやん先生 明けまして おめででとうございます(^人^)

お蔭さまで『日本の神さま仏さま その二 廃仏毀釈』が出来ました。
https://www.youtube.com/watch?v=Yiarkjcvi6M

注意点その他、頂けましたら、早速編集しなおしまして、
UPさせて頂きたいと存じます。

どうぞ、今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m。
 
 
7676amidaさん、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

よく出来ていますね。あまりうまく語られるのに感心してしまいました。良く読んで頂いただけでも嬉しいですが、7676amidaさんが独自で調べられたこともあり、勉強になります。
話がお上手なので、かなり反響があったのではないでしょうか。

1か所だけ、2分と18分ごろに出てくる画面の「廃仏希釈とは?」は「廃仏毀釈とは?」の誤りですね。修正された方が良いと思います。

天皇暗殺説まで話されるのは意外でしたが、私が初めてこの事を書いたときは、いやがらせのようなコメントが何件か届きました。今は、この程度なら大丈夫なのでしょうか。


2016年01月06日(水) 22:45 by 7676amida  コメント削除
お褒めの言葉!恐縮ですm(_ _;)m。

はい!先生のご研究の成果のお蔭で、大反響を頂きました。

> 「廃仏希釈とは?」は「廃仏毀釈とは?」
ありがとうございます(^^;)。 早速直します~♪

> いやがらせのようなコメント
やはり!それ以外は、文句の付け様がないのだと思われます。
この説は、証拠が曖昧なので、突っ込み所ですよね!
また、HPやブログとちがって、まだまだ開拓途上の動画の部門だけに、嫌がらせコメも来ると思います。

ただ一つ…、先生のURLを貼り付ける事で、先生にご迷惑が掛かるのではないか…?それだけが心配でございます…m(_ _;)m。

お忙しい中、お時間をとって頂き、貴重なアドバイスを頂き、心から感謝致します(^人^)。
本当~に、お世話になりました!有難うございます(^人^)namo~♪ 

明治の皇室と仏教

2010年02月25日 | 廃仏毀釈・神仏分離

5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。



暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。

昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」p295)とある。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのだろうが、真相はどうだったのか。

色々調べていくと、明治天皇暗殺説まである。それくらいの事がなければ、皇族すべてが神仏分離に従うということは起こり得ないようにも思える。



明治天皇の即位の頃の写真が「幕末写真館」というサイトで見つかったが、この写真がもし本物で中心にいるのが明治天皇であれば、我々がよく目にする明治天皇の写真とはあまりにも異なる。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html 



即位前と後では顔も体格も字も教養も運動能力も全く異なるというのが事実であれば、すり替えられたと考えるのが自然である。すり替えで天皇となった人物の名前が南朝の末裔の大室寅之祐ということまでわかっているというのだが、皆さんは次のサイトを読んでどう思われますか。

古川宏という士族の末裔の方が「士族家庭史研究会」というサイトで、明治天皇の出自についてかなり詳しく調べておられる。
https://archive.is/Obu7
あるいは竹下義朗氏の「帝国電網省」の記事もすごく説得力がある。
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4.html
現在とは違って当時は天皇の顔を知る者はごく一部であったから、皇族を除いてはすり替えてもわかる人がごく一部しかいなかったことは確実で、こういうことができる条件は十分にあったのである。

さらにいろいろ調べると、皇族の中でも明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否した女性がいたことを次のサイトで知ってほっとした。 
http://naagita.hatenablog.com/entry/20090416/p1



「中外日報」という仏教系の新聞に歴史家の石川泰志氏が寄稿したコラムだが、廃仏毀釈の荒波に抗して日本仏教を守り抜いた3人の皇族女性を紹介している。3人とは伏見宮邦家親王の娘で出家していた誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡)、日榮尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡)だが、しばらく記事を引用すると、

「善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は「一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念仏弘通の為に捧げよう」と決意、善光寺存亡の危機を救った。
 文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振る舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。
 日榮尼は明治元年当時まだ十一歳ながら還俗を迫る使者に「日榮は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とする共還俗はいたしませぬ」と断言、不惜身命の勇気で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。
 三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にもかかわらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった。」と書かれている。

