しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

四万十川上流を進み松葉川温泉へ~~高知旅行2日目その3

2010年05月29日 | 高知県歴史散策

岩本寺と高岡神社を見た後、四万十川上流を走る。

四万十川は全長が196kmで四国では最も長い川である。
また柿田川、長良川とともに日本の三大清流と呼ばれ、日本の秘境100選にも選ばれている。また、「日本最後の清流」等と呼ばれることも多い。

こんなに有名な「四万十川」という名前は昔から変わらないとばかり思っていたが、この名前がこの川の正式名称になったのは意外と最近であることを知って驚いた。
例えば宝永4年(1708)の「土佐物語」という本には「四万十川 わたりがわ」と記されているそうで、昔はこの川を「わたりがわ」とよく呼ばれていたらしい。「四万渡川」と書かれた事例もあり、それが略されて「渡川(わたりがわ)」の名称が生まれたものと思われるが、旧河川法では昭和3年に「渡川」をこの川の法律上の正式名称に採用したそうだ。昭和39年の新河川法でも名前をそのままにしている。ということは平成6年7月に「四万十川」と改名されるまでは「わたりがわ」がこの川の正式な名前であったのだ。



岩本寺のある旧窪川町あたりは四万十川の上流にあたるのだが、意外と海にも近い。窪川駅から海までは直線で10km程度しか離れておらず、四万十町の興津海水浴場は白くキメの細かい砂浜が東西2kmにも及ぶ遠浅の海水浴場で、平成18年に環境省が「日本の快水浴場100選」に認定している。上の写真は興津峠から見た興津海水浴場だ。

また四万十町には樹齢700年のヒロハチシャの木という国指定の天然記念物の大木がある。



植物知識の乏しい私には初めて聞く名前であったが、この木は九州以南の低地にみられるが、この四万十町の木が最北端のものだそうだ。風害で主幹に大きな空洞が出来ているが、手厚く保護されており、よく繁茂している。

ところで四万十川には「沈下橋(ちんかばし)」と呼ばれる橋がいくつも架かっている。 「沈下橋」とは、河川敷と同程度の高さに架けられるために、水位の低い時は橋として使えるが、増水時にはこの橋は水面下に沈んでしまう橋のことである。
もし増水時に流木などが橋にひっかかると橋が流されたり、川がせき止められて洪水の原因になったりするので、水の抵抗が小さいように橋に欄干がないというのは合理的だし、もし橋が流されても建築コストは余りかけなくて済むように出来ている。



上の写真は四万十川の最も上流にある一斗俵(いっとひょう)沈下橋で、四万十川にかかる現存の沈下橋の中では最も古く(昭和10年築)、国の登録文化財に指定されている。



一斗俵沈下橋を渡ってみたが、幅は2.5mとかなり狭い橋だった。自転車で渡れないこともなさそうだが、バランスを失うと簡単に川に転落してしまいそうだ。

Wikipediaによると1999年の高知県の調査で、全国各地の一級河川にこのような沈下橋が410箇所あり、そのうち高知県に69箇所と一番多く存在し、ついで大分県(68箇所)、徳島県(56箇所)、宮崎県(42箇所)の順だそうだ。四万十川にはこのような沈下橋が47箇所かかっているそうで、高知県の沈下橋の約7割は四万十川にかかっていることになる。

車のない時代は、大半の橋がこのような橋だったのだろう。美しい里山と美しい四万十川に沈下橋はよく調和して、日本の原風景を見ているような気分になる。このような風景を是非後世に残してほしいものである。

一斗俵沈下橋あたりは田園風景が広がり、仁井田米に代表される県内有数の穀倉地帯でもあるが、開墾の歴史は洪水と灌漑の歴史でもある。明治23年の四万十川の洪水のあと、野村成満翁がこれ以上農民に負担を課すことは忍びないとして、田畑を売却し私財を投じて手掘りで完成させた法師の越山水路トンネルは約100年間この地域を洪水から守り、水田に水を送り続け、農地の拡大に寄与したそうだ。
平成16年に国の補助を受けて野村翁が掘ったトンネルの横に新しいトンネルが完成し、野村翁の偉業をたたえる碑が建てられている。



