しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

悲しき阿修羅像

2009年12月29日 | 廃仏毀釈・神仏分離


今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。

その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。

今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。

興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。
http://www.kohfukuji.com/property/old_photo/index.html



その中に腕の欠けた仏像の写真がいくつも出てくるし、破損した仏像ばかりを並べた写真もある。そして最後には二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。

「五等 東金堂集合佛體」などという表題が書かれた写真は無着・世親立像とともに阿修羅像などが無造作に並べられている。よく見ると阿修羅像の腕が折れているようだ。



興福寺のホームページには、これらの写真の経緯については何も書かれていないのだが、いろいろネットで興福寺の明治以降の歴史を調べると驚くことばかりである。

明治4年に「寺領上知の令」により、明治政府が古来からあったお寺の領地を全て取り上げたために、古都奈良ばかりでなく全国の由緒ある寺院の多くが一気に経済的基盤を失ってしまい、寺は内部から崩壊して、生きるために仏像や寺宝を売却する者が出てくることになった。そのために、かなりの文化財が日本各地の寺院で失われることになった。

NHKの「その時歴史が動いた」~岡倉天心・廃仏毀釈からの復興~に比較的詳しくその頃の経緯が解説されており、当時の興福寺の状況を知ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=OauBe4jYhCQ

それによると興福寺の僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったらしい。

また、興福寺の五重塔をも明治政府は破壊しようとしたのだが、その費用がなかったので売却することとなり、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたという話が、「神仏分離資料」に残っているそうだ。

阿修羅像の腕の欠損は廃仏毀釈が原因とも、享保二年(1717年)の火災が原因とも言われているが、火災時に破損したとすれば奈良で最も石高の高かった興福寺で160年以上も破損したままの仏像を放置していたことになる。

いずれにせよ腕の折れた阿修羅像は岡倉天心らにより修復されるのだが、現在の阿修羅像と修復前の画像とを比較すると手の位置が微妙に異なっている事に気づく。破損された画像をよく見れば、どうやら一番下の左手は合掌している手の位置ではなさそうである。右手で何かを持っていて左手で支えていたという説もあるようである。

ところで、明治時代の一定期間、誰も僧侶がいなかった興福寺の仏像は、一体誰が守ったのだろうか。一部の仏像は海外に流出しているがそれでも多くが残された。阿修羅像は腕が折れていたことが幸いして興福寺に残ることができたのだろうか。 
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 コメント
 
だれの責任というものではないのかも知れませんが、
破壊行為によって時代刷新の機運が盛り上がるというのは、
寂しいですね。
文化財の海外流出を目論んだ情報操作が行なわれたということはないのでしょうか?
 
 
ならばさん、私がこのブログを書き始めたときに一番興味を持っていたのが廃仏毀釈でした。それまでは、日本人はずっと古い仏像を信仰して大事に守られてきたものとばかり思っていましたが、明治時代にわが国は歴史ある寺院の建物や仏像の多くを失いました。

奈良や京都もかなり被害がありましたが、多くの寺院があったので残った寺院も多かっただけです。しかし残された寺院も、収入を絶たれて大変な苦労があったはずです。
この時に明治維新の中心藩だった薩摩ではほとんどの寺院が破壊されています。

海外流出の情報操作のようなものはありませんでしたが、収入がなくなったために僧侶の生活のためにやむに已まれず売却された美術品はかなりあったはずです。

明治新政府は天皇を中心とした中央集権国家を作り国家神道を国の宗教と定めて、仏教は不要だと考えました。廃仏毀釈は明治政府が関与しているはずなのですが、いつの時代も勝者にとって都合いい事だけが残され、都合の悪いことは残されていません。

かみがもばなし

2009年12月20日 | 廃仏毀釈・神仏分離

以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。

この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。

当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。




(以下引用) 
『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。

ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、

「えらいこっちゃ、お寺がないようになったで。」 「賀茂川に行ってみ、つぶしたお寺の柱やら燃してるで。」 

と、村中は大さわぎになっています。きのうまであったお寺は、次々とこわされているのです。

そのこわした木材を賀茂河原に出して火をつけて燃しているのです。その火は数日続いていたといわれています。

むかしから、この明治になるまで、寺と神社はいっしょにまつられていました。

ところが、この時代になってから、神社と寺は別々にまつるように、
神社にある、あるいはその神社の社領地にある寺は、認めないということです。これを「廃仏令」といいます。 