この時に男性の皇族はすべて還俗したそうだが、この3人の女性が日本の仏教の危機を救ってくれた貢献者であることは間違いがない。 
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BLOGariコメント

古い記事にコメントしてごめんなさい。

村雲御所の日榮尼さまのこと、調べていたのですが、今まで存じませんでした。
本当に、貴重な情報、ありがとうございます。

うちが調べているところでは、他にも、霊鑑寺の尼門跡様も還俗なさらなかったみたいです。
 
 
とても懐かしい記事にコメント頂き嬉しいです。

ブログを始めた頃は、歴史に話題を絞る方針はなくて、いろんなテーマで書いていましたが、その当時興味を持っていた廃仏毀釈のことを書き始めてから、更に詳しく調べることの楽しさを覚えて、次第に歴史に絞るようになっていきました。

日榮尼のことは詳しく知っていたわけではなかったのですが、「中外日報」の記事を見て興味を覚えて引用させていただきました。

しかし、みいにゃんさんは詳しく調べられているのですね。霊鑑寺の尼門跡様のことは、何も知らないので申し訳ないです。

廃仏毀釈に興味をお持ちでしたら、ブログ村の「廃仏毀釈」に、私の記事を置いています。良かったら立ち寄ってみてください。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html





一度神社になった国宝吉野蔵王堂

2010年02月21日 | 廃仏毀釈・神仏分離



3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。



ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。

最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。

今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。

吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの社寺があり、以前は、山全体を金峯山寺と呼ばれていた。



上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が蔵王堂である。蔵王堂の近くに鳥居があるが、これが「銅(かね)の鳥居」と呼ばれる日本最古の銅の鳥居である。
修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を3度唱えて入山するそうだ。
今でこそ鳥居は神社の象徴と誰でも考えるが、昔はそうではなかったらしく、その讃仏歌がこの鳥居に刻まれているらしい。鳥居の扁額は空海の筆によるものとされ、「発心門」と書かれているそうだ。要するにもともとは、鳥居は「門」であって、仏教的色彩が強いものであったのだ。

蔵王堂に祀られているのは蔵王権現だが、「権現」とは「仏や菩薩が人々を救うために、この世に仮の姿を現した者」という意味で、蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴がある。



このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本で独自に創造されたものだと考えられている。画像の蔵王権現像はパンフレットのものだが、残念ながら秘仏として普段は公開されていない。

この吉野全山に神仏分離令が適用されたのが、慶応4年(1868)6月のことで、それは蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよというものだった。(復飾=僧が還俗すること) 

もともと吉野は神仏習合の地であり金精明神などの神社も存在したが、圧倒的に仏教色の強い地域であった。この絶好の機会に全山に勢力を拡大しようとした神職身分の者もいたが、明治元年から三年の段階では彼らの策動は成功しなかった。

しかし、明治四年から六年にかけて、吉野の神仏分離を徹底し、山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治七年には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像仏具は除去されてしまう。山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができないのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたてた。また僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したのである。



この写真は金峰神社だが、こんなしょぼい神社を吉野全山の本社と言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならず、参詣者は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したそうである。このような民衆の不満を背景にして、明治政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治十九年に二つの蔵王堂が仏教に復したのである。

同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったが、吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。

寺院に復することができたのは、金峯山という場所が7世紀に役小角(えんのおづぬ:山岳修行者)が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府の言うがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や東本願寺や吉野蔵王堂は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、文化財を今に残すことができたのではないか。

いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。 
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明治期の危機を乗り越えた東大寺

2010年02月14日 | 廃仏毀釈・神仏分離

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。



ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。



廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。

当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしいのだ。

東大寺内の伽藍堂宇の造営修理に携わる勧進所が江戸時代の修理の際より東大寺塔頭の龍松院にあり、それ以来東大寺当局には大仏殿の管理権がなかったのだが、明治になって勧進職自体が廃止されてしまって、東大寺は大仏殿の修理のめどがつかなくなってしまった。