四万十川上流をさらに進むと、松葉川温泉という温泉がありそこで宿泊。
ホテルは四万十川源流の日野地川沿いに建てられている。

ここまで来ると、本当に静かで、素晴らしい山の景色を見て川のせせらぎや鳥のさえずりを聞きながらゆったり入る露天風呂は最高の気分だった。有名観光地の豪華な施設とは違うが、こんな山奥に来ればこのような施設の方が心も体も癒されて良い。
泉質も良く、料理もおいしく、親戚と一緒に飲んだお酒もおいしくて大満足の一日だった。


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四国霊場第37番札所岩本寺と高岡神社~~高知旅行2日目その2

2010年05月25日 | 高知県歴史散策

坂本龍馬記念館から高知県高岡郡四万十町にある親戚宅に向かう。

「四万十町」という町は平成18年3月に高岡郡窪川町、幡多郡大正町・十和村が市町村合併によってできた町であるが、平成17年に中村市と幡多郡西土佐村が合併してできた「四万十市」とは異なる。大雑把な言い方をすると、四万十町は四万十川の上流地域を含み、四万十市は中・下流地域を含むのだが、四万十市の中に中村四万十町があったりしてややこしい。
ついでに言うと高知県には土佐市があるかと思えば別に土佐町がある。これも市町村合併でできた名前だが、旅行者には紛らわしい。

話を元に戻そう。
桂浜から一般道で須崎市を抜けて「四万十町」に入った。窪川駅の手前を右折し四万十川を渡ると、のどかな田園風景となり、親戚の家はその風景の中にあった。

「自宅で皿鉢(さわち)料理を是非」と誘われて、生まれて初めて土佐の有名な皿鉢料理なるものを御馳走になり、新鮮な魚や自然素材を活かした料理とあふれんばかりに盛り付けられた豪華さに感激した。あまりにすごい分量でとても食べ切れず申し訳なかった。



食事を終えてから、車で近隣の観光地などを巡ることになった。
最初に案内していただいたのは、四国八十八箇所霊場第37番札所の岩本寺。

この寺は、思ったよりも境内は狭く、本堂などの建築物もかなり新しい。



上の写真は本堂だが、これは1978年に新築されたものである。本堂の天井には画家や一般市民が書いた575枚の天井絵が飾られている。花鳥風月の絵に交じって、マリリンモンローの絵もあるそうだが見落としてしまった。



建物は新しいのだが、この寺の歴史はかなり古い。

天平年間(729~749)に行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて福円満寺を建立し、さらに「仁王経」の「七難即滅、七福即生」を祈願し、天の七星を象って仁井田(現四万十町窪川近辺)に宝福寺・長福寺などの六つの寺を建立し、合わせて仁井田七福寺と称したという。

その後弘法大師が弘仁年間(810~823)に五社五仏を建立し、福円満寺などは先の七福寺と合わせて、仁井田十二福寺と称し、五社は仁井田五社と呼ばれて神仏習合の霊場として栄えたとされる。

仁井田五社とは四万十町仕出原にある現在の高岡神社のことで、今も鳥居と社殿が五か所に分かれている。
弘法大師が高岡神社の一の宮に不動明王、二の宮に聖観音菩薩、中の宮に阿弥陀如来、四の宮に薬師如来、森の宮に地蔵菩薩を本地仏として安置したとされるのだが、神仏習合の時代はお寺と神社の違いがあまりはっきりしていなかったようで、現代人には理解しづらい。

享禄から天文の頃(1528~1555)福円満寺が火災で廃寺となり、当時金剛福寺の住職であった尊海法親王が窪川に岩本坊を建立し法灯を継がせたが、岩本坊も天正年間(1573~1592)に焼失し、僧釈長が再興して岩本寺と改称した。
以来、岩本寺が仁井田五社の別当となり、巡拝者は仁井田五社(高岡神社)の中の宮に札を納めた後、岩本寺で納経を行ったという。下の写真は高岡神社の中の宮である。



ネットでいろいろ調べると江戸時代の承応2年(1653)に澄禅大徳という高僧の書いた「四国遍路日記」という本があるようだ。現存している最古の遍路日記だそうだが、当時は八十八箇所という番号も固まっていなかったらしい。

この本によるとこの高僧が岩本寺ではなく仁井田五社(今の高岡神社)に参拝したと書いてある。
「扨、五社の前に大河*在り、少し雨降りければ五日十日渡る事なし。舟も橋も無くして第一難所なり。洪水には五社の向かいへ坂中より札を手向け、伏し拝みて過ぐなり。折節河浅くして漸く歩渡り、東路の大井川に似て石高く水早し。渡り悪き河也。而して五社に至る、青龍寺**より是まで十三里なり。
 仁井田の五社***、南向き、横に双びて四社立ち給ふ。一社は少し高き所に山の上に立つ。何れも去年太守より造宮せられて結構也。札を納め、読経念佛して又件の川を渡りて跡へ帰りて、窪川と云ふ所に一宿す。此の所は太守の一門山内伊賀守城下也。一万石の領地也。町侍小路など形の如く也。」
*四万十川のこと **土佐市宇佐町にある36番札所 ***現在の高岡神社

お遍路さんが札所で般若心経を唱えたあとに札所のご詠歌を唱えるならわしだそうだが、四国霊場第37番札所岩本寺のご詠歌は、
「六つのちり、五つのやしろ あらわして ふかき仁井田の 神のたのしみ」である。
(六塵[色、聲、香、味、觸、法]を無くすことで、山深き仁井田郷の、五社様にお祀りしている、神様・仏様がお歓びになります) 

こういう経緯は調べて初めて分かったが、お遍路さんも高岡神社にお詣りしなければ、このご詠歌の意味はよくわからないのではないか。

ところが、明治に入って神仏判然(分離)令により岩本寺は仁井田五社と分離され、廃仏毀釈で大師堂のみを残して寺領の大半を失ってしまい岩本寺は廃寺となってしまう。

一時期は御本尊が愛媛県の八幡浜に移され、37番の札所が2箇所並立していた時期もあったようである。大正7年に四国を巡礼した高群逸枝の「娘巡礼記」という本には、八幡浜の吉蔵寺に37番札所の本尊と納経の版が伝わっていることが書かれているそうだ。



明治22年(1889)に岩本寺は再興され、それぞれの寺院の本尊を一堂に集めて一つの寺院として復興させたことから五つの異なる仏像(阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩)を全て本尊としているそうだ。ちなみに本尊は秘仏で60年に一度開帳されるそうである。(つづく)
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桂浜、坂本竜馬記念館を訪ねて~~高知旅行2日目その1

2010年05月22日 | 高知県歴史散策

ホテルを早目に出て、朝一番で桂浜に向かう。

桂浜には10年程前に一度バス旅行で訪れているのだが、短い時間の滞在であったので、今回はゆっくり散策して、前回行かなかった「坂本龍馬記念館」も見てみたい。

桂浜の上竜頭岬の高台に有名な坂本龍馬像がある。



この像は宿毛市出身の彫刻家本山白雲の制作によるもので、本体の高さが5.3mで、台座の高さと合わせると13.4mにもなる大きなものだ。

この像の経緯を調べると非常に興味深いので、次の高知新聞のサイトを一読されることをお勧めしたい。何の信用もない一学生の思いが、多くの人を動かし、県や国を動かした感動のドラマである。
http://ns.tosasearch.com/ryoma/ryoma005.htm

簡単に記すと、大正15年に坂本龍馬に心酔していた早稲田大学の学生の入交好保(いりまじりよしやす)が、龍馬の功績を世に残そうとして日本一大きな銅像を建てることを決意し、同じ海南中学の同窓である友人らとともに「坂本先生銅像建設会」を発会し、新聞で仲間を呼びかけたことから始まる。

仲間とのつながりから、土佐の交通王と呼ばれた野村茂久馬の支援により乗合自動車のフリーパスを入手し、入交らは夏休みに無銭旅行をしながら県内を遊説して募金活動を開始した。

また入交は幕末の志士で龍馬とも交友のあった田中光顕伯爵にも会い、伯爵の働きかけで秩父宮殿下から200円の下賜金を頂いた後は、県も態度を変えて寄付金集めに動き出した。 そして入交らはついに2万5千円(現在の70-80百万円)の資金を集め、龍馬像制作のめどをつける。

制作や搬送にも大変な苦労があったが、詳しくは先程紹介したサイトを見ていただきたい。 とにかく龍馬像は完成し、昭和3年5月27日(海軍記念日)に除幕式が行われた。その時は当時の内閣総理大臣であった田中義一をはじめ錚々たる人々が出席し祝辞を述べたそうだ。

先程のサイトには除幕式のシーンを次の言葉で結んでいる。 「幕が取り払われ、龍馬が姿を現すと、群衆はどよめき、青年たちは涙したという。運動が実を結んだ瞬間だった。資金も信用もない無名の学生らが起こした大きな渦。それは一介の浪人にすぎない龍馬が国事に奔走した姿とよく似ている。入交自身も後年、高知新聞紙上で「土佐の青年の意気を示す機会であった」と振り返っている。台座には「建設者 高知縣青年」と刻まれている。」

まだ坂本龍馬がそれほど知られていなかった時代に、学生の龍馬を愛する強い思いが国までをも動かしたとは、実に素晴らしいことではないか。

たまたまこの坂本龍馬像のすぐ横で「龍馬に大接近」というイベントが行われていて、この龍馬像の東側に特設の展望台が作られていてここを上ると真横からこの龍馬像を見ることができるようになっていた。こういうことは昔から大好きなので早速入場料100円を払って薄い鉄板でできた階段を登り始める。



上の写真は、特設展望台の上から龍馬と桂浜を写したもの。下から見る龍馬像とは一味違う龍馬の表情を見ながら、太平洋を龍馬と一緒に眺める気分は格別であった。

このイベントは4月3日から5月31日までで、あと1週間もすればこの特設展望台が撤去されるのだろうが、もし今月中に桂浜に行く予定がある人はここに登ることをお勧めしておきたい。

ついでに、この特設展望台は龍馬像の東側にあるので、写真を撮るのなら逆光にならない午前中が良い。

桂浜を散策後、車で坂本龍馬記念館に向かう。
今年はNHKの大河ドラマの影響が大きく、入場者は例年の3倍ペースで、GW中には平成3年の開館以来初めて入館待ち時間制限が行われたそうだ。



16日(日)の開館直後の時間に到着したが、その時間で駐車場は大半が埋まっていて、館内も人が一杯だった。

見どころは地下二階に展示されている龍馬の手紙。達筆な字のためとてもすらすらとは読めないが、わかりやすいように翻刻文と口語訳文とが併記されており、姉の乙女に宛てた手紙などはなかなかユーモアがあって暖かい龍馬の人柄が伝わってくる。他には高杉晋作から送られたというピストルや、暗殺現場の近江屋に残された血痕のついた掛け軸(複製)など貴重な資料が展示されていた。



2階には様々なパネルの展示や近江屋の実物大の模型等があり、全てを見終わるとガラス張りの空間となり、雄大な太平洋が一望に広がる。外見はモダンアートのようだが、龍馬の生涯を辿ったあとで、龍馬が何度も見たであろう太平洋を最後に眺めて幕末の時代にしばし思いを馳せることを想定して、うまく計算され設計された建物だと思った。(つづく) 
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BLOGariコメント

いつもお立ち寄り有難う御座います。
何をくよくよ川端柳
        水の流れを見て暮らす・・・・
人の一生なんざ機会で決まるものさ人生流転の・・・
龍馬語録、好きな言葉です・・・・・・・
情熱と勢い夢と生き甲斐、人間関係、男の本懐等々、
乗り越え二本の夜明けにふさわしい日本人だと思います。
私、高知へ足を運んでおりませんが・・・・司馬文学を読み
司馬文学の龍馬の明晰な人間智は動かしがたい心得
として伝えられておりますね。
テレビ画像で見る桂浜の龍馬像、多額の費用とは・・
知りませんでした。折あらば高知へ足を運びます。
しばさん・・ありがとう勉強になりました。
 
 
鮎さんのサイトは時々訪問させていただいています。素晴らしい写真と、簡潔な言葉で癒されるサイトです。

さて、龍馬像の件ですが、実は、旅行をする前は龍馬像がどういう経緯で建てられたかは何も知りませんでした。
たまたま龍馬記念館売店で「龍馬読本」という本が目に止まり、著者が入交好保で帯に「土佐の高知の桂浜に坂本竜馬の銅像を建てた青年」と紹介があったのに興味を覚えて、思わず買ってしまいました。

この本には銅像の経緯はほとんど書かれていませんが、旅行を終えてネットで調べるといろんな記述があり、読んでいて何度も目頭が熱くなりました。
龍馬像は地元の名士が建てたものではなく、高知県民をはじめ全国の龍馬を愛し国を愛する人々の思いが結集されて出来上がったものだったのです。

この記事をほとんど書き終えてから、高知県在住の方が入交好保氏のことを詳しく書いておられるブログを見つけました。入交氏には「忘れえぬ人々」という著書があり、その中に銅像建立のことが詳しく書かれているようですが、このブログを読むだけでも入交氏の行動力のすごさがわかります。
このブログはお勧めです。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-1a10.html
 
 
ブログで私の記事をご紹介いただきありがとうございました。
 わたしは高知在住ですが、高知で「坂本龍馬」と騒いでいる連中が大嫌いでした。

 どうしてかといいますと自分たちは保守的なクセに、龍馬を免罪符にして進歩派ぶる親父が多いからです。龍馬をだしに酒を飲んでいるだけ。

 幕末・維新の志士たちが料亭遊びをしていたのは、命をかけて奔走していた時に、僅かな息抜きだったのです。そこだけ真似して酒だけ飲む姿勢が嫌でした。

 昭和のはじめの入交好保さんは社会運動家だし、本当に夢を実現した人。そして謙虚。はじめて尊敬に値する人でした。

 「龍馬伝」の事実はフィクションも多いですが、好く出来ているとは思いますね。

 桂浜の龍馬像の建立者に「高知県青年一同」と書いている謙虚さを特に見ていただきたいです。
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。

今回の旅行から帰ったの後に、龍馬像の建立の経緯を知り、ブログの記事をほとんど書き終えたのちにけんちゃんのブログの記事にたどりついて、読んでいるとまた目頭が熱くなりました。

はじめてブログを読ませていただきましたが、郷土を愛し国を愛していなければ書けないような記事が一杯詰まってます。
これからも時々覗かせていただきます。
 
 
【リンク報告】
はじめまして。カミタク
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
と申します。

 私が運営しておりますホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内の「高知温泉・観光案内」ページ
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KOCHI_ON.HTM
内のサブ・コンテンツ「高知県立坂本龍馬記念館訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KOCHKN02.HTM
から、貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

 今後共、よろしくお願い申し上げます。



高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて~~高知旅行1日目

2010年05月19日 | 高知県歴史散策

四万十川上流の高知県高岡郡四万十町にある親戚宅を訪ねることになり、自分の車を使って家内と二泊三日で5月15日から四国を旅行してきた。

四国には10年ほど前にバス旅行で行ったのだが、1泊旅行だったので足摺岬と中村と桂浜を駆け足で巡っただけだった。今年に入って祖谷と金毘羅さんを巡ったことはこのブログでも書いたが、高知県内を車で走るのは初めてだ。

5月15日、車で吹田の自宅を早朝に出て11時半ごろに高知城近辺に到着。



まず早目の昼食をとることにして「まっぷるマガジン」にでていた「うなぎ屋せいろ」という店で「ひつ御膳」を頂いたが、ここのうなぎはサクサクとした歯触りでとても旨かった。高知城に近いので、同店の契約駐車場に車を置いたまま高知城に徒歩でいけるロケーションも良い。



そこから歩いてすぐの高知城に行く。
高知城をバックにして立っている銅像は板垣退助である。

高知城は関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、慶長6年(1601年)大高坂山に新城の築城工事を始め、慶長8年(1603年)に城の大部分が完成し入城したのだが、享保12年(1727年)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失し、宝暦3年(1753年)までに創建当時の姿のまま再建されたと言われている。



そもそも日本の城のうち、江戸時代より以前に建設され、現在まで天守閣が残っている城は、高知城を含めて12しか存在しない。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/tensyu1.htm 

幕末から明治にかけての戦乱でいくつかを失い、また明治六年の廃城令で財務省に所管が移り多くの天守閣が破壊されている。財務省に所管が移されたということの意味は、学校敷地等として売却するための用地とされたということであり、この時に高知城全体が高知公園となり城郭の一部が取り壊されたのだが天守閣は残された。今も高知城は財務省の所管であり、財務省から無償で土地を借り受けて高知県が運営しているようである。



第二次世界大戦でも名古屋城や水戸城、大垣城、和歌山城、福山城、広島城、岡山城などが消失したが、高知市も昭和20年7月4日にB29の120機(諸説あり)の編隊が大量に投下した焼夷弾で市街中心部の大半が焦土と化した高知大空襲があり、他にも度重なる市内の空襲があったのだが、高知城が破壊されずに残ったことは本当に奇跡的なことである。上の写真は高知駅からはりまや橋につながる大通りのあたりの空襲直後の写真である。



高知市は中心部には城山の他に高い山はなく、高知城天守閣からの眺めは好天にも恵まれて素晴らしかった。上の写真は、天守閣から東の方角を眺めたものだが高知市内は山が少なく、最上階からは市内を遠くまで見渡すことができる。

つぎに、会社の仲間が勧めていた国指定史跡・天然記念物の龍河洞(りゅうがどう)に行く。 龍河洞は三宝山の中腹にある石灰洞窟で日本三大鍾乳洞の一つである。



三大鍾乳洞とは山口県の秋芳洞と岩手県の龍泉洞とこの龍河洞を指すが、ここは秋芳洞のスケールの大きさと比較するとかなり小規模である。しかしながら、人がなんとか通れるような狭い空間を通り抜けながら、「あっ」と驚くような大自然の造形物に遭遇したり、階段を上りながら冒険をしているような気分を感じさせてくれて、出口までの50分間はなかなか楽しかった。

出口の近くには、弥生時代に人が居住していたらしく、洞内から数十点の弥生式土器や炉跡、木炭および獣骨などが発見されており敷地内の龍河洞博物館に展示されている。 


また、洞内に弥生式土器と地面とがくっついたまま鍾乳石化したものがあり、これは「神の壺」と命名され龍河洞のシンボル的存在となっている。

龍河洞を楽しんだ後、車で約10分ほどで「龍馬歴史館」に着く。ここは、坂本龍馬の33年の生涯を26シーンに分けて、蝋人形で表現されており、幕末の歴史の勉強になる。ほぼ等身大の蝋人形はなかなかリアルで臨場感があった。



初日はさすがに疲れたのでこのあと宿泊先の土佐ロイヤルホテルに向かった。このホテルには岩風呂の温泉のほか室戸海洋深層水の露天風呂があり、ゆっくり入って旅の疲れが吹っ飛んだ。(つづく) 
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