しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

2011年02月25日 | 大航海時代の西洋と日本

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html



最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があることを記事に少しだけ触れておいた。

その異説とは、松永久秀の敵方である三好三人衆にいたキリシタンの誰かが東大寺に火を付けたという説なのだが、その記録が今まで何度か紹介させていただいたルイス・フロイスの「日本史」の中に出ているのである。

この時代の歴史に興味を持ったので、ルイス・フロイスの本を取り寄せて、どこに書いてあるか調べたところ、意外と早く該当箇所を探しあてることが出来た。

中公文庫の「完訳フロイス日本史」第1分冊の第20~22章(原書では第1部59~61章)に、ルイス・デ・アルメイダ修道士の書簡が紹介されていて、22章に東大寺に関するアルメイダの記述がなされている。

文章を引用する前に、ルイス・デ・アルメイダについて簡単に紹介しておく。



アルメイダは1525頃にポルトガルのリスボンに生まれ、1552年に貿易目的で来日したが、医師の免許も持っていて西洋医学を日本に導入し、大分に日本で最初の病院を建てた人物でもある。上の写真は大分市にある西洋医術発祥記念像で中央の人物がアルメイダである。 彼は学識もあったことから、僧侶など知識人の欲求に良く答えて改宗に導き、医師として貧しい人を助けたので多くの信者を獲得したと言われている。

アルメイダ修道士は、永禄10年に大部分が焼失する前の東大寺を訪れ、東大寺に関して様々なことを書いているが、内容の多くは建物の大きさや仏像の大きさ、梵鐘の大きさなどで、大仏に関しては次の様な感想を書いている。

「…私達は、日本のあらゆる遠隔の地方から人々がこの寺院に参詣する盲目さ、ならびに彼らが拝む悪魔や偶像によるほかになんの救いもないかのように、こうして誤った救いを渇望している有様に接しては、涙し、同情せずにおれません。そして私どもがもっとも驚かざるを得ないのは、日本人は、シナ人やインド人とはすべてにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも賢明、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見出す事なのです。」(中公文庫「完訳フロイス日本史」第1分冊p279) 
とあるように、キリスト宣教師にとっては異教である仏教の仏像は、いかなるものも排除すべき対象物であるにすぎないのだ。

この文章に続いて鐘楼の鐘の大きさについて驚いたとの記述があり、そこで一旦アルメイダの書簡の引用を中断し、ルイス・フロイス自身が次の様な文章を書き込んでいる。

「今から二十年くらい以前のことになるが、ルイス・デ・アルメイダ修道士が下(シモ:九州)へ帰った数年後に、(松永)弾正殿は、同修道士が先に述べた、かの豪華な城で包囲された。その多聞山城(タモンヤマ)を包囲した軍勢の大部分は、この大仏の寺院の内部とこの僧院(東大寺)のあらゆる場所に宿営した。その中には、我らイエズス会の同僚に良く知られていた一人の勇猛な兵士もいたのであるが、彼は、世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心なあまり、誰かにたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く離れた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘楼以外はなにも残らず全焼してしまった。丹波および河内の国では、同夜、火の光と焔が大和国との間に横たわる山々の上に立ちあがるのが見られた。」(同書p279-280) 



永禄10年(1567)の松永弾正と三好三人衆・筒井順慶連合軍との戦いは、「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれ、通史では松永弾正が、東大寺に布陣している三好三人衆・筒井順慶連合軍に夜襲をかけて、その時に東大寺に火を付けたのは松永弾正軍だということになっている。

では、通史で松永弾正軍が火を付けたという根拠は何なのか。
前回でも紹介したが、興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」の口語訳がWikipediaに紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻に は大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

と、ここには松永弾正軍がやったとは書かれていない。



午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また『東大寺雑集録』によると、

「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」

と記されているのだが、普通に読めば松永軍が火を放ったとなるので、これが通説の根拠であろう。しかし、これを書いた僧侶は誰かが東大寺に火を放った現場を見たのであろうか。

ルイス・フロイスが書いているように、三好三人衆側のキリスト教徒が「自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った」のであれば、どちらが火を放ったかがわからず、恐らく攻めてきた側の松永軍が多分火を付けたと考えただけだと思われる。

紹介したWikipediaの記事では、日本側の記録も紹介している。

『大和軍記』という古文書には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されているそうだし、『足利李世紀』という古文書には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されているそうだ。
とすれば、松永弾正が東大寺を焼失させたという通説はおかしい、ということになる。

確かに松永弾正軍は過去も火を用いて寺を焼いたことがあり、将軍足利義輝の暗殺も主導した人物でもあり、その連想から松永軍が火を放ったと思われても仕方がなかった面もあるが、史料を読む限りでは松永弾正は、東大寺に関しては無実である可能性が高いと思われる。

しかしながらなぜ通史では、ルイス・フロイスが「日本史」に三好軍のキリシタンが火を付けたとわざわざ書き込んでいることを無視し、「大和軍記」や「足利李世紀」の記述をも無視するのか。私にはこのことは非常に不自然に思える。
せめて教科書や通史には両論を併記すべきではないのかと私は思うのだが、皆さんはどう思われますか。

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BLOGariコメント

 そういえば7年ほど前にバーミアンの巨大な仏教史跡をイスラム原理主義者のタリバンが爆破したことがありました。

 身勝手な1神教の宗教者にとっては、異教徒の巨大な偶像は破壊しないといけないと思うのでしょう。

 やはり異教徒に寛大でない1神教が世界宗教として布教されるということは、世界中に戦争のタネをまいていることになります。

 しばやんさんご指摘のように、松永弾正は無実でしょう。粋な文化人であったとも言われておりますから。

 まんがで読んだので、史実かどうか不明ですが、松永弾正は信長をたびたび裏切りました。信長か「お前の持っている貴重な茶器を渡せば命は助けてやる」との申し入れ。

 「笑止千万」と茶器とともに爆死しました。その人物が東大寺大仏殿を軍事的な目的だけで放火したりはしないでしょう。

 やはり狂信的なキリスト教徒のしわざであると思います。
 
 
実は松永軍にも三好軍にも多数のキリシタンがいました。
この時期に多くの寺社が焼かれたのは、そのことと無関係ではないのではないかと考えています。

次回にその記事が書ければと思い調べています。
 
 
>実は松永軍にも三好軍にも多数のキリシタンがいました。

やはりそうでしたか。異教徒を認めないキリスト教徒であれば、さもありなんです。

 焼けたお寺の多くは、後年豊臣秀吉が再建したのでしょうか?信長が焼き討ちした比叡山も再興したのは秀吉でしたでしょうか?