明治3年に東大寺は奈良県に、大勧進職の職名を復活することを嘆願したのだが、「大仏殿は東大寺全体で管理すべきものであり、寺禄により修理するように」との指示がなされ、次に明治政府に同様の申し出をしたが「全国で廃止している勧進職を復活することはできない」と突き放されている。

そして明治4年には寺領上知の令で土地が没収され、大きな収入源が断たれてしまい、各堂の賽銭などの収入では、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態になった。

さらに大きな問題は、それまで大仏殿の管理権を持っていた龍松院側が東大寺当局に大仏殿を引き渡すことを拒んだことである。本来ならば、勧進職である龍松院は大仏殿を修理する手はずを整えなければならなかったのであるが、大仏殿の賽銭収入や信者や有志から修繕費用を集める利権や資金などは手放したくなかったのだ。

ただしこの問題は奈良県が通達を出して、明治5年に大仏殿の管理権がようやく東大寺当局に移ることになるが、勧進職の復活を認めてもらえないために、修繕費用を集めることもできない状態が長く続いた。

年数がたち、天竜寺や東福寺で勧進許可の前例が出て、明治15年になって東大寺は大阪府(以前のブログで書いたように、当時は奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。しかしながら大阪府は、国からの寄付を拒否し、信者の布施と勧進だけを許可している。要するに、寺の修理の資金は自分で工面せよという考え方であった。

ところが明治政府の対応に若干の変化が出てくる。10月に大仏殿修理に関する寄付勧進許可が出た際に、宮内庁から500円の下賜があった。

東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始するのだが、当初はなかなか資金が集まらなかったようである。当初の予算は42700円であったが、明治16年から25年までに大仏会で集めた資金は4600円に過ぎなかった。

そこで東大寺は明治25年に大仏殿営繕費下賜願いを明治政府に提出したところ、今度は寺社局長から3500円、内務省から6500円もの助成金が与えられ、ようやく修理が進むかと思われたが、あいにく明治27年(1894)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約4倍の18万円に跳ね上がり、工事が中断されてしまう。

それでも多くの人の資金協力により明治36年(1903)に修理準備工事に入るも、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。

明治39年に、再度予算を687,221円88銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治44年(1911)で、工事が完成して大仏殿落慶総供養が行われたのはなんと大正4年(1915)のことであった。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろうに。

貴重な文化財を修理することには莫大なコストがかかるものではあるが、これを寺院の自助努力だけでは到底不可能である。明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

文化財を後世に残すためには当事者の努力が必要であることは言うまでもないが、信者や国民に守る意思があり、国にもその意思があってはじめて守れるものなのである。 
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BLOGariコメント

こんにちは。

またまた、素晴らしい話をありがとうございます。
廃仏毀釈の嵐は東大寺の大仏殿にも及んでいたのですね。
奈良には10数年前に行ってきりです。大仏殿も。今では良く覚えていません。写真やTVの映像の影響が大きいからでしょうか。

工事は、すると決めたれ早くしないと大変な費用になりますね。鉄道やダム、基地の問題など早く片付けてもらいたいと思います。長引けば長引くほどお金がかかれと云う事ですね。
 
 
hanasanさん、いつもコメントありがとうございます。

廃仏毀釈の嵐の中を、東大寺や法隆寺や東本願寺などの僧侶は、興福寺や妙楽寺や内山永久寺のように全員還俗して神官になるようなことはせず、お寺と文化財を守るために智恵を絞り体を張って頑張ったことが大きかったのだと思います。もし、当事者の頑張りがなければ、この時期にもっと多くの文化財が失われていたのだと思います。

私が明治初期の廃仏毀釈に興味を持ったのは、比較的最近のことで、それまでは、日本人は古い文化財を大切する国柄だから、これだけの古いお寺や仏像が残っているとばかり思っていましたが、最近は木造の文化財をこれだけの長い期間守ってきたということが、本当に凄い事なのだということがわかってきました。

昔の人がこんなに苦労をして、守ってきたことをもっと知るべきではないかと思って調べてきたことを、書きたくなったのがブログを始めたひとつのきっかけなのですが、いつも読んでいただいてうれしいです。

 

 


明治の初期に、鹿児島県で何があったのか

2010年02月07日 | 廃仏毀釈・神仏分離

以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。
薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装本である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装本もある。



江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、今の鹿児島県には、建築物でも古いものがほとんどなく、わずかに室町時代に建築された神社の建物が2件と江戸時代以降に建築された神社と旧家の建物が数件重要文化財として残っているだけだ。仏教関係では建築物だけでなく、仏像や仏画なども文化財となるようなものは何もない。
その理由は簡単である。明治の廃仏毀釈で寺院が徹底的に破壊されたからである。現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。

「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられたということだ。

そもそも、薩摩藩累代の藩主は熱心な仏教信者であり厚く寺院を保護してきたのだが、藩主島津忠義の後見役の島津久光は決してそうではなかった。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」によると、幕末期の薩摩藩において仏教を排撃せよとする平田篤胤の思想が流行し、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」との考えで、徹底的に寺院が破壊されていった。
また島津藩累代藩主の菩提寺も、島津久光自らがすべて神社にしてしまった。 すなわち浄光明寺を龍尾神社に、日新寺を竹田神社に、南林寺を松尾神社に、妙谷寺を太平神社に、妙円寺を徳重神社に、福昌寺を長谷神社とした。



上の写真は、「三国名勝図会」にある福昌寺の図だが、この寺院は応永元年(1394)島津家七代元久が建てた名刹で日本三大僧録所と呼ばれた大きな寺院であったが、今は玉龍高校の敷地となり、その近くに歴代島津家の6代師久から28代斉彬までの当主の墓や家族の墓が残されているだけだ。

久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されているそうだ。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」

こんな考え方の役人が全国にいたのだから、どれだけの文化財が無くなってもおかしくない。



上の画像は小松帯刀が眠る園林寺跡の仁王像だが、インターネットで鹿児島県の廃仏毀釈の写真を検索するとこのような首のない仏像などがいくらも出てくる。しかし鹿児島ばかりが激しかったわけではない。他県では殺人事件もあったようだ。
「例えば、宮崎市古城の伊萬福寺の場合は、住持の僧が暴徒によって山上の崖から蹴落とされたという口碑があるし、隣県大分の国東の富貴寺の場合などは、僧侶を皆殺しにして土に埋めました。今にその供養碑が境内に残っています。(佐伯恵達氏:前掲書)」

通史では廃仏毀釈については「国学や神道の思想に共感する人々の行動が一部で非常に過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度で淡々と書かれているが、このような文章では、この時代の空気を到底理解することはできないと思う。 
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BLOGariコメント

2010年02月07日(日) 22:53 by 順ちゃんの夫
こんばんは、しばやんさん。
いつも興味深い記事をありがとうございます。

廃仏毀釈は教科書では習っていても、文化財の喪失という観点から考えたことはありませんでした。これとは逆に、飛鳥時代に仏教が伝来してから、これを受容する過程も一騒動だったのでしょう・・・蘇我氏と物部氏が逆になっていたら???

ところで、うろ覚えなんですが。
「名所図会」シリーズは「都」「大和」「摂津」などは秋里某の筆になったが、「江戸」はまた別の作者が真似をしたんだ、と何かで呼んだ覚えがあるのですが・・・。

中途半端ですみません。また教えて下さい。
 
 
順ちゃんの夫さん、コメントありがとうございます。時々ブログを覗かせていただいていますが、落語の知識がなくていつも感心するばかりです。落語もいろいろ勉強するとおもしろそうですね。

御指摘の通り、都名所図会、大和名所図会、和泉名所図会、摂津名所図会などは秋里籬島という人が書いていますが、江戸名所図会という本は神田の町名主であった斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の三代にわたって書き継がれたものだそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A