明治をむかえるまでの時代には、このような寺の目的は、神社を守るためとか、神社へ奉仕をするためにあったそうです。

ですから現在のように、おそう式をする寺ではないのです。

上賀茂は、むかしは、上賀茂神社の社領地でありました。ですから、このような「おふれ」にしたがい、つぎつぎと消えてしまったのです。』 (引用終わり) 

「かみがもばなし」は上賀茂の歴史研究家である初田耕治氏が上賀茂小学校の育友会広報誌に寄稿されたもので、「お寺のはなし」は初田氏が大田神社の藤木さんという方から聞かれたことをまとめられたものらしい。

そこには明治に入るまでは上賀茂神社に8つのお寺があったことが記されていて、そのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまったということなのだが、そういえば子供のころになぜ上賀茂神社や下鴨神社の近くにお寺がないのか不思議に思ったことがあった。ネットで調べていくと、下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されたことが分かった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm

以前紹介した石清水八幡宮もそうだが、八坂神社にも北野天満宮も多宝塔などの仏教施設があったのがこの時期になくなっているのだ。どれだけの仏像や絵画がこの時期に失われたか想像もつかない。

中学や高校の歴史で学んだ廃仏毀釈は明治維新の一事件という程度の表層的な理解であったが、詳しく調べれば調べるほど、想像の域を超える凄まじいものであったことがわかる。弾圧された側の仏教の立場からの記述や、庶民レベルの記述がほとんど見当たらないのだが、あれば読んでみたいものである。 
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大山崎美術館と宝積寺

2009年12月12日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回石清水八幡宮と松花堂庭園に行ったことを書いたが、その日は時間があったのでそれから大山崎美術館とすぐ近くの宝積寺に立ち寄った。

大山崎美術館の建物はもともとは1911年に実業家加賀正太郎が個人の別荘として建てたものだそうだが、バブルの頃にある不動産会社がこの建物を壊してマンションを開発する計画が持ち上がったらしい。地元住民からこの大正期の立派な建築物を壊すことに強い反対運動が起こる中、アサヒビールが京都府からの要請もあり、天王山山麓の景観を保全するためにこの山荘を買い上げ、1996年に美術館として再生したというものである。 


その後建物の文化的価値が認められ2004年に国の有形文化財として登録されている。
旧館はレトロな雰囲気がよく、棟方志巧や河合寛次郎の作品がよく似合う。
2階にはカフェがあって、そこから眺める庭園や山の景色もよいし、木々の間から隣の宝積寺の三重塔も見える。

私が訪問した日は紅葉には早い時期だったが、庭の紅葉は素晴らしいそうだ。ネットで調べると、昨年の秋の美しい景色の写真が出ている。 
http://www13.plala.or.jp/chisoku/yamaza.htm

また新館は安藤忠雄氏の設計によるモダンな建物で、モネの作品などが展示されている。

時間があったので、美術館のすぐ近くの宝積寺にも立ち寄った。このお寺はあまり観光案内などには書かれていないお寺だが、三重塔をはじめ8つの仏像などが重要文化財に指定されている。何故観光地としてあまり知られていないのが不思議なくらいである。 


ボランティアの人が、本堂・閻魔堂の案内をしてくれた。閻魔堂は閻魔大王をはじめとする五体の鎌倉時代の仏像のために新しく建てられたものだが、間近で見る閻魔大王像をはじめとする仏像の迫力のある表情に圧倒されてしまった。これだけ明るい場所で近寄って重要文化財級の仏像を見せてくれるお寺はあまりないのではないだろうか。 


説明によるとこれらの仏像は、すべて明治初期の廃仏毀釈の時に廃寺となった大阪府島本町の西観音寺というお寺から移されてきたものとのことである。石清水八幡宮が廃仏毀釈で堂宇や仏像などを撤去された話を知ったばかりだけに、少しばかり複雑な思いがした。

歴史には書き残されていないものの、時代に抗って文化財を守ろうとした人々が各地にいたからこそ、日本に多くの古い寺院や仏像などが残っているのだと思う。 
この日は予定外に素晴らしい仏像を拝見できて満足だった。 

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石清水八幡宮と松花堂弁当

2009年12月09日 | 廃仏毀釈・神仏分離

徒然草の第52段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。」ではじまる有名な文章があるが、最近になってこの石清水八幡宮が以前は仏教を中心とする施設であったことを知った。

石清水八幡は貞観2年(860年)僧行教によって寺院として創建され、後に神仏習合で神社と共存するのだが、「男山四十八坊」と言われるように男山全体は以前は圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所だったらしいのだ。