 本願寺が東と西に分離されたのはいつ頃だったんでしょうか?

 今から思いますに、キリスト教が当時の日本で「根絶やし」にされたことは、良かったなと。かなりの行動や焼き討ちをしたので、過酷に取り締まりもされたことであると思いました。

 不思議なのは、明治以降に信仰の自由が保証されても、キリスト教は日本人に蔓延しなかった不思議です。

 隣国韓国は近代以降に信者が爆発的に増加したというのに。

 やはり儒教とキリスト教の「1神教」との相性が良かったからなのでしょうか。同じアジアでも不思議であると思いました。
 
 
松永弾正も三好三兄弟もキリシタンではないのに、臣下にはキリシタンの武士がかなりいたのは間違いありません。次回はその点について書いてみたいと思っています。

焼けたお寺の再建ですが、ネットで調べると、延暦寺は豊臣秀吉と徳川家康によって再建され、東大寺は大仏殿は天平期の3分の2のスケールに縮小されて、再建されたのは宝永6年(1709)といいますから、随分長い間大仏は露座で雨ざらしの状態だったようです。

本願寺の東西分裂は徳川家康の時代ですね。

キリスト教は基本的に排他的な宗教ですから、最高権力者が布教を推進するか禁止するかの違いではないでしょうか。わが国にはどんなに高価な貢物があっても、国のためにならないことを見抜いた最高権力者がいたが、韓国にはいなかったということなのでしょうか。 

 

 



戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

2011年02月19日 | 大航海時代の西洋と日本

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。

「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。
それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。

秀吉

秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信者が、子供の頃から信仰してきた寺社を自発的に破壊することがありうるのだろうか。常識的に考えて、誰かが命令しない限り起こり得ない話だと思う。

この問題は日本史の教科書などではキリシタン大名が寺社を破壊したように書かれているのだが、もしそうならば「伴天連追放令」の中になぜ寺社の破壊を伴天連追放理由の中に入れたのであろうか。少なくとも秀吉は、寺社や仏像の破壊は宣教師の教唆によるものと考えていたはずである。



今まで何度も紹介させていただいた、ルイス・フロイスの「日本史」を読むと次の様に書かれている。しばらく引用させていただくことにする。

以下の文章の中で、「殿」とは肥前(長崎)国の切支丹大名である大村純忠で、「司祭」とはイエズス会日本準管区長のコエリョである。大村純忠が伊佐早との戦いに勝利した時にコエリョが純忠を説得する場面である。

「…殿がデウス(神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はその用に努め、領内には一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。
 …殿は、さっそく家臣団あげての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の真理の力を確信し、自分達が救われる道は、絶対にこの教え以外にないのだということを判らせるようにせねばならない、と。

…大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらすべてを破壊することは容易にできることではなかった。」(「完訳フロイス日本史10」大村純忠・有馬晴信編Ⅱ[中公文庫p.12]) 

「その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、『寺を焼け、偶像を壊せ』と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
 仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、『神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか』と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。『私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです』と。…」(同書p.14) 

上の文章で何度も出てくる「偶像」とは仏像のことだが、この文章を読んで宣教師の教唆がなかったと思う人は誰もいないであろう。

フロイスの本を読んでいると、宣教師が寺院を焼くことを信者に指示している場面がある。 つぎにその部分を引用しよう。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…」(同書p.22-23) 



寺社破壊に関してフロイスの著作には、領主の大村純忠は「そ知らぬふりをして、不快としてはいないことを明らかに示して」いただけで、破壊を領民に命じたとはどこにも書いていない。
このキリシタンの行動がきっかけとなり大村領の神社仏閣が破壊されて、大村領は6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。

次に肥前国有馬晴信の所領を見てみよう。加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟中に建てられていた祠に、領内から追放された僧侶達が大量の仏像を隠していたのをイエズス会の宣教師が発見する。それらの仏像を取り出していくと、大きい仏像だけが残ってしまった、という場面から引用する。

「それらは分断しなければ、そのまま入口から外にだすことが出来なかった。だが我らは、仕事を早めるためにそれらに火を付けた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
 副管区長の司祭(ガスパル・コエリョ)は、…少年たちを招集させた。少年達は…それらの仏像を背にして運んだ。…教理を教わっている少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾を吐きかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた。
 折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役だった。」(同書p.208~209) 

と、九州の寺社を破壊し仏像を焼却させたのは、明らかにキリスト教の宣教師である。記録を残したフロイス自身も、寺社を破壊し仏像などを焼却することは正しいことだと思っているからこそ、これだけ詳細に書いているのだ。
彼ら宣教師のために、この時代にどれだけの貴重な我が国の文化財が灰燼に帰したかわからない。



フロイスが記述した場所は特定されており、多くの人がネットで紹介している。場所などが知りたければ例えばつぎのサイトなどに書かれている。上の写真は、大量の仏像が隠されていた穴観音という場所の写真である。
https://himawari-kankou.jp/learn/000546.php

フロイスの記録などを読むと、秀吉の「伴天連追放令」は、このまま放置すると日本人の信仰の対象であった寺社の文化財が破壊されてしまうという観点からも当然の措置であったし、何故キリスト教が日本で広まらなかったかということも当然のように思えてくる。今の日本で、評判の悪い新興宗教ですらしないようなことを、当時のキリシタンは平気で実行していたのだ。

宣教師らにとっては正しい行為をしているつもりなのかもしれないが、一般の日本人にとっては迷惑な話ばかりだし、このような布教のやり方をすれば、日本に限らずどこの国でも異教徒である一般民衆は反発し、衝突が起こって当たり前だと思う。
他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。



ドイツの哲学者であるF・Wニーチェは晩年に「アンチキリスト」(邦訳「キリスト教は邪教です!」講談社+α新書)を著し、キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

世界全体でキリスト教の信者が現在20億人いて、キリスト教が世界で最も信者数が多い宗教であることは周知の事実だが、これはキリスト教の教義が素晴らしかったから全世界の民衆に支持されて広まったというわけではなく、侵略国家の宗教であったから住民に押し付けて広められたという側面を無視できないのではないか。

西洋が全世界を侵略しその固有の文化を破壊していた時代に、日本はキリスト教の危険性を察知するだけの為政者がいて、侵略の先兵となっていた宣教師を斥けるだけの武力があったから日本固有の文化を守ることが出来たのだ。多くの国ではそうはいかなかったから世界中にキリスト教徒が多くなったというだけのことだと思う。 
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BLOGariコメント

2011年02月20日(日) 16:02 by けんちゃん  コメント削除
宣教師にすれば「未開の地」日本のはずが、国民は知的水準が高く、当時の西欧に負けない軍事力まで持っていた。驚いたことでしょう。

 むき出しの侵略の意図を秀吉は見抜き、キリスト教宣教師を処刑し、永久追放したのであると思います。良くやったと思います。

>他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。

 まさに今中東ーアラブ世界で起きていることそのものです。西欧諸国は「民主国家」の顔をしていますが、やっていることは「ダブル・スタンダード」そのもの。

 抑圧された市民側がイスラム原理主義に共感しているので、余計にこじれてしまいます。

 近世の問題が、今の現代史を読み解く鍵にもなっているんですね。


2011年02月20日(日) 19:06 by しばやん
秀吉は「伴天連追放令」を出しましたが、南蛮貿易を統制する意思はなく、宣教師の完全追放までは至りませんでした。
サンフェリペ号事件や26人の宣教師の処刑はその大分あとの話です。

エジプトの問題もそうですが、日本でもアメリカが永年にわたり市場開放や様々な規制緩和を強要してきたことについても同様な話だと思います。
西洋諸国に対しては、我が国はもっと主張すべき事をすぐにしっかり言っておくべきで、何も言わないで問題を先送りすると、どんどん既成事実化して二進も三進もいかなくなります。

 

2011年02月21日(月) 20:00 by けんちゃん  コメント削除
>キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

最近のアメリカやイギリスの振る舞いを観察すると、まさにそのとうりです。

 アメリカ大統領3年目の年には不況はないといわれています。それはなぜか?

 アメリカは戦争をするからだ。と言われています。

 しかしイラクやアフガニスタンで足元をすくわれている内に、親米国のエジプトでムバラク独裁政権が倒れました。アメリカには大きな誤算だったことでしょう。

 更にバーレーンまで倒れると、湾岸の海軍基地を失うことになり大事になります。

 いつまでアメリカは「民主主義国家」のふりができるのか。
我慢比べですね。イランと。

 日本の場合は、欧州が1000年間宗教戦争して、ようやく「政教分離」したことを織田ー豊臣ー徳川の50年間でやってしまいました。それもとても上手に。

 一番の功績は侵略主義的な当時のキリスト教を日本で布教させなかったことでした。これはとても大きな歴史的なことです。

 まさに日本の独自性はここにあると思います。

 21世紀も宗教戦争時代ですが、多様性のある日本とインドが主導していかないと世界は平和になれないと思いました。

 


2011年02月21日(月) 23:28 by しばやん
2/14の新聞にこんな記事が出ていました。

「民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する『小沢一郎政治塾』で講演し、今後の国際社会に関し 『キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている』と指摘した。
 一方で「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。 悪く言えばいい加減で融通無碍だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。」(産経)
となかなか本質をついたことを言っています。

私も、一神教の宗教を奉ずる国が世界のリーダーでは、世界は争ってばかりで、決してまとまらないように思います。
かといって今の日本から世界をリードするような政治家が出てくるとも思えず、ただ将来に期待しているだけです。

すくなくともこれ以上、一神教同士の紛争に付き合わされて、我が国の富を搾り取られることは勘弁願いたいものです。

 


2011年02月22日(火) 08:22 by けんちゃん  コメント削除
 しばやんさんの推薦図書である「閉ざされた言語空間」(江藤淳・著)を読みました。

 江藤淳については、右翼のファシストという印象がありましたが、それだけではなく、彼は真剣に9ヶ月間米国のメリーランドの資料館に通い、文献を調べていました。

 米国占領軍が、検閲を執拗にやり、その事実を巧みに粉飾するだけでなく、「日本人の報道陣、文化人にまで根づかせ」、自主規制するようにしたことです。

 特に歴史教育や日本文化において、戦後の日本人が気づかぬまま、右翼や左翼の行動をしていても、すべて「アメリカの意向」が刷り込まれているようでした。

 そのおぞましい「洗脳」のやりかたには唖然としました。

 一神教の思想で世界を指導することは、対立と戦争を生み出すだけです。

 アメリカでも欧州でもロシアでも中国(共産党1神教国家)でも駄目です。

 日本とインドにその資格はあります。

 吉田松陰などの思想を検証しながら、アメリカの毒素を解毒したいと思うようになりました。

 そのきっかけをこしらえていただいた、しばやんさんには感謝しています。ありがとうございました。

 今後も検証作業はやりたいと思います。

 


2011年02月22日(火) 22:03 by しばやん
日本人の多くは、広島長崎の原爆投下について、「第二次世界大戦を早く終わらせるためにやむを得なかった」と教育されて、いまだにそう思い込んでいます。これなどは洗脳の典型ですね。

大手メディアではアメリカや戦勝国を批判することはいまだに控えられて、日本を貶めることばかりに熱心です。
その問題に斬りこむ論客はいつも「右翼」のレッテルを貼られて、その影響力を殺がれてしまいます。

日本の政治家やマスコミはアメリカの意向を無視しては活動が出来ないような状態を早く脱却しないといけないのですが、まずは日本人自身が洗脳されていることに気付くことが必要ですね。

 


2011年02月23日(水) 08:36 by けんちゃん  コメント削除
わたしはしがない零細企業の親父です。社会的な影響力はなく、毎日大きな企業に翻弄され、へこへこ生きています。

 超高齢の両親と同居していることもあり、行動の自由もありません。

 でも幕末期に吉田松陰は、牢獄にいても世界を動かす思想を確立し、現実に動かしました。あの世界観、あの自信はどこから来るのでしょうか?

 戦後日本が堕落したのは、米国占領軍の「仕掛け」と「毒」であったのです。わたしもようやくわかりました。

 解毒作業はとても辛いことです。「依存症」からの脱却は苦しみがともなうからです。

 でも庶民レベルでそれをしないと日本は変りません。

 わたしの40年来のテーマである「連合赤軍と新自由主義の総括」もめどがたちました。

 それはしばやんさんの教唆におかげです。

 


2011年02月23日(水) 21:48 by しばやん
「洗脳」というものは、洗脳されている者が自分が洗脳されているという意識がないというやっかいなものであるために、日本人の洗脳を解くことは容易ではありません。

次のURLは是非読んで頂きたいのですが、アーネスト・ヒルガードという世界的に著名な洗脳の専門家が2001年に亡くなった時のスタンフォード大学の追悼文の中に、「戦後日本の教育の非軍事化のため」にGHQの要請で来日した、という文章があるそうです。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080415

ヒルガードによる日本人の洗脳は、今も有効に機能しているとスタンフォード大学が評価しているから追悼文の中に書かれているわけですが、日本人はその言葉の意味をもっと考えないといけません。

 


2011年02月24日(木) 07:18 by けんちゃん  コメント削除
 「洗脳」を解く作業はとても辛いことですね。
 薬物中毒やアルコール依存症の禁断症状はとても辛いと聞いています。まさにそれです。

 苫米地さんの文章も読みました。なるほど同感します。

 最近私は塩野七生さんの「絵でみる十字軍物語」を読みました。1神教同士出なければ、決してありあない戦争であったと塩野さんは書かれていました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-7a83.html

 今中東で起きている「革命」は、アメリカ支配、かつては英国支配からの脱却であり、アメリカの追放までいくのではないかと思います。

 十字軍の歴史をなぞってみても、最終的には十字軍の敗退で戦争は終わるからです。

 中東地域で欧州人が勝利したのは、アレキサンダー以外はない・ということをアメリカもかみしめるべきだ。と塩野七生さんは言っています。

 結局十字軍で敗退した欧州のキリスト教徒は、海を利用し、南北大陸やアフリカ、アジアへ侵略してきました。戦国時代に日本まで到達してきたのです。

 昔の日本史の大事な箇所も曇りない目で見るためには、GHQの洗脳を説かないと見えないと思いました。

 今その作業に熱中しています。

 


2011年02月24日(木) 19:51 by しばやん
けんちゃんさんの反応は凄く早いですね。驚きました。

私の場合それ程勉強したわけではないので、「洗脳」度合いが低かったから、取り組みやすかったのかもしれません。

日本歴史教科書で一番歪められているのは明治以降の歴史だと思いますが、日本人を洗脳しようとするアメリカ人の立場に立ったとして、日本人が二度とアメリカと戦わせないためにどういう歴史叙述が望ましく、どのような叙述が望ましくないと考えるかという視点で歴史を見直すと、占領軍が日本人に知らしめた歴史叙述の歪みが見えてきます。

右寄りの人にとっても左寄りの人にとっても、明らかなる歴史的事実を突きつけられれば誰しも否定はできません。「右翼」というレッテルを貼られた論客が、どのような歴史的事実をどう評価しているかを知ることが、私の場合は非常に勉強になりました。

 


2011年02月25日(金) 10:57 by けんちゃん  コメント削除
 読んでいて江藤淳や小林よしのりなどは「右翼」であるとは思いません。それなりの見識がある「愛国者」ではないかと思っています。

 ただその論点に賛同するかどうかはまた別のもんだいです。

 ようやく素案ができました。

連合赤軍と新自由主義の総括 素案

1)ベースにある1神教であるキリスト教世界観の毒素の検証

 共産主義も1神教的な、世界観に基づいている。
 レーニンの考案した「民主集中制」は、秘密警察と強制収容所、言論抑圧、検閲がセットになっている。

2)身勝手な市場原理主義の検証

  「プロテスタンチズムと資本主義の精神」を逸脱した市場原理主義こそ、人類破滅の原理である。

  小さな政府の幻想。減税は新たな搾取形態とセットでなければ実現できない。」

3)「自由」を標榜するアメリカ帝国主義の検証

 GHQによる敗戦日本に対する検閲体制の検証。いかに自主規制が確立されたのか。

 「親米愛国」「親米反戦」は理論として成り立たない。

 米国ー官僚(親米派官僚)ーマスコミ(GHQの自主検閲を規範とする連中)の
  三位一体の親米従属国家体制の検証。

4)日本史の再検証 

  何故戦前の日本帝国は破滅したのか?世界観の誤りと戦略の検証。

5)1神教国家の世界制覇の危険性 (アメリカVSイスラム原理主義の戦争)

 アメリカ・ロシア・中国・英国・フランスを加えた国連常任理事国では世界平和を担保することは出来まい。1神教国家の破綻。

6)多神教国家による世界平和(対立の解消策)

  日本とインドを基本ー基礎とした「他者の存在を認める」寛容な世界づくり

 


2011年02月26日(土) 08:52 by しばやん
「身勝手な市場原理主義の検証」が二番目に挙げられているのは新鮮味がありますね。

アメリカがどこまで意図して行ったことなのかは良くわかりませんが、アメリカに押し付けられた経済自由主義、規制緩和は、生活が出来なくなった地方の若い世代を大量に都心部に移動させ、結果として共同体としての家族や地域をズタズタにしてしまいました。この家族や地域共同体の力が、日本の強さの源泉だったように思います。

地域共同体や家族による世代間の交流があって、我が国は地域特有の文化や日本の古い伝統を継承してきました。それが次第に失われていくことは仕方がないことかもしれませんが、そもそも地域や家族がバラバラで人間の幸福がありうるのかということを考えています。

普通の人が、普通の努力をして普通の生活が出来る社会の実現。そのためには地方や地域の経済循環を残すための規制も必要だと考えています。

 


2016年08月21日(日) 14:21 by ただ暮らすことの難しさ
絶対価値の勢力は、地ならしのための破壊の担い手は誰でも良く、今も日本に仕掛け続けているように思います。
日本は戦後日本人に主導権がありません。
これからの日本が心配です、いまの日本は、コエリョのやり口を拒否した豊臣秀吉のような在り方は糾弾対象のように編集されつつあります、諸外国からの便利な介入の口実にもなりましょう、ですが、じわじわやられて行けばやはり日本はなくなります、昨今のグローバカル化と開国が大村純忠の長崎領に重なってしまいます。

 


2016年08月25日(木) 06:49 by しばやん
ただ暮らすことの難しささん、コメントありがとうございます。

ご指摘の点は良く分かりますが、最近はネットで様々な情報が流れて、マスコミや学校などで流されている歴史叙述に疑問を感じる人が急増しています。いくつかの史実を知れば、わが国で戦後広められてきた戦勝国にとって都合の良い歴史は嘘だらけであることは誰でもわかります。
少しでも多くの方に、このような観点からの歴史を広めていけば、いずれ日本人の歴史観は変わるときがくるのではないでしょうか。そのことを信じてブログを続けていますが、私のようなブロガーは沢山いると思います。

実はこのブログは、ブログサービス会社のブロガリの都合により2017年の1月末に閉鎖されることが決定しています。
このブログは容量が少ないので、2014年にFC2ブログを立ち上げて、このブログの主要記事を移し、今も毎週記事を書き続けています。
最近は戦国時代に行なわれた乱妨狼藉のことを書きましたので、読んで頂ければ幸いです。
移転先のブログのURLは以下の通りです。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/




秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

2011年02月13日 | 大航海時代の西洋と日本

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。



フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、以前Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれていたが、今はその部分は削除されている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。



口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」) 

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文) 

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。



ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。


<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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BLOGariコメント

しばやんさん渾身のレポートです!凄いです!

 なるほど人身売買、雑兵の戦国史という観点も必要ですね。

 今年の大河ドラマ「江」にも野武士という形で出てきて、明智光秀さんは手やりで落ち武者狩りの雑兵に討たれます。

 九州を中心にした人身売買。それとキリスト教国。秀吉の存在とキリスト教の禁教の理由。なるほどそうでしたか。

 「世界観」が変るレポートでした。ありがとうございました。
 
 
過分なお言葉をいただき、有難うございます。

ちょっと重たいテーマをやっと書きあげて、肩の荷がおりたような気持ちです。

去年からずっと秀吉の「伴天連追放令」が気になっていて、買った側の事情や日本人奴隷の実態はわかっても、売る側の事情が今まで腑に落ちませんでした。

フロイスの「日本史」と藤木さんの「雑兵たちの戦場」を読んで、自分としては日本人奴隷が売られた流れを理解したつもりなのですが、今まで学んできた歴史では、私のような素人が原典を調べればわかるような事がずっと長い間封印されてきているように思います。

おそらく、西洋の暗部を記述し、多くの日本人に知らしめることはよろしくないと考える事情が、国内に未だに存在するのだと思いますが、日本人奴隷の問題を抜きにして、秀吉の「伴天連追放令」やキリスト教の弾圧は理解できないと思いますし、全国を統一したことの意義も理解できないと思います。

こんなブログを書き始めていなければ、私もここまで調べることはなかったと思いますが、私も今回の3回の記事を書きながら戦国時代を見る眼が変わりました。

 本当に粘り強く調査されておられます。その姿勢に敬服いたします。

>おそらく、西洋の暗部を記述し、多くの日本人に知らしめることはよろしくないと考える事情が、国内に未だに存在するのだと思いますが、日本人奴隷の問題を抜きにして、秀吉の「伴天連追放令」やキリスト教の弾圧は理解できないと思いますし、全国を統一したことの意義も理解できないと思います。

 敗戦後にGHQが焚書をし、言論統制をしていた意味は、共産主義の弾圧だけではなかったんですね。それがよく理解できました。

 むしろ当時の左翼の連中のほうが、「西洋史観」「日本悪者説」を振り回しておりましたから。ばかげたことでした。

 歴史の再検証が本当に必要であることをしばやんさんに思い知らされました。
 
 
実はGHQは左翼の本を殆ど焚書扱いにしていません。宮本百合子、堺利彦、野坂参三、尾崎秀実、河上肇、滝川幸辰、美濃部達吉、横田喜三郎、大内兵衛は一冊も焚書になっていないのです。

GHQの思想統制のターゲットは左翼にあったのではなく、また右翼だけが対象になったわけでもなく、西洋の世界侵略の実態を書いた本や、日本の良さを書いたような地味な本が、かなり焚書対象になっているようです。

この時に焚書になった本を何冊か手に入れましたが、結構面白い本があります。GHQの思想統制の目的は、日本人の洗脳、すなわち、二度とアメリカやキリスト教国と闘わないために、徹底して「西洋は正しく、日本が犯罪を犯した」と信じさせることにあったのだと考えています。今の教科書も、マスコミの論調も、すべてその観点で過去が語られるようになっていますが、これでは国や郷土を愛する気持ちが育つはずがありません。

これからはそのような考え方から解放されて、もっと自由に歴史を語ることが必要だと思います。
 
 
>これからはそのような考え方から解放されて、もっと自由に歴史を語ることが必要だと思います。

しばやんさんのご指摘で新たな観点が得られました。

 私自身高校生時代からの「宿題」を抱えています。
それは「連合赤軍と新自由主義の総括」というテーマです。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 いままでは社会運動面と社会思想面での検証ばかりしてきました。半分ぐらいは解明しましたが、今ひとつでした。

 歴史的な観点と宗教的な観点が必要ではないのか。しばやんさんのレポートでそれに気づかされました。

 つまり極端な共産主義思想も、凶暴な金融資本主義も、ベースに独善的な1神教としてのキリスト教世界観の毒が盛られているのではないのか。ということです。

 他者や異論を一切認めない。自分たち以外はすべて敵であり、いくら殺害しても罪に問われない。服従したものはドレイにしてもかまわないという思想。

 まさにアジア侵略してきたキリスト教のやってきたことと同じではありませんか。そう思います。

 「日米同盟だ」「米海兵隊は抑止力で沖縄駐留が不可欠」とかいう論理が、アメリカー官僚ー大手マスコミが三位一体となって世論を形成していて独自の日本の国益や国防を考えられないのも、これは一種の「洗脳」であると思います。

 しばやんさんのとりくまれている「キリシタン禁令」の歴史の総括に、「西欧信仰」の洗脳を脱却する鍵があるように思います。
 
 
解答になるかどうかわかりませんが、「共生」という考え方がどこか欠落した宗教や思想が世界で支配的になっているところからさまざまな問題が派生しているような気がしています。

世の中にある様々な信仰や考え方を許容し、その違いを乗り越えて共存共栄をはかるようにできないものでしょうか。
日本人が自国の歴史に自信を持って、そのような考え方で世界のリーダーシップを取る時代が来て欲しいものです。

「洗脳」を解く鍵は私も、西洋信仰に疑問を持つことと、日本の歴史を見直すことにあると考えています。
 
 
 最近の鳩山由紀夫前首相の「海兵隊抑止力・方便論」で、関係者がえらい怒っています。

 そのなかで沖縄タイムズの社説はとても冷静で、歴史的な観点から解説していました。

 「[「抑止力は方便」]これが前首相の発言?」

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-14_14545/

 長いですが論説を以下に引用します。

 「最低でも県外」「常時駐留なき安保」「対等な日米関係」「政治主導」。いずれも鳩山氏の政治家としての信念に根ざした主張だった。

 実行に移そうとすれば、米国との摩擦、官僚との摩擦は避けられない。

 鳩山前首相はその備えもないまま米国や官僚と相まみえ、壁にぶつかっては跳ね返され、閣内をまとめることもできず、迷走を続けた。

 鳩山政権の動きに警戒感を募らせた米国は硬軟織り交ぜ、さまざまな圧力を新政権にかけた。

 全国紙の米国特派員は「米国が怒っている」という類いの記事を流し続けた。外務省や防衛省の官僚は非協力的だった。

 「鳩山の失敗」に身震いした菅直人首相は、米国にも官僚にも逆らわず政権を長続きさせるという道を選んだ。政権交代時に掲げた理念の大幅な後退である。

 2009年9月に鳩山首相が誕生してから今日に至るまで、普天間問題の節目節目に浮かんだ言葉がある。

 西郷隆盛と西南戦争について取り上げた「丁丑(ていちゅう)公論」の中で福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と指摘した。

 政治学者の丸山真男は、日本の新聞社の「政治部」について「『政界部』というふうに直した方がいい」と批判した。

 大ざっぱな言い方をすれば、米国と官僚と全国メディアは鳩山政権誕生以来、三位一体の連携で辺野古移設を主張してきた、といえるのではないか。鳩山前首相はこの強固な壁に押しつぶされ、あえなく「憤死」したのだ。
 
 
 続きです。


 総理の強いリーダーシップと閣内の結束、党内の一致協力があれば、状況は変わったかもしれない。」とあります。

 感情的な反発(琉球新報はそうでした)よりも、歴史的背景や政治的なバランスを読んでコメントした沖縄タイムズの記事は秀品です。

 沖縄が「戦略的に重要である」と真剣に1番思っていたのはアメリカでした。ペリーの時代から軍事占領を考えていましたから。2ヶ月に渡り沖縄全島の測量までしていましたから。

 沖縄を軽視したのは旧日本帝国でした。陸上兵力や、航空兵力を台湾へ避難させ、劣悪な装備で米軍に対抗しようとしたのです。それは沖縄の民間人を巻き込んでしまう作戦でした。

 鳩山氏はその沖縄への思いがあったんでしょう。少なくとも「三位一体」グループのように沖縄に米軍基地を固定化するには反対していましたから。

 日本人は、国際情勢(尖閣・沖縄・朝鮮・竹島・北方領土)と向き合うためには、正確な歴史を知ることです。

 そのためにはしばやんさんご指摘の{GHQ史観」の克服、洗脳史観からの解脱が日本人各位には必要なのです。
 
 
鳩山さんは、代替案も固めず、アメリカとの調整もできていないのにに「最低でも県外」と言うのは政治家としてセンスがなさすぎますね。アメリカに国防を委ねる姿勢のままで、アメリカと対等の関係を構築できると考えるのも外交センスを疑います。

口先だけでは政治はできません。言ったことに責任を持ってもらわなければ、政治家として落第です。

好むと好まざるにかかわらず、いずれは自国は自らで守る気慨が必要です。その覚悟のない国に、アメリカの機嫌をとっていれば困った時に米軍が助けてくれると考えるのも幻想のように思います。その幻想を持ち続けるために、どれだけの富をアメリカに貢いでいるかと思うとぞっとします。

秀吉が今の政治家よりもはるかに外交力を発揮できたのは、つまるところ、以前鉄砲の記事で書いたように、日本の武器に優位性があり、武力が海外よりも勝っていたからだと思います。
西洋が世界を侵略していた時代がもし日本の平安時代だったら、日本はこの時に白人が支配する国になっていてもおかしくなかったと考えています。
 




秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

2011年02月09日 | 大航海時代の西洋と日本

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。

秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

この人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記などをいくつか残しているが、秀吉の九州平定の時にも同行して「九州御動座記」という記録を残しており、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯が短い文章にまとめられている。それには、

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」



手足に鎖を付け、船底に追い入れるような奴隷の扱い方は、黒人奴隷の場合と全く同じである。秀吉はこのような状況が日本を「外道の法」に陥れることを歎き、伴天連を追放することを決断したということになる。

日本人奴隷はどのような扱い方をされたのか。今度は西洋人の記述を見てみよう。 徳富蘇峰の「近世日本国民史」にパゼー「日本キリスト教史」という本の一部が紹介されている。



「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。 そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞しうして、敢て憚かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。」

なんと、日本人の一部は奴隷に買われていたケースもあり、水夫らの性奴隷としても買われていたのだ。

なぜ、ポルトガル人が大量の奴隷を買ったか。これは前々回に紹介した中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」がわかりやすい。

「大航海時代とそれに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにある…。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題であった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが、送った人間のほとんどすべては男だった…。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数も足りなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適であったのである。」(同書p.163)と記されている。

確かにポルトガルの広さは日本の4分の1程度で、人口は当時100万人程度だったと言われている。そんな小さな国が、1494年にスペインとトルデシリャス条約を結んで、ヨーロッパ以外の世界の二分割を協定し、ポルトガルは東回りに、スペインは西回りに征服の途につくのだが、スペインの一割程度の人口しかないポルトガルが世界の半分を征服するためには、よほど大量の奴隷が必要だったということだろう。

次に日本人が奴隷として売られた時期はいつ頃なのか。

岡本良知さんの「16世紀日欧交通史の研究」という本には、ポルトガル側の資料では1555年11月のマカオ発のパードレ・カルネイロの手紙の中に、大きな利潤と女奴隷を目当てにするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書かれていることが紹介されているそうだ。中国のマカオといえば、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易の初期の段階から日本人が奴隷として売られていたことになる。1555年は「伴天連追放令」の32年も前の話である。

また、日本イエズス会からの要請を受けてポルトガル国王は何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出しているが、東南アジアに暮らすポルトガル人は、国王の禁令はわれわれに致命的な打撃を与えると抗議し、奴隷を買ったのは善意の契約であり、正義にも神の掟にも人界の法則にも違反しないと主張し、この勅令は無視されたそうだ。
しかし、そのような奴隷商人に輸出許可を与えていたのもイエズス会であり、もともとイエズス会が奴隷輸出禁止にどれだけ尽力したかはかなり疑問である。むしろ積極的に関与した可能性がある。
ネットでいろいろ調べると、奴隷貿易に熱心であった宣教師の名前が出てくる。たとえばアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を作ったイエズス会の宣教師だが、奴隷貿易を仲介し、日本に火薬を売り込み、海外に日本女性を売り込んだ人物と書かれている。


<ポルトガル国立小美術館/日本の桃山時代の「南蛮屏風」…黒人奴隷が描かれている> 

当時のキリスト教の考え方では、キリスト教を広めるために、異教徒を虐殺することも奴隷にして売買することも神の意志に叶った行為と考えられており、1455年にローマ教皇ニコラウス5世が勅書により奴隷貿易を認め、さらに教皇アレキサンドル6世がこれに追随して神学的に奴隷制度を容認したことから、イエズス会の海外布教戦略が展開していくことになるのだ。イエズス会が、教皇が認めた奴隷貿易を容易に手放すことは考えにくいのではないか。
そもそもキリスト教の「聖書」レビ記25章には、異教徒を「奴隷として買う」ことも「永遠に奴隷として働かせることもできる」と書かれているが、このような考え方で布教されては、他の宗教を奉ずる国にとっては社会も文化も破壊され若い世代の多くが連れ去られてしまって、甚だ迷惑な話である。

奴隷を買う側の事情は何となくわかったが、しかし売る側の日本の事情はどうなっているのだろう。どういう経緯で大量の日本人が九州から奴隷船に乗せられたのか。
外国人により拉致されたのか、貧しい日本人が家族を売り飛ばしたのか、あるいは戦国大名が捕虜を売ったのか、住民を拉致して売ったのか。また、何のためにポルトガル人に売却したのか。

そのことを書きだすとまた長くなるので、日本側の事情は次回に記すことにするが、平和な時代しか知らない我々には到底想像もできないような戦国時代の凄まじさが見えてくるのだ。

<つづく>
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BLOGariコメント

キリスト教の独善的な世界観と、異教徒なら殺しても奴隷にしてもかまわないという考え方は、十字軍以来なんら変わってはいないようですね。

 この時代は十字軍での東方侵略が破綻し、イスラム勢力(トルコ)にシルクロードを押さえられた欧州のキリスト教国が、いわゆる「大航海時代」を経て、世界に植民地支配を行った時期なのでしょう。

 宣教師はまさにその先兵。しばやんさんんがレポートされているように異教徒は人間扱いしていません。

 このあたりも日本史できちんと教えないといけないと思いました。そうでなければ秀吉は無謀な侵略者にすぎないからです。
 
 
仰る通りで、私も秀吉は無謀な侵略者で、キリスト教を弾圧した程度のことしか学んだ記憶がないのです。しかし、いろいろ調べているうちに、秀吉のやったことは間違っていないと確信するようになりました。

戦後GHQが8000冊近い書物を本屋の書棚から撤去させ焚書にしましたが、西洋にとって都合の悪いことが書かれた書物は、たとえ事実を丹念に調べたものであってもその時に焚書処分になっているようです。それ以来、西洋の奴隷制を語ることが日本ではタブーのようになってしまい、史料となる書物もほとんど目にすることがありません。

焚書の目的は、西洋社会が善であり、日本軍が悪かったということを日本人に洗脳して、占領軍支配をやりやすくするという意図が少なからずあったのではなかったかと考えています。
 
 
>焚書の目的は、西洋社会が善であり、日本軍が悪かったということを日本人に洗脳して、占領軍支配をやりやすくするという意図が少なからずあったのではなかったかと考えています。

 まさにそうではないでしょうか。

 アメリカや西欧諸国(キリスト教国)は、エジプト騒乱をどう落とし前をつけるつもりなのでしょう。

 ムバラクの強権独裁体制を手厚い経済支援と軍事支援で30年間も支えたのですから。イスラエルの存続と、中東域での利権の維持そのものでした。

 アラビアのロレンスのいい加減さも身勝手さも同様です。

 秀吉の時代のキリスト教徒はより野蛮で戦闘的でした。中南米やアジアの当時の過酷な植民地支配を少しみればわかります。

 アメリカが「民主主義を定着させる」と、イラクやアフガニスタンで定着できないのは、己の身勝手さを棚に上げて押し付けるからで、当時も今も変りません。

 アメリカが「民主主義国で素晴らしい国」なんて思い込んでいるのは、世界で人好しの日本人だけかもしれませんね。
 
 
戦後GHQは新聞の徹底的な検閲を行い、都合の悪い記事を削除して、日本人をまず洗脳に必要な「情報遮断」の状態に置き、さらに焚書を敢行し、「真相箱」のようなアメリカを擁護し日本軍部を徹底批判する番組を公共の電波で垂れ流して、日本人はいつのまにか、「日本が悪かった」と洗脳されてしまい、そのために米国、中国やロシア、韓国・北朝鮮から日本はいつまでもタカられている存在になってしまっています。

教科書的、マスコミ的な歴史観は占領軍にとって都合のよい歴史に過ぎず、これではこの洗脳が解かれることがないような気がします。まずはこのような歴史観や価値観のおかしなところに気付き、さらに真実を追究することが必要で、真実を知ることによってのみ、他国の情報操作を受けずに、日本は対等の立場で議論し交渉できる立場に立てるのだと思います。

日本人奴隷のことを日本人がもっと知ることも、洗脳を解くためには大切なことだと思っています。 



秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

2011年02月05日 | 大航海時代の西洋と日本

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。

豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 

学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかったので、この点について調べてみた。



まず秀吉が博多にいたのは、秀吉は京都を前田利家、大阪城は秀次に守らせて九州を平定するために出陣したためだ。
その先陣は切支丹大名の高山右近で、その家臣には切支丹がかなりいて、十字が付いた旗などを携えた兵が多数右近の軍に参加していた記録が残されている。
そもそもこの九州平定は、そもそも2年前にイエズス会の日本準管区長*のガスパル・コエリョが秀吉に、切支丹大名を秀吉の味方につけると進言して実現したようなものである。 (日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者) 

大村・有馬の切支丹大名は島津に何度も脅かされていたので、イエズス会には秀吉の九州攻めは願ってもないことであったはずだ。だから高山右近も献身的に働いた。

ところが、切支丹大名の活躍により九州平定に成功すると、秀吉は右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放しているのだ。いったいどういうことなのか。


<晩年の高山右近>

この経緯については、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で当時日本に滞在し、信長や秀吉とも会見したルイス・フロイスが詳細な記録を残しており、中公文庫でその翻訳を読む事が出来る。(ルイス・フロイス「日本史4」豊臣秀吉篇Ⅰ) 

それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208) 

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211) 
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215) 

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。


<伴天連追放令>

コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい。藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれているそうだ。

「伴天連追放令」の原文とは次の通りで、現代語訳はURLで読む事が出来るが、この時に手交した文書には、奴隷売買を禁止する条項は記されていないことがわかる。
ルイス・フロイスの「日本史」にも「伴天連追放令」の内容が書かれているが、やはり奴隷売買の事は書かれていない。
<原文>
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印

<現代語訳>
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4_%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

しかし、国内向けに出された「伴天連追放令」においては、寺社の破壊や奴隷売買を禁止する条項が書かれているようである。奴隷売買禁止に関しては原文では、
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
となっている。


<ルイス・フロイス像>

またルイス・フロイスがいみじくも書いているように、秀吉が九州に来た目的は島津と戦うことではなく、当初から高山右近や切支丹宣教師を追放することにあったと思われる。なぜなら、九州の戦いを終えても島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵されているのはそう考えないことには理解できないからだ。

以上、やや長くなったが、秀吉を暴君と呼び悪魔と呼ぶイエズス会のルイス・フロイスが「伴天連追放令」をどう捉えたかについてまとめてみた。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
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BLOGariコメント

キリスト教は1神教で異教徒との融和を図らない原理主義的な宗教です。欧州は非寛容なキリスト教社会になっており、1000年以上、異教徒との戦争や魔女狩りや、異端裁判を繰り返してきました。

 宗教戦争の最中に、アジアや日本へ進出してきました。宣教師が侵略の先兵であったことを秀吉はいろんな情報から見抜いたのでしょう。

 欧州が1000年かかってようやくやりとげた、「政教分離」を織田信長は比叡山焼き討ちと一向一揆の撲滅によって、極めて短時間にやりとげました。

 江戸時代に仏教が檀家制度で経済的基盤を保障される代わりに、キリシタン狩の役目も与えたのではないでしょうか。

 仏教が現世の政治世界から分離され、葬式仏教になり、江戸時代に既に、日本人にとって宗教は「絶対」ではなくなりました。

 教会で結婚式を挙げ、葬式は仏式。初詣は神社へ行くd譜代多数の日本人の生活習慣の基礎は、秀吉の時代に形成されたと思います。
 
 
キリスト教徒からすれば、異教徒は家畜同然に考えていたのでしょう。彼等にとっては、キリストを信じない異教徒は駆逐されるべき存在であり、奴隷にすることも、虐殺することもそれほどの罪の意識はなかったと思われます。

聖書のレビ記25章には、異教徒を奴隷にして買うことも、財産として所有することも容認することが明確に書かれています。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

秀吉が、「伴天連追放令」を出してキリスト教と距離を置く政策を出したことは、結果として多くの日本人を救ったのだと思います。
 
 
 現在のエジプト情勢は、今後の世界史に与える影響が極めて大きいと思います。

 西欧のキリスト教国は、ムバラク大統領の独裁をやめて、民主化し、「親米・親イスラエル路線」の継続をのぞんでいます。

 しかしその政治信条は、多数のエジプト国民から遊離しています。イランの聖職者がエジプトの反政府運動を支持表明しました。

 彼らは反米・反イスラエルですから。エジプトの場合は宗教が政治を媒介しています。対応を誤れば、大変なことになるでしょう。

 エジプトが反米国家になれば、隣国サウジや湾岸諸国も吹っ飛びますね。イラクもアフガンもアメリカの思惑どうりに行かないです。

 イスラエルはますます先鋭化し、ますます不安定になります。嘆かわしいことです。

 野蛮な十字軍が時代が下って秀吉時代に日本へ来たのです。全く迷惑な話でした。

 秀吉は朝鮮に侵略するのではなく、マカオのキリスト教の拠点を攻撃し、アジアの人達をキリスト教の「魔の手」から解放すべきでした。そうなれば世の中も変わっていたことでしょう。
 
 
秀吉が朝鮮に出兵したのはバカなことだったという話を学生時代から何度か聞かされていましたが、最近になって、秀吉の朝鮮出兵を、日本が植民地化されないために必要であったと評価する説が結構出てきていることを知りました。そのこともいずれ、書きたいテーマの一つです。

キリストとイスラムという一神教は、他の価値観に対して寛容ではないために、過去もそうであったように今後も争いを繰り返すような気がします。

何度も争って血を流し戦うことに疲れた時に、いずれは価値観の違う他国の人々の文化や生活を尊重する時代が来るのかもしれませんが、あと何十年・何百年かかるかわかりませんね。
 
 
なるほど~。
そういうことだったのですね。
 
 
近くの図書館にて「絵で見る十字軍物語」(塩野七生・著・新潮社・2010年刊)を読みました。

 精密なキャスターバ・ドレの挿絵に描かれている十字軍の絵は、戦闘場面や異教徒の虐殺場面が多くおぞましい。

「神がそれを望まれている」と宣教師が煽動し、エルサレムの奪還を名目に、欧州各国の諸侯がパレスティナの地の侵略戦争に参加しました。

 戦闘でなくなれば天国へ行ける。異教徒は家畜以下であり、いくら殺害しても罪に問われない。よいことであると教会は言い続けました。

 侵略されたイスラム側も,ジハード(聖戦)を宣言し、双方の妥協のない戦争が200年も続きました。結果はキリスト勢力は敗退し、イスラムに圧倒されます。

 その歴史の下地があるために、アジアへ来た宣教師も戦闘的で侵略主義的であったのでしょう。野蛮な宗教から解放するために来たと宣教師は信じていました。

 ただ日本の先進性や国民の優秀さには腰を抜かしたといいます。当時から日本は「一筋縄ではいかない」国として欧州各国に認知されていたようですね。
 
 
西洋が世界を植民地化していた時代に日本は戦国時代であり、西洋に武力では負けない時代であったことは幸運でした。

以前紹介したフランシスコ・ザビエルもポルトガル神父に宛てて、「日本人はたいへん好戦的で強欲ですから、メキシコからたくさん船が来ても、すぐに捕獲してしまうでしょう。」と書いた書簡を送っています。

しかし、もし西洋が世界を植民地化していた時代が日本の平安時代だったら、日本は簡単に飲み込まれていたと思います。
また戦国時代にもし秀吉や家康のような人物がいなければ、西洋勢力と結託した切支丹大名に国が支配されて日本の文化・伝統が破壊されて西洋の植民地になり下がり、世界中がいまだに西洋の植民地であり続けていたかもしれませんね。