ついでに、ブログで書いた薩藩名勝志は本田親孚という人が、三国名勝図会は橋口兼古、五代秀尭、橋口兼柄らが書いているようです。
 
 
こんにちは。

廃仏毀釈は鹿児島では凄かったのですね。
明治政府が単に寺院が多いので減らせ、さもなくば神社にせよと云った問題ではなかったのですね。
全く知りませんでした。
 
 
hanasanさん、コメントありがとうございます。

廃仏毀釈の激しさは地域によって差がありますが、津和野藩、隠岐、佐渡、松本藩、苗木藩、富山藩、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、高鍋藩、肥沃藩等では激しかったと言われています。

それ以外の藩でも、かなりの破壊活動が行われ、関東でも首なし地蔵があちこちで見られるのではないでしょうか。

このサイトでは川崎市の首なし地蔵の画像が出ていますが、全国レベルでこのようなことがあったのだと思います。
京都でもこのような地蔵を何度か見た記憶があります。

http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88
はい。首なし地蔵、確かに良く見ます。何も考えず、ただ何かの都合で首を折られたのかと思っていました。
これからはまた見方が変わって見える事でしょう。
勉強になります。 

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

2010年01月31日 | 廃仏毀釈・神仏分離

明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。

西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。

ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御所の警護や討幕運動の資金調達に奔走し、多額の軍費や兵糧米を献納したようである。

しかし永年徳川幕府と親密であっただけに、慶応4年の年始に行われた宮中会議においては、東本願寺を焼き打ちにする案が出されたことがあった。その時は「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出して事なきを得たが、その後廃仏毀釈で全国の寺院がいくつも廃絶されるにおよび、東本願寺も薩長勢力を中心とする明治政府から冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識していたのである。

この難局を乗り切るために、東本願寺がとった方策は、明治政府に平身低頭し、ひたすら忠誠を尽くすことであった。

一方、成立して間もない新政権にとってみれば当時ロシアの南下政策の脅威に対抗するために、北海道の開拓と移民の入植が急務であったが、その資金と労働力の調達が困難であった。



そこで、東本願寺は北海道の開拓に協力することを自ら申し出て、新政府に協力する意思表示をするのだが、実態は明治政府からの圧力により協力させられたのだと思う。

明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、悲願の旅が始まる。 一行は信者の寄進を呼び掛けつつ、越中、越後、酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は船で進んで青森に上陸するなど苦労しながら、函館にようやく7月に到着している。



東本願寺一行は尾去別(おさるべつ:現在の伊達市長和)を起点とし、洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸(ひらぎし:現在の札幌市豊平区)を結ぶルートの道路建設を開始し、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。工事は、明治3年7月から明治4年10月にかけて行われ、長さは約103kmで、これが現在の国道230号の基礎となったと言われている。



当時はもちろんショベルカーやダンプカーや電動機具のようなものはなく、すべて人力で土を掘り、石や土を運び、木を切り、根こそぎ掘るなどの作業がなされたことは言うまでもない。オオカミ等にも襲われながら大変な苦労をして出来上がった道路である。



上の写真は工事の最大の難所と呼ばれた中山峠に立つ、現如上人の銅像である。
実は、北海道の開拓はこの時期に東本願寺だけが協力させられたのではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると、政府は、東本願寺だけでなく明治2年9月17日に増上寺にも北海道静内郡および積丹等の土地の開拓を命じている。また12月3日には、仏光寺に北海道後志、石狩の地の開拓を命じている。

つまり明治政府は、廃仏毀釈で廃寺になるかも知れない寺院の危機をしたたかに利用し、寺院や信者の寄進による金で、北海道の開拓をはじめたということだ。

その後廃仏毀釈が下火になると、明治政府も寺院の協力を得ることができなくなり、その後は囚人やアイヌに過酷な労働をさせて北海道の開拓が進められることになる。

明治政府がこれだけ北海道の開拓を急いだのは、前述したとおりロシアの南下政策に対抗して国土を守るためにやむを得なかった背景がある。ロシアは1860年の北京条約により沿海州の一部を清から割譲され、極東を征服する準備を整えていたのである。明治政府が何もしなければ、北海道は容易にロシアに占領されていただろう。(沿海州の最大の都市「ウラジオストク」の名はロシア語で「極東を征服せよ」の意) 

通史を読んでもこれらの史実はほとんど書かれていないが、昔の人々がこんなに苦労して歴史ある寺院を現在に残していることや、国土を開拓した背景や努力は、いつまでも忘れるべきではないと思う。その先人の思いが理解できなければ、いつまでも我が国の文化や伝統を守ることも、ひいては国土を守ることも容易ではない。 
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文化財を守った法隆寺管主の英断

2010年01月20日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。



岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p) 

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。



この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。



ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。



当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_20_4.html
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次々に廃寺となった奈良の大寺院

2010年01月16日 | 廃仏毀釈・神仏分離

江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前があるが、それらはいずれも明治時代に姿を消した寺院である。

多武峰寺(妙楽寺)は前々回に書いたが、今の談山神社である。
一乗院は興福寺の門跡寺院であったが、廃仏毀釈により廃寺となり、跡地は奈良県庁となり現在は奈良地裁となっている。
大乗院も興福寺の門跡寺院であったが、同様に廃仏毀釈時に廃寺となり、跡地は現在奈良ホテルとなり、現在は大乗院の庭園だけが残っている。

内山永久寺は天理市杣之内町にかつて存在し、「太平記」に後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている寺院でもある。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であり、芭蕉も若い時期に「うち山や とざましらずの花ざかり」という句を残しているが、こんな歴史のある寺も廃仏毀釈で潰されてしまった。今回はこの寺のことを少し書いてみたい。



内山永久寺は鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光が12世紀のはじめに創建し、後に本時垂迹説の流行とともに石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺大乗院の権威を背景に栄えた寺院である。

最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、本堂、八角多宝塔、三重塔など50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、建物だけでなく仏像などに見るべきものが多かったと言われている。

江戸時代寛政3年に出版された「大和名所図会」という奈良の旅行案内書に内山永久寺の絵図があるが、この図面だけでもかなり大きな寺院であったことがわかる。



しかしながら明治の廃仏毀釈によりこの寺院の僧侶は全員還俗し、堂塔・坊舎はことごとく破壊されてしまった。

次の図面は、現在の地図に当時の伽藍を復元したものだが、これだけの建物が失われてしまった。



仏像・仏具などの多くは破壊されたり、焼却されたり海外に流出したが、東京美術学校長であった正木直彦氏の「十三松堂閑話録」に内山永久寺のこの頃の事が書かれているらしい。

その中には、永久寺廃寺の検分に役人が出向いた際に寺僧が還俗した証拠として、この役人の目前で本尊の文殊菩薩を薪割で頭から割ったことや、役人が仏像や仏具は庄屋中山平八郎に命じて預からせたが、年月とともに中山氏の個人所有になっていき、藤田(伝三郎)家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは、中山氏の蔵から運んだものであったことや、金泥の経巻を焼いてその灰から金をとる商売が起こった話などが書かれているそうだ。

海外に流出したものも少なくなくボストン美術館蔵の「四天王図」は鎌倉時代を代表する作品で、日本にあれば間違いなく国宝と言われている。
石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)は内山永久寺の住吉神社拝殿を移築したものであるし、東大寺の持国天、多門天(いずれも重要文化財)、藤田美術館蔵の両部大経感得図(国宝)など国内に現存しているものの多くが重要文化財・国宝指定を受けている。 現在この寺院がもし残っていれば、超一級の観光名所になっていたことは確実であろう。



現在では当時の敷地の大半は農地となり、ビニルハウスが一杯並んだ光景が悲しい。わずかに内山永久寺の石碑と案内図や芭蕉の句碑、後醍醐天皇が一時この寺院に身を隠された「萱御所跡」という碑が残されていることがネットで確認できる。

詳しく知りたい方は、次のサイトを参考にしてください。古い貴重な資料や図面や現在の写真などが満載です。

大和内山永久寺多宝塔
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
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BLOGariコメント

おはようございます。
はじめまして。
私は、1976年から25年間奈良市百楽園に住んでいました。
子供達は、神戸では無く、小学校から大学、社会人まで過ごした奈良が故郷だと言っています。
興福寺、東大寺、談山神社など詳しい縁起には疎いですが奈良は懐かしいです。
これからも楽しみに、ブログを訪ねさせて頂きます。
 
 
神戸の頑固じいさん、はじめまして。
読んでいただいてありがとうございます。

奈良や京都に古い寺院や神社がのこっているのは、長い間日本人がずっと文化財を守ってきたからだとずっと単純に考えていたのですが、昨年来廃仏毀釈の頃に興味を覚えて、いろいろ調べると信じられないような話がいっぱい出てきて、文化財を何百年も守り通すことは並大抵のことではないことにきづきました。毀すことは簡単ですが、守ることは大変なことなのだと思います。

次回は法隆寺の事を書こうと思います。

阪神大震災の時は、吹田でも大変な揺れでした。ふとんをとっさにかぶって、ちかくの箪笥が倒れないように一生懸命支えていたことを思い出しました。

これからも、時々覗いてみてください。私も時々覗かせていただきます。
とても、良い記事です。
あたしも、宇治方面に付いて似たことを調べていて、難儀しています。
とても参考になります。
 
 
みぃにゃんさん、コメントありがとうございます。

とても励みになります。 



寺院が神社に変身した談山神社

2010年01月08日 | 廃仏毀釈・神仏分離

3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。



事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。

昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。

このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長男の僧定恵が、父の鎌足の墓をこの地に移して十三重塔を造立し、680年に講堂が創建され妙楽寺と号し、その後701年に本堂が建築され、平安時代になると藤原氏の繁栄とともに隆盛したが、天台宗に転じて叡山の末寺となってからは興福寺と争い、度々興福寺の焼き討ちにあったといわれる。

江戸時代には寺領3000石、42坊の堂宇が存在したそうだが、廃仏毀釈の時に寺院のまま存続するか神社として存続するかで意見が割れ、結局神社として存続することになり、談山神社と名前を変えて、多くの仏像・仏具・経典などがその時に二束三文で売却されたり棄却されたらしい。

談山神社の名前の由来は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を倒す談合をこの多武峰で行い、後世この場所を「談(かた)らい山」と呼んだことによるとされる。



寛永3年(1791年)に出版された「大和名所図会」に、江戸時代の妙楽寺の案内図が書かれており、これと最近の談山神社の案内図と見比べると面白い。妙楽寺の建物が、朱塗られたり一部改築されて神社の建物に使われているそうだ。



たとえば妙楽寺の聖霊院は神社の本殿に、護国院は拝殿に、講堂は神廟拝所に変わっている。十三重塔が、神廟十三重塔などと名前が変わっているのも面白い。

談山神社のように寺院が神社に変わったものは、探せばいくらでもあるようだ。以前、石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)の事を書いたが、有名なところでは宇佐八幡宮(福岡)、金毘羅大権現(香川)、大神山神社(鳥取)も廃仏毀釈の時に寺院が神社になったものである。

明治の廃仏毀釈は、日本全国の国家神道化をはかるクーデターのようなものだと最近思うのだが、神社のホームページを見ても寺院のホームページを見てもほとんどがこのことに触れられていないようだ。しかし、このことを知らずして、この時期になぜ多くの文化財が失われたかを理解することはできないと思う。 
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BLOGariコメント

 はじめまして~♪
 ちょこちょこ覗いていましたが、書き込み初めてです。いつも、系統的にまとめられた記事はとても勉強になります。古い写真など、貴重な資料ですね。
 それにしても、談山神社・・・なんとも不思議な位置づけの神社ですよね。興福寺と喧嘩していたのですか・・それは面白い♪
 鎌足の墓があって、彼が怒ると破裂する・・とかいうのは・・・子孫にとって・・威厳ある先祖だったんでしょうね。おもしろいですね。
 大昔!・・・学生の時、見に行った覚えがありますけれど・・しっとりとしたたたづまいのいい神社だったように記憶しています。 
 
 
乱読おばさん、はじめまして。

コメントいただき、ありがとうございます。

ブログを書き始めてまだ日が浅いのですが、いろんな方からコメントをいただくのはとても励みになります。

歴史は学校で学んだ程度の教養しかなかったのですが、昨年あたりから少しずつ興味を覚えたことをもう少し知りたいと思うようになりました。
今まで教科書のようなものを読んでなんとなく納得していたことを、少し掘り下げて調べると、意外な事実が見えてきてよりリアリティを感じることがあって、歴史を知ることの面白さがわかってきました。

自分が事実を知って驚いたことは、多くの人が面白いと思っていただけるのではないかという思いでブログを書いています。

こんなペースで書き続けていつまでネタが続くかわかりませんが、これからもよろしければ時々覗いてみてください。 

外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺

2010年01月03日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリー」というコーナーがあり、現在国宝にされている阿修羅像や無着菩薩立像、世親菩薩立像などが雑然と置かれている写真を紹介したが、今回も再掲しておこう。



このように雑然と置かれている状態がどれくらいの間続いたかはわからないが、信仰の対象であったはずの仏像がどういう経緯で野ざらし状態になったのかと、まず不思議に思う。

「五等 東金堂集合佛體」などという写真の表題も変だ。いかにも売るために等級をつけたような印象を受けるのは私だけだろうか。「佛體」という表現は、信仰の対象としての仏像に使う言葉とは思えない。

鎌倉時代に運慶が作った国宝無着菩薩立像は、現在興福寺の北円堂に安置されており、私も2年前に阿修羅像を見た日にしっかり鑑賞してきたのだが、この有名な仏像が以前は外国人が所有していたことを、昨年末にネットで知った。



アマチュアの仏像研究家で朝田純一さんという方が「埃まみれの書棚から」という素晴らしいホームページを立ち上げておられ、この経緯について次のサイトで、さまざまな古寺、古仏に関する書籍とともに紹介しておられる。
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana9.htm

このホームページによると、岡倉天心らが明治22年に発刊した「国華」という美術研究誌の創刊号に興福寺の無着菩薩立像が「ビゲロー氏所蔵」と書かれているらしい。

ビゲロー氏とは、明治14年(1882年)に来日したアメリカ人で、日本滞在の7年間で仏画から浮世絵や刀剣、漆器、彫刻など1万数千点を収集し、明治44年(1911年)にボストン美術館に寄贈した人物である。

「名品探索百十年、国華の軌跡」(水尾比呂志著:朝日新聞社刊)という本には、

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年、九鬼隆一に率いられ岡倉天心、高橋健三が関西の古美術調査を行ったとき)文部省美術顧問ビゲローに、奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。我が国古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」という記述があるそうだ。

我が国文化の混乱期に、フェロノサやビゲローやモースが日本の仏教美術や古美術品の価値を見出してその世界的評価を高めたことは有難いことであったが、それらを安値で買い集めて海外に流出させた張本人という見方もあるようである。

しかしながら、王政復古・祭政一致の理念に基づく宗教政策や西洋世界に追い付くための富国強兵、欧風化政策が進められる中で、日本人自身が廃寺となった寺院の仏像などに価値を充分に見いだせていなかったこともあるのではないか。

明治30年に古社寺保存法が制定され、明治31年に岡倉天心が設立した日本美術院で仏像などの修復活動が本格的に始まるのだが、もしフェロノサやビゲローの活動がなければ、このような修復活動がもっと遅れて、この時期にもっと多くの文化財が失われたかもしれないのだ。 
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コメント

拝見させていただきました。
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アシュトンさん、はじめまして。

コメントありがとうございます。

歴史をいろんな角度から見ると、きれいごとばかりではない世界が見えてきて、すごくリアリティを感じるときがあります。

これからも、いろいろ感じたことや調べたことを書き綴っていきますので、時々覗いてみてください。