当時の絵図をネットで見つけたが、男山には大塔や八角堂などの多くの仏教施設が書き込まれている。下は地図で場所を復元した図である。 


ところが明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。またこの時期に阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったという。この中には国宝級の文化財も少なくなかったらしい。

京都で生まれ育ちながら石清水八幡宮へは一度も行ったことがなかったのだが、いろいろ調べると興味を覚え急に行ってみたくなり、石清水八幡宮から松花堂庭園を歩いて松花堂弁当を食べにいくコースを思いつき、先日夫婦で歩いてきた。

大山崎ICから神社の一の鳥居近くの駐車場に車を止め、京阪八幡市駅前の観光案内所でガイドマップをゲットしてから、参道を進み始める。

一の鳥居を抜けるとすぐに頓宮があり、次いで高良神社がある。 徒然草では「極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」と書いてあり、この僧はせっかく石清水まで徒歩で来ておきながら肝心の本殿のある山に登らずに帰ったので、兼好法師は「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」と結んでいる有名な場所である。

古い絵図と見比べると、今の頓宮あたりが「極楽寺」であることがわかる。また高良神社は思いのほか小さい社だったが、以前はかなり大きい建物だったらしい。

二の鳥居を過ぎて七曲りを抜けて、裏参道に入り江戸前期に松花堂昭乗が隠棲した跡地を見たのち、石清水社の湧水石清水井を見る。さらに登ってやっと男山の山頂となり、南総門を通って本殿を参拝した。 


本殿は八幡造といわれる建築様式で、丹漆塗りの立派な建物であるが、残念ながら平成の大改造中で一部がシートで覆われていた。 


本殿の西側にエジソン記念碑があるが、この碑は電球を発明したエジソンが、フィラメントに使う素材を世界各地から集めて実験をした結果、男山の竹の繊維が一番長く輝き続けたことから、この地域の竹が白熱電球の実用化に大きな役割を果たしたことを記念したものである。 

そこから山を下りて、「松花堂弁当」名前の由来となった松花堂庭園で昼食。ランチで税込3859円はやや高いが、それだけの価値はある。 


松花堂庭園の中に室町期の建築である松花堂書院(京都府登録文化財)があるが、これは男山にあった泉坊(男山四十八坊の一つ)の客間を移築したものでかなり立派なものであった。当時はこのような建物が男山にいくつもあったかと思うと、残念でならない。

京都には古い寺院がいくつも残っているが、廃仏毀釈で失われた文化財も測り知れない。「廃仏毀釈」という言葉は以前から知っていたが、このすさまじさは通史を読むだけでは到底理解できないものだ。 
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消えた鶴岡八幡宮寺大塔など

2009年11月30日 | 廃仏毀釈・神仏分離

鎌倉の鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。
鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。

上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。

幕末に来日したイギリス人の写真家フリーチェ・ベアトが江戸時代の「鶴岡八幡宮寺」の写真を残している。

上の写真はベアトが撮った大塔の写真と言われている。またこの時期に来日したスイス人の実業家エメェ・アンベールも、著書「絵で見る幕末日本」(講談社学術文庫)の中で、当時の大塔の細密画を残している。

4つめの写真は破壊された愛染堂に安置されていた愛染明王の写真である。(今は五島美術館にある)

今でこそ「八幡」といえば神社を連想するのだが、宇佐八幡宮弥勒寺、石清水八幡宮護国寺をはじめもともとは神仏習合の寺院で、この時期に仏教的な施設が撤去されたところが多いのである。

それにしても、鶴岡八幡宮のホームページにも、石清水八幡宮のホームページにも、神仏分離のことは一切記述にない。宇佐八幡宮のホームページには神仏習合のことが少しだけ書かれているが、神仏分離のことは書かれていない。

真実は、表の歴史だけではわからないものである。


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コメント

2017.08.07 ( Mon ) 06:19:07 |  ましら | URL |  Edit

いつも興味深く拝見させて頂いております。

宇佐神宮は菩薩号についても併記されており、めずらしい例ですね。他にめずらしいのは熊野本宮大社ですね。現在でも権現号および本地仏を否定せず祀っているようです。もっとも各地の熊野神社も本宮と同じく、というわけではないようですが。

あと、私は昨年より神仏習合時代の各神々に関連するデータ、写真、神社仏閣、関連リンクなどをまとめたサイトを作成しておりまして、ぜひ相互リンクをお願いしたいのですがよろしいでしょうか。
Re: タイトルなし
ましらさん、サイト拝見させていただきました。良く調べておられるので感心しました。
これから訪問する際に、参考にさせていただきます。

相互リンクの件、了解しました。
 
ご返信いただき恐縮ですm(_ _)m

さっそくリンクを貼らせて頂きました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

サイトについて、当初は実家のある香川の金毘羅さんを調べているうちに神仏分離のことを知るようになり、
金毘羅さんのみをまとめたサイトを作る予定だったのですが、
日本全国似たような事例が多いので、歴史に埋もれてしまったかつての信仰を少しでも知り、そして多くの人に知ってほしいと思い、範囲を広げました。

まだまだページが少ないですが、徐々に増やしていこうと思っていますm(_ _)m
Re: タイトルなし
ましらさん、コメントありがとうございます。
良く調べておられるのに感心しました。これから訪問する時に参考にさせていただきます。

相互リンクの件は了解しました。



京都四条大橋の話

2009年11月26日 | 廃仏毀釈・神仏分離

 京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。

 福本武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。
http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.html

『…鴨川にかかる数ある橋のなかでも、四条大橋は、すでに明治の初めから特別あつかいされてきた。木造だった橋は、明治七年、最初の鉄橋として生れかわっている。
 京都で唯一の鉄橋を誕生させたのは、京都府と祇園の町衆だが、隠れた生みの親は廃仏毀釈という社会的現象なのである。
 仏教を排斥する廃仏毀釈は明治五年ごろからはじまっているが、そのきっかけは維新時にさかのぼってみることができる。明治新政府のスローガンは王政復古、祭政一致であるから、まず天皇の絶対性を確立しなければならなかった。明治元年の神仏分離令はその具体的あらわれである。それが引き金になって国家宗教として権勢をほこっていた仏教は、神道にひれふさなければならなくなった。
 廃仏毀釈は全国的なものだったが、仏教の本山をかかえる京都は大騒動であった。とくに 「神さん」と 「仏さん」が、ごちゃまぜになった神仏合体の神社は、きびしい選択を迫られた。
 たとえば北野天満宮は北野神社と改称、社内の仏像をとりはらい、二重塔をうちこわした。石清水八幡宮も男山神社と改称させられている。もともと 「八幡さま」をまつりながらも仏教的な色彩の強い神社で阿弥陀仏などの仏像が安置されていた。京都府はそれらをすべて撤去させ、諸坊のとりこわしを命じた。「祇園さん」も例外ではなかった。それまでは 「感神院」あるいは 「祇園社」とよばれていたが、八坂神社と改められた。社僧は俗名に改めさせられ、薬師如来などの仏像は移管された。神仏合体の神社はいずれも「仏さん」部門を切り捨てて命脈を保ったのである。
 廃仏毀釈というリストラの嵐のなかで、多くの寺院が廃寺に追いこまれ、本尊の仏像だけでなく仏具や什器類まで没収された。府庁に次つぎと運びこまれた金属製の仏具類、それが四条鉄橋の鉄材に再利用されたのである。…』(引用終わり)

なんと、四条大橋は明治七年に廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたのである。その後、市電の開通に伴う道路拡張のため大正2年に架けかえられたが、水害で再度架けかえられることになり、昭和17年に完成したのが現在の四条大橋である。

いろいろ古い写真をネットで探すと、明治時代の四条大橋の画像が見つかった。


この時代の京都人は四条大橋が廃仏毀釈と関わりがあることを知っていたであろうが、今ではこのような事実を知っている人は少ないのではないだろうか。
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Comment(FC2)
廃仏毀釈と鉄需要
2014.10.18 ( Sat ) 06:19:36 | のっぷさん | URL | Edit
楽しく拝見しております.
当時鉄砲を作るため大変な鉄需要があって、需要を賄うために、廃仏毀釈の流れに乗って「鉄の多い仏像」を狙ったとは考えられないでしょうか.四条大橋になったというのは、当時一流の隠れ蓑ではないでしょうか?鹿児島、関西で特に鉄の需要が多かったので廃仏毀釈が盛んだったのでは?抽象的な話の下には、必ず現金な考えがあるものだと思います.


Re: 廃仏毀釈と鉄需要
2014.10.18 ( Sat ) 08:18:04 | しばやん | URL | Edit
鋳造仏像ではほとんどが銅を用いていますし、鉄は加工しにくく錆びやすいので、用いていないと思います。

他の記事を読んで頂ければわかりますが、関西で特に廃仏毀釈が盛んであったというわけではありません。
廃仏毀釈は全国的な現象でしたし、薩摩藩や苗木藩などではすべての寺院が廃寺にされました。


Re: Re: 廃仏毀釈と鉄需要
2014.10.21 ( Tue ) 06:00:56 | のっぷさん | URL | Edit
しばやんさん、的確に誤りをただしていただきありがとうございました.誤解を与えるような発言申し訳ございませんでした.


消えた門跡寺院

2009年11月24日 | 廃仏毀釈・神仏分離

江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。この本は国際日本文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html



京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。

たとえば、「照高院」という門跡寺院が左京区に存在していたのがなくなっている。門跡寺院というのは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院のことで、親王(天皇の子供、孫)または法親王(出家後親王の宣下を受けた皇子)が住職として居住するのは仁和寺、大覚寺、三千院など13の寺院しかない(宮門跡、あるいは十三門跡)のだが、そのうちの一つがこの「照高院」なのである。

このお寺はもともとは桃山時代の文禄年間(1592~96)に豊臣秀吉の信任が厚かった道澄上人が東山妙法院に創建した寺院であったが、方広寺鐘銘事件に関連して取り壊されてしまい、その後江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受け、門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に「照高院」を再建されたのである。



「拾遺都名所図会」では、「照高院」については11行も記述され、照高院で詠まれた和歌なども紹介されているのだが、このお寺が今は存在しない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_406.html

ではなぜこのような由緒のある「照高院」が明治時代に取り壊されるに至ったのか。

ネットでいろいろ調べると「照高院」の再建以来、道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て明和7(1770)年以降は寺領その他一切が聖護院門跡の支配にゆだねられ、それから約百年の間は法主が置かれなかったようである。
明治元(1868)年になって聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させたが、明治3年智成親王を還俗させて照高院を北白川宮と改称したという複雑な経緯が書かれている。
その後明治5年に智成親王は若くして薨去(17歳)され、遺言により御実兄能久親王が北白川宮のあとを継いだが、宮家が東京に移転し、能久親王は明治3年からプロイセンに留学のため日本を離れており、明治9年に帰国を命じられるまでにほとんど日本に居住していなかったことから、明治8年に照高院の堂宇は撤去されることになったらしいのだが、なぜ由緒ある立派な建物が撤去されなければならなかったのかが、これだけ読んでもよくわからない。

いろいろ調べていくと、明治維新のころの宗教政策に辿り着く。
中学や高校で日本史を学んで「廃仏毀釈」という言葉は知っていたが、詳しく調べるとその実態は私が想像していたレベルをはるかに超えていた。歴史あるお寺が沢山残っている京都や奈良ですらその破壊も相当なものであったが、佐渡、土佐、富山、津和野、薩摩藩などは特に激しく、薩摩藩では島津家の菩提寺であった福昌寺を含め1661ものお寺が破壊されていることをつい最近知った。 この時期に全国の寺院の約半分がなくなっているらしいのだが、歴史の暗い部分は、通史を読むだけではなかなかわからないものだ。

たとえば、薩摩藩では次のサイトで南日本新聞に連載された記事を読むことができる。
http://myoenji.jp/haibutukisyaku.html

何故明治3年に照高院を北白川宮と改称し、智成親王を還俗させたかは、明治政府の次の布告や施策と関係がありそうだ。

明治二年 寺院の宗旨人別帳を所属藩に提出させる(行政官布告)
      …国民の戸籍を政府が寺院から奪取
     寺院堂上から菊の御紋を禁止(行政官布告)
      …門跡寺院も紋章を使えなくなった
     明治天皇の東京奠都
     神祇官を太政官の上位に置き、祭政一致の体制を確立
明治三年 大教宣布の詔…廃仏運動が全国に広がる
     富山藩主が一宗一ケ寺の令を出し、領内大多数の寺院を廃毀

もし「照高院」が門跡寺院として残っていれば、北白川が観光地になっていたことはほぼ間違いないだろう。
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BLOGariのコメント

2014年06月03日(火) 04:04 by みぃにゃん  コメント削除
醍醐寺五門跡さまや、准門跡さまたる、真宗五門跡様などは、実質的には限りなく、やんごとなきお方ですが、
御皇族と、外戚に限るような、法親王様、入道親王様、(何れも、内親王様を含めて)とは異なりますね。
とても、調べるのも難しいみたいです。

2014年06月03日(火) 07:59 by しばやん
ブログを始めたばかりのなつかしい記事にコメントいただき、ありがとうございます。

あまり詳しく調べた事がないのですが、次のURLが京都の門跡寺院をまとめています。
http://www.xn--1lq080npta.jp/Temple/JikakuMonsekiJiin